第1章 逢うは別れの始め

第1章(1/11)

 時に帝暦一九二三年――応天十二年。

 これは、八洲帝国が人類史上初の世界大戦を戦い終えて、まだ間もない時代の物語である。


     ◆


 八神駛良が下宿屋〈昼晴ひるばれ荘〉に帰り着いた時、既に夜は明けていた。


 三月十九日、月曜日。但馬陽大尉による旅団長暗殺未遂事件の翌朝だ。

 城内を震撼させた昨夜の一件は、但馬が自害したことで一旦収束したが、諸々の事後処理に追われて、今の今まで帰らせてもらえなかったのだ。徹夜明けで眠いことこの上ない。


 ふぁあ、と駛良は欠伸を噛み殺す。口許から零れた吐息が白く濁る。三月も終わりに差し掛 かって、春が程近い頃合いと言えど、明け方はまだ冷える。

 白亜の石壁を回り込んで、建物の裏口――下宿階へ至る階段口に向かおうとしたが、


「……腹、減ったなぁ」


 同意するかのように、ぐぅ、と腹の虫が不機嫌な鳴き声を漏らした。

 睡眠欲と食欲が葛藤することおよそ三秒。駛良は独りでに頷くと、踵を返した。


〈昼晴荘〉の建物は三階建てなのだが、その一階部分は〈でろり庵〉という名前の洋風茶屋が営まれている。大家が手ずから料理を振る舞うその店は、〈昼晴荘〉の食堂も兼ねている。

 早朝用モーニングの品書きが並んだ立て看板を横目に、樫材の扉を押し開けると、からん、とドアベルが鳴る。同時、まだ早い時間であるにもかかわらず、眠気を感じさせない快活な声が飛ぶ。


「おはようございます!」


 洋風に設えられた店内の中央で、弾かれたように振り返ったのは、太陽のような目映い笑顔を浮かべた少女――とよ花鶏あとりだ。


 年齢は駛良と同じく十七歳。道端に咲く野菊を思わせる、素朴な愛嬌を備えた娘である。


 小豆色を基調とした銘仙めいせんに、襞飾りフリルの付いた白い前掛けエプロンという、和洋折衷の出で立ち。

 軽快な動きに合わせて、仔馬の尾のようポニーテールに結われた黒髪が、ひょこひょこと揺れる。


 少年の姿を認めた少女の顔からは、途端に営業用の愛想笑いが引っ込んだ。

 入れ替わりに、ぶわっ、と滂沱の涙を溢れ出させる。


「シロくんだぁ……良かったよぉ、生きてたよぅ」


「勝手に殺すな。戦場を生き延びたのに本土で死んでたまるか」


 駛良は溜息を漏らしながら、立ち尽くしたままわんわんと泣く花鶏に近寄る。


「昨日の夜、死人が出たって聞いてたんだもん」


「あー、安心しろ。そいつは俺じゃねえ。今の俺も幽霊とかじゃねえ」


 その〝死人〟の最期を見届けたのは、他ならぬ駛良自身だが、わざわざ花鶏に聞かせるような話でもない。

 手近なところにあった鼻紙を一枚取り上げて、洟を垂らす花鶏の鼻を摘まむと、花鶏はそのまま、ちーん、と鼻をかむ。へへっ、とはにかんだように少女は笑うが、そもそも男の前で鼻 をかまないという恥じらいはないものか。


「まぁ……俺とお前の間でそういうことを言うのも今更か」


 大家の娘にしてこの店の看板娘と評判の花鶏だが、駛良にとっては単なる気の置けない幼馴染だ。おそらく花鶏の方も似たようなことを考えているに違いない。

 昔から心配性で涙もろいところが面倒臭いとも思っているが、何だかんだ言って、気立ての 良い娘だとは駛良も認めている。我が幼馴染ながら真っ直ぐ育ってくれてありがたい限りだ。


「今更って……何が?」


 頭半分ほど低い背丈の少女が、少年を見上げながらこくりと首を傾げる。

 幼い頃から変わらないその仕草に、駛良は淡々と言葉を返す。


「お前に色気がねえって話」


 途端、くわりと花鶏は目を剥いた。涙は瞬時に引っ込んでいる。ころころと忙しく表情を変える女だ。よく疲れないものだと、駛良は妙なところで感心する。


「失礼な!これでも若い将校さんとかに結婚を申し込まれたりするんだよ?」


「へー」


 駛良は気のない相槌を打ちながら、脱いだ外套と軍帽を花鶏に押し付ける。

 実際のところ、花鶏が言い寄られているような場面は何度か目にしたことがあるものの、遂に婚約にまで至ったという話は、寡聞にして覚えがない。おそらくは花鶏の方にその気がない のだろうが――何にせよ駛良には関係のないことだ。

