THE JUSTICE -龍敦憲兵分隊特別捜査班-

かいでぃーん

序章

 新月の夜。街灯の少ない軍道に二条の光が射している。


 混凝土コンクリート製の城壁と煉瓦塀に挟まれた通路は、大型の輸送車両一台がかろうじて通り抜けられるほどの道幅しかないが、土瀝青アスファルトで舗装された路面を走るその黒塗りの高級車の運転は滑らかだ。

 一見では民生品と大差ない乗用車。しかしその実、魔力障壁や攻性防壁などといった、いくつもの防御魔法を帯びていることが見て取れる。将官級が乗る送迎車の特徴だ。


 照明の届かない物陰に身を隠しながら、高級車がに収まるのを待ち受けているのは、濃緑色の軍服を纏った若い女――但馬たじまはるだ。

 闇夜に紛れる黒髪を靡かせた女の美貌は、しかし朧月のように翳っていた。


「お命までを頂くつもりはありませんが……最期の不忠をお許し下さい、さき甚三郎じんざぶろう少将」


 詫びるように呟いて、ぱちん、と但馬は指を鳴らす。

 同時、あらかじめ地面に敷設されていた結界が発動。

 魔力が網のように編まれて形を成し、時速四十キロ前後で走っていた自動車をあっさりと絡め取る。急制動を掛けられた車輪が甲高い悲鳴を上げる。


 慌てた様子で車から降りてきた護衛の兵士たちを前に、但馬は直前までの物憂げな表情を押し殺し、さながら悪役のように凄絶な笑みを浮かべる。


退きなさい。あなた方に用はありません。私が狙うのは、真崎少将の命、ただそれのみ」


 但馬の言葉に、兵士たちの間で困惑が走る。

 しかしそれも一瞬のこと。即座に拳銃を抜いた彼らは、何の躊躇いもなく但馬へ向けて発砲する。その判断の速さは、練度が高い証だ。微かに誇らしげな笑みを漏らす但馬。


 銃弾は兵士たちの狙い過たず女に命中したが、しかし女の顔は小揺るぎもしない。

 但馬の身を覆う不可視の結界が、弾丸の勢いを塞き止めたばかりか、その向きを反転させて今度は兵士たちを襲わせる。たちまち手足を撃ち抜かれて、銃を取り落としたり、その場に蹲ったりする兵士たち。

