白夜のサンタクロース

宮条 優樹

白夜のサンタクロース




 沈まない太陽が、オウナスヴァーラの丘を見下ろしている。

 夏至祭を目前にひかえた六月、州都ロヴァニエミは白夜を迎えていた。


 少年は動かし疲れた足を止めて、真っ白な空を見上げてみる。


 時刻はもうすぐ深夜に差しかかる。

 けれど、見上げた空はまっさらに明るくて、そしてどことなく不穏に陰っていた。

 延々と連なる背の高い白樺の木立が、かすれた声を上げて枝を風にそよがせる。

 振り返ってみると、ついさっき渡ってきたばかりの川が、よく磨いた戦闘機の翼のように、その面を輝かせている。


 少年は大きく息をつくと、再び前を向いて丘を登りはじめた。

 頂上を目指して。


 母親に見つからないように、こっそり家を抜け出してくるのは、思ったよりも簡単だった。

 母親はまだ幼い弟妹たちの面倒にかかりきりだ。

 家の外には不安なことばかりで、すっかり疲れ切ってしまっている。

 そんな母の目を欺いて、一人深夜の散歩にくり出すのは正直気が引けた。

 でも、少年はこらえられなかった。

 もしかしたら、少年はもう二度と、故郷でこの白夜を迎えることができないかもしれなかった。


 こんなときにこそ、父さんがいてくれればいいのに。


 少年は、心に浮かんだ思いを言葉にする代わりに、丘にのびる道を足に力を込めて踏みしめた。

 靴底が、湿った下生えを押しつぶす。


 父親がいれば、母親を支えることもできるし、自分たちが故郷を逃げ出す必要もないのにと、少年は強く信じていた。


 幼いときから何度も、大勢の友人たちと一緒に大騒ぎをしながらくり返し登った丘を、少年は一人で登り切った。

 少しばかり息が切れている。

 足元に、白くぼんやりとしたもやがまとわりついて、それが丘の頂を覆い尽くそうとするかのように広がっていた。


 少年は、揺らめくもやの広がる先を目で追って、怪訝そうな表情を浮かべた。

 誰もいないと思った丘の上に、先客がいる。

 おずおずと近づいていくと、白い太陽が作る木々の影の中に、その人物の様子がはっきり見えてきた。


 丸くて大きな体にまとった赤い衣装。

 服とおそろいの赤い帽子、毛糸の手袋と冬用のブーツ。

 トナカイはつれていないけれど、その親しみ深い姿は間違いなかった。

 その人の目の前までやって来てから、少年は驚きに目と口をまん丸に開く。


 白樺に囲まれたオウナスヴァーラの丘の頂上に、サンタクロースがたたずんでいた。


 サンタクロースは、真っ白な髭に顔のほとんどが埋もれた中から、太い声を出して笑った。


「やあ、トントゥ」


 呼ばれて、少年は戸惑った。

 少年は真っ赤なとんがり帽子も真っ赤な服も着ていない。

 どう見ても、手伝い妖精トントゥには見えないはずだけれど。


「クリスマスにはまだだいぶ早いよ、サンタクロース」

「おや、サンタクロースが夏至を祝ってはいけないかな?」


 夏至のお祭りにもまだちょっとばかり早い。

 そう言おうとしたが、少年が口を開くより先に、サンタロースが尋ねてくる。


「君は一人かい」

「子供が一人で外を出歩いてはいけない?」


 サンタクロースの真似をしてそう言ってやる。

 意地悪するつもりで言ったのだが、サンタクロースは力強く首を横に振った。


「いけないことはないとも。

少年は冒険をするものだ。そうして強くなるものだ」

「……お別れに来たんだ。

もうきっと、ここに来ることはできないから」

「どうして?」

「疎開するんだって、スウェーデンに。

戦争なんだ。僕らの町も、空襲に遭うかもしれないって」


 少年の言葉には悔しさがにじむ。

 戦争。

 どこもかしこも戦争だらけだった。

 世界中が敵味方に分かれて殺し合っている。


 少年は、自分たちの町は、自分たちの家族だけは、そんな世界とは無関係にいられると、信じていたかったができなかった。

 少年の父親が、兵士となって家を出て行ったときから、幸福は夢の中だけのものだった。


 少年は、大きなサンタクロースの姿を見上げて言う。


「サンタクロースも、早く北極に逃げた方がいいよ。

ソ連もドイツも、さすがに北極まで爆弾を落としに行ったりはしないだろうから」

「ご忠告ありがとう。

でも、今すぐでなくてもいいんだろう? 