 壁際の帽子掛けコートラックに向かう花鶏の背中に、駛良は言う。


「その時はせいぜい幸せになれよ。祝儀くらい包んでやる。――それと朝飯頼むな」


「ふんだ、わたしが結婚してもシロくんなんて式に呼んであげないんだから」


 花鶏は不機嫌そうに鼻を鳴らすと、厨房の奥へと姿を消してしまった。


 やれやれ、と駛良は定位置にしているカウンター前のスツールに腰掛ける。ここだと腰に帯びている打刀をいちいち取り外さなくて済むのだ。


 頬杖を突いたまま、眠気に任せて瞼を閉じていると、店内に染み通った珈琲の匂いに鼻をくすぐられる。〈でろり庵〉で提供されている珈琲は、梧桐の実を煎った代用品――戦地ではこ れが主流だった――ではなくて、きちんと舶来の珈琲豆を使っている本物だ。


 その心地好い香りに包まれながら微睡んでいたところで、女給の足音に促されて瞼が押し上げられる。人の気配ですぐに目が覚めるのは、戦場暮らしの名残だ。出征していたのはほんの半年程度のことだったが、そうとは思えないほどに濃密な時間だった。


 駛良は軽く頭を振って、脳裏によぎろうとする過去の残影を追い払う。もう三年も前のことだ、今更囚われるべきものではない。


 改めて〝現在〟に目を向けてみれば、花鶏が盆に一汁一菜を載せて運んできたところだった。

 なお、彼女の顔に浮かんでいるのは、営業用の愛想笑いであり。


「お待たせしました、《朝の定食・イ号》になります」


 大盛りの玄米に、豆腐と春菊の浮いた味噌汁、主菜には焼き鮭。何の変哲もない、定番の献立だ。 ――が、駛良は小さく眉根を寄せた。その定食には、肝心なものが欠けていた。


「……お新香は?」


 すると店員の少女は、表情を変えないまま、無情に宣告する。


「わたしの心はシロくんにとても傷つけられたので、罰として今朝はたくあん抜きです」


「なん……だと?」


 少年は愕然と目を見開く。有り得ない。そのような暴挙が許されても良いのか。

 これが先の大戦を生き延びてきた者に対する仕打ちだというのか――。


「何も、そんな世界の終わりみたいな顔をしなくても……」


 呆れ顔になる花鶏にも構わず、駛良は沈痛な面持ちで項垂れる。

 花鶏には解っていないのだ。たくあんを取り上げられるということが、どれほどの悲劇であ るのか――如何ほどの絶望を生むのか。


「知ってるか?三丁目の山田さんな……朝食にたくあんを食べ損ねた所為で、箪笥の角に足の小指をぶつける羽目になったんだぞ。気の毒な話だ」


「絶対関係ないよ。それにどこの三丁目のお話?」


「かの皇帝ナポレオンもまた、たくあんを求めてアジア遠征を目論んでいたっつう説がある」


「なぽ……りたん?ええと、誰?」


「その昔ガリアに居た……って、んなこたぁどうでもいい。とにかくだ、さっさとたくあんを寄越せ。終いには戦争になるぞ」


「なるわけないでしょ! もう、一言謝ってくれればそれで許してあげたのに」


 はぁ、と盛大な嘆息と共に花鶏は肩を落とす。

 むむ、と駛良もまた口許を引き締める。事ここに至ってようやく、花鶏が先ほどの〝色気が ない〟云々という駛良の言を根に持っているのだと気づいた。


 しかし、こうも旋毛を曲げてしまった少女の機嫌は、どう取ったものだろうか。このままではたくあんをお預けにされたままになってしまう。それは何としてでも避けたい。


 時計の秒針が半周する間に考え込んで、駛良はおもむろに口を開く。


「ええと、だな。花鶏。さっきは悪かったっつうのと――」


 のと、の部分で花鶏が小さく首をもたげる。半眼かつ上目遣いで睨んできているが、今更おののいてはいられない。


「桜が咲いたら、花見にでも行かないか?」


 逡巡するような間は一瞬、花鶏は口を窄めながら、


「……まぁ、シロくんが行きたいって言うのなら、付き合ってあげてもいいけど」


「じゃあ決まりだな。つーわけでたくあん寄越せ」


「あぁやっぱりたくあん目当てに謝った振りをしただけでしょう!?」


「うるせえ! いいからとっとと寄越せ!」


 たくあんを巡る二人の丁々発止は、その後、起き出してきた他の下宿人たちに冷やかされるまで続いたのだった。


 ともあれ――花鶏を取り巻く日常は今日も平和だ。


 これで良い、と駛良は思う。些細なことで泣いたり怒ったり笑ったり。民草が――花鶏が日々を憂いなく過ごしていてくれてこそ、武家士族として国を守る甲斐もあるというものだ。


 だから駛良は、誰かに言われるまでもなく〝正義〟を全うする。 ――たとえ、己の身命と引き換えにしようとも。

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