 但馬も、彼らを巻き込んでしまって悪いと思っている。だから撥ね返した銃弾は、急所を避けるよう軌道を調整したつもりだ。


 ややあって、車内から野太くも穏やかな声が紡がれた。


「これは何の真似かな? 但馬大尉」


「真剣に帝国の未来を思えば……いえ、この近衛独立混成旅団を憂えばこそのことですよ」


 その言葉に――信念に偽りはない。だから但馬は澱みなく答えた。

 と、決意の吐露を待っていたかのように、上空を女の唸り声のような警報音サイレンが駆け抜ける。


「失礼します、真崎少将。――閣下の部下であれたことを、誇りに思います」


 真崎の返礼を待つことなく但馬は走り去る。後ろ髪を引かれる思いがなかったとは言わないが、振り切って走り続けた。


 やがて追っ手の気配が現れる。ちらりと背後を振り返るが、憲兵の姿はない。 ――まだだ。まだ捕まるわけにはいかない。

 幸い、時間を稼ぐための逃げ場はいくらでもある。はそういう場所だ。


 但馬が身を奉じるその地は、電灯の橙色の光に縁取られた地上の星。

 約十二万平方メートルにも及ぶ未曾有の超巨大城塞。西洋式五芒星形魔導要塞〈五稜郭〉。

 東京府龍敦ろんどん市――帝都守護を担う軍港都市に築かれた、国防の要衝。

 八洲帝国の誇る、国家鎮護の要である。



 結界の魔法を駆使して追撃を躱しながら、城内を駆け巡ること早一時間。


 但馬の瞳が、不意に黄金色に輝く満月を捉える。いや、それは紙製の棒を差し込まれた小さな飴玉だった。 ――一人の少年が、但馬の前に立ちはだかっていた。


 嗚呼、ようやく彼が姿を現した。但馬の胸が興奮に弾む。それと同時に、やや場違いながら、密かな安堵感を覚えもしたり。


「やっと見つけましたよ、但馬陽中尉?」


 棒付きの飴玉を咥えながら器用に口を動かしたのは、憲兵科特注の黒い軍服に身を包んだ少年だ。何色にも染まらない、公正義勇の〝黒〟。

 年の頃は十七、八ほど。中肉中背で、無骨さよりも物柔らかさを感じる容貌の持ち主。しかしその目つきだけは、山猫のように鋭い。隙あらば喰らいつくという、捕食者の眼だ。


 但馬とその少年の間に直接の面識はなかったが、遠目に窺い知る機会は何度もあったし、彼をよく知る人物から話を聞かされたこととて一度や二度ではない。

 そして実際にその声音を耳にして、やはり、と但馬は内心で首肯する。


 慇懃ながらも、どこか居丈高さを感じるその態度は、少年の孕む揺るぎない自信に裏打ちされたものだろう。隠し切れていない辺りは若さの現れでもあるのだろうが。

 けれども、それこそが但馬が彼に期待していた通りのもの。この少年ならば、きっと――。


 と、不意に少年が懐から紙製の小箱を取り出す。魔具の類いかと一瞬身構えるが、何ということはない、酒保で売っている棒付き飴玉の容器だ。


「一本どうです?」


 そう言って、少年は棒の方を向けて飴玉を差し出してくる。

 降伏勧告を兼ねているのだろう。が、但馬はあらゆる意味で少年の誘いを固辞する。


「いえ、結構です。……たくあん味ですよね、それ」


 眼前の少年には悪いが、発案者の酔狂で作られたとしか思えないその珍味は、但馬の好むところではなかった。心なし少年の顔が本気で残念そうに曇ったようにも見える。

 そうですか、と少年は俯きがちに言って、小箱を大事そうに衣嚢ポケットの中へ戻す。


 そして再び顔が上がった時――年若いその面差しからは、一切の情が消え失せていた。

 少年は、但馬を取り囲む憲兵たちの間から一歩前に出ながら、腰に帯びた打刀の鯉口を切る。


「龍敦憲兵分隊特殊捜査班副班長――がみろう憲兵伍長、推して参ります」


 名乗りの口上が終わるのとほぼ同時、風のようなはやさで抜き放たれた一刀が但馬に迫る。


 燕の舞うが如く、死角から飛び込んでくる逆袈裟。


 瞠目する但馬。即座に展開された幾層もの魔力障壁――その内の数枚は、自動的に発動するようあらかじめ軍服に施術していたものに過ぎない。それだけ、反応が遅れた。


 しかし少年の剣は、まるで粘土に刃を入れるかのように、魔力で編まれた壁を易々と斬り裂いていく。


 瞠目する但馬。有り得ない、その剣は今、斬ったというのだ。


 それでも但馬が紙一重のところで斬撃を食い止めることができたのは、咄嗟に攻性防壁―― 攻撃に反応して無指向性の魔力を激発させる魔力障壁――を仕込んでいたからだ。魔力が弾けることによる物理的な干渉力が、少年の剣筋を僅かに狂わせていた。