せっかく出会ったんだ、もう少し君とおしゃべりをしてみたい」

「悪いんだけど、僕は楽しいおしゃべりをしたい気分じゃないんだ」


 言ってから、少年は少し後悔した。

 言い方があんまり思いやりに欠けるように思った。

 けれど、サンタクロースはまるで気にしていない様子で、かえって愉快そうに丸いおなかを揺すりながら笑った。


「いいとも、いいとも。

誰しもそういうときはある。

たくさんの友達に囲まれて楽しくにぎやかに過ごしたい気分もあれば、一人静かに、思い出と悲しみをかみしめたい気分のときも」

「……ねえ、サンタクロース」


 少年の視線が足元に落ちる。

 少し迷って言葉を探して、ようやく少年はサンタクロースのブーツを見つめながら言った。


「おしゃべりはできないけど、代わりに僕のお願い聞いてくれない?」

「もちろん」


 少年の言葉に、サンタクロースは力強くうなずいたらしかった。


「サンタクロースは子供の願いを叶えるためにいるものだ。

遠慮しないで、さあ、何でも言ってごらん」

「僕ね、プレゼントがほしいんだ。

届けてくれる?」

「プレゼントを届けるのは得意だよ。

それで、何を届けてほしい?」

「……僕の、お父さん」


 少年は、うつむいていた顔を持ち上げて、おそるおそる下からサンタクロースの顔をのぞき込んだ。

 サンタクロースは、ふっくらとした微笑みを浮かべて、少年の視線を優しく受け止めている。


「僕のお父さんね、戦争に行ったんだ。

行ったきり、帰ってこないんだ。

でも、きっと帰ってくるはずなんだ。

だけど、僕らはスウェーデンに行かなきゃならなくなったから、もしお父さんが家に帰ってきたとき、誰もいなかったら困ると思うんだ。

だから、お父さんをスウェーデンの僕らのところに、届けてほしいんだよ……できる?」


 必死な顔つきで言いつのり、不安そうに少年は肩をこわばらせている。


 その細く弱々しい肩に、サンタクロースの大きな手が置かれた。

 すっぽりと少年の肩を包み込んでしまうほど大きい手だった。

 その手は、びっくりするほど強い力で少年の肩をつかむ。


「まかせなさい。

必ず、お父さんを家族のところに届けてあげよう」

「本当に?」

「本当だ。だから安心して、君はお母さんのところに帰りなさい」

「約束だよ。本当だね?」


 微笑むサンタクロースが大きくうなずくのを見て、少年はほっと溜息をついた。

 ようやく、不安から解放されたように体の力が抜けて、少年はうっすらと笑うことができた。


 サンタクロースの手が少年の肩から離れる。


「さあ、もう行きなさい」


 少年はうなずいて、サンタクロースに背を向けた。


 二歩三歩と丘を下る道に足を踏み出し、そしてまた振り返る。

 白樺の木立が作った影の中に、少年を見守るサンタクロースが立っている。


「約束だよ。本当だね?」


 サンタクロースがうなずく。

 手を振るサンタクロースに背を向けて、それでも少年は、来た道を逆にたどりながら、何度も振り返り、そこにたたずむサンタクロースに向かって何度も言った。


 約束だよ。本当だね?

 約束だよ。本当だね?


 約束だよ。


 本当だね――。




「――しっかりしろ! おい、しっかりしろ!」


 耳元で叫ぶ声に、少年は震えるまぶたを持ち上げる。


 かすむ視界の中に、爆煙と血で汚れた兵士の顔が二人分、自分の顔をのぞき込んでいるのが見えた。


 二人の兵士の背後で炎と煙が上がっているのが見える。

 間近に聞こえる戦闘機のエンジン音、爆発音――それでようやく、意識が現実に立ち返ってきた。


 夢の中の少年から、戦場の一人の兵士へ。


 緊張と恐怖、いくばくかの使命感に張りつめた表情の同輩たちに対して、返事をしようとしたが口がうまく動かなかった。

 体を動かそうとしたが、腕すら持ち上げることができない。

 こちらを見つめる二人の表情から、ああ自分はもうだめなんだ、と他人事のように思った。


 何とか視線だけで周囲の様子を見回した。

 黒煙におおわれた空が見える。

 空襲は容赦なく、故郷の小さな町に雨のように降りそそいだ。

 白く美しかった教会が、無残に瓦礫と化している。


 サンタクロース。

 ねえ、サンタクロース。


 兵士は思い出の中のサンタクロースに向かって語りかける。

 少年の頃の、白夜の下での思い出。

 だけど今となってはそれは、本当にあった出来事なのか、それとも自分の見た夢か妄想か、いつの間にかわからなくなってしまっていた。


 サンタクロース、お父さんを届けてくれるって言ったじゃないか。

 約束してくれたじゃないか。


 なのに、お父さんは帰ってこなくて、僕は兵士になって故郷に戻ってきて、瓦礫にされた町に押しつぶされているんだよ。


 真っ赤な血を流して倒れる僕は、まるであなたのトントゥみたいだ。

 真っ赤な帽子、真っ赤な服で、サンタクロースをお手伝いするよ――。


「しっかりしろ――!」


 同輩の叫ぶ声が遠くに聞こえる。


 兵士はまぶたを閉ざした。

 頭も体も重たくて、深く深く、地に沈み込んでしまいそうだった。


 見えなくなった目の前に、白夜の風景が浮かんでくる。

 沈まぬ太陽、光る川面、白樺の木立、白く明るい祝祭の季節。

 子供たちの駆ける足音、軽やかな歌声、音楽、夢幻の踊りの輪が巡る。


 その中に、ぼんやりと大きな体の人影がたたずんでいる。

 白い髭に埋もれた顔の中に微笑みを浮かべて、サンタクロースが立っている。


 隣には、懐かしい人の面影を持った男が一人立っていた。

 大きく自分に向かって手を振って、笑っているらしいあの大人は一体誰だろう。


 確かめたい、そばに行って、今すぐあの人に飛びついてしまいたい――兵士は、焦がれる気持ちに身をまかせて、白夜の中に足を踏み出した。


 永遠に太陽の照らす元にある、真っ白な幸福の世界へと――。






               lopuun.

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白夜のサンタクロース 宮条 優樹 @ym-2015

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