 意表を突いたつもりの但馬だったが、少年の双眸はその歳に見合わないほどの静謐さを湛えている。存外に冷静だ。


 振り上げられた刀が、今度は唐竹割りの勢いで斬り下ろされる。

 必殺を期していない――おそらくは但馬の出方を窺うための一手だろう。


 但馬もまた脳内に術式を展開し、高速で演算、手振りを以てそれを現実世界へと引き出す。

 具現されるのは例によって結界。ただし刃を食い止めるためのものではなく、刀を揮う少年の腕を拘束する枷として仕掛けられたもの。


 と、索条のように形成された結界が蛇さながら少年の手首に忍び寄ろうとしたその瞬間、急に少年が後方へ飛び退いた。翼を生やした天狗をも思わせる身軽さだった。

 ぺっ、と少年の口許から白い棒が吐き捨てられる。


「――っと、危ねえ。……噂に違わぬ結界師ぶりですね」


 そう言って少年が不敵に微笑わらうので、釣られて但馬も唇を笑みの形に歪める。しかし女のこめかみには、冷たい汗が伝っている。


 少年は、ただ逃げたわけではない。但馬を捉えるよりも早く振り下ろされた剣閃は、術者でなく放たれた結界の方を斬り裂いていた。回避と同時に追撃を断っていたのだ。


 まだ十代後半に過ぎない少年が、既にこれほどの技倆を有しているという異常。


「あなたこそ……凄まじい腕前ですね。これが先の大戦を生き延びさせた実力ですか」


「買い被りですよ。見ての通り、というだけの、つまらない手妻です」


 但馬としては素直に賞賛したつもりだったのだが、なぜか少年には皮肉として受け取られてしまったようだ。確かに白兵戦以外ではあまり活躍の機会を得られないのだろうが――。

 くすり、と但馬は微苦笑を漏らす。


「いえ、期待していた以上ですよ。八神伍長」


 但馬は少年の足下を目がけて結界を張る。少年が反射的に足を引いたその先には、攻性防壁を敷設。足裏が触れただけの軽い衝撃に反応して、少年の足下で魔力が炸裂する。

 もちろん少年の気を逸らすための――但馬が逃げる時間を稼ぐためだけのものだ。目的を果たすには、ここではまだ人が多過ぎるから。


 空中に結界の足場を作ってそれを駆け上りながら、但馬は少年を振り返る。


「付いてこられますか、八神伍長?」


 あのアマ、と少年の唇が苦々しげに動いたのが見えた。素では口が悪いのかもしれない。少し可愛らしい一面を発見できた気分。


 手近な建物の屋根の上へ降り立った但馬を、駛良は壁を蹴って駆け上がりながら追ってくる。

 やはり翼を負っているとしか思えないような身体能力だ。


「八神伍長の流派は確か封神ほうしん流剣法……ああ、そう言えば〝天狗の剣法〟とも謳われている魔剣でしたね」


 独り言ちて納得した但馬は、少年以外の憲兵たちが追ってこないのを確認して、屋根伝いに走り出す。

 どこへ行く気ですか、とは少年の言。どうやら自分が誘導されていることに気づいているようだ。察しが良くて助かる。


 但馬は少年の問いには答えないまま、なるべく人の少ない地点を目指す。これからやることは、あまり人目に触れさせたくない。


 いや、違う。本当は――見られたくない人物が確実に一人、居るだけだ。


「……っ」


 噛み締めた唇から、鉄の味が滴る。

 幸いにも、今夜のところはこの少年と行動を共にしていなかったようで、本当に助かった。


 程なくして但馬は地面に降り立つ。〈五稜郭〉の片隅に位置する倉庫街だ。


 都合良く袋小路が見つかったので、そこに駆け込む。追ってくる少年が一瞬だけ躊躇いを見せたのは、きっと罠を警戒したからだろう。その用心深さもまた評価に値する。


 無人である倉庫街の照明は点っておらず、星明かりだけが二人の姿を闇の中に浮かび上がらせる。


 今夜は新月。月の光がないため、空一面に広がる星々の瞬きを見晴るかすことができる。

 最期にこのような光景を見ることができたのは、小さな僥倖だったと思うことにしよう。


 但馬は頭上から正面へと視線を動かす。剣士の少年は得物を構えたまま、じっと但馬の動向を窺っている。

 但馬は淡い微笑を浮かべながら、懐から拳銃を取り出す。少年の眉間に皺が寄る。


「――八神駛良憲兵伍長」


 口の端から紡ぎ出された声は、自分でも意外なほどに落ち着いていて。

 こめかみに押し付けた拳銃は、思ったよりもずっと軽くて。

 唯一、少年の驚いた顔だけが、但馬の予想した通りのものだった。


「後のことはお願いしますね。――貴官が〝正義〟を全うされんことを」


 かちん、と引鉄を引いた。

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