第10節:一つの谷の幅

 雨が弱まり、目標地点までの距離が縮まるにつれて、敵の特徴がより具体的になってきた。軍馬の前に立つがっちりとした大男は太い長槍をもたげ、顔を露出した兜をかぶり、金色の浮き彫りの装飾に覆われた鎧を着ていた。予想通り、クリス・ベレッタ大尉だった。その足元には血まみれの団員一人が転がっていた。

 クリスは道の中央に独り立ち、片手を腰に当て、もう片方の手は柄尻を地面につけた長槍を持ち、城門の衛兵と同じ姿勢で立っていた。このような行動をとる者は、橋の向こう側で待ち伏せの部隊を配置する謀略家でなければ、異常にプライドの高い無謀な男だ。エステルは彼が後者だと推測した。大臣が噂話の中でそのことに触れていたからだ。

 盗賊団が近づいてくると見るや、クリスは斥候の足首を冷たくて大きな鉄のブーツで踏みつけ、どれだけ泣き叫ぼうが、一顧だにしなかった。足元の哀れな者に槍を向け、自分の仲間が貫かれる瞬間を見せたいかのように、迫り来るエステルや他の団員に目を光らせたままだった。

 クリスが槍を持ち上げて振り下ろそうとした瞬間、エステルが引き金を引いた。弾丸は鎧に覆われていない彼の手首に当たり、鎖帷子に伝わった衝撃で肉が押され、危うく長槍を手から落とすところだった。

 他の団員からの『矢の雨』がその後に続いたが、クリスはすぐさまもう片手の鎧で露出した顔を保護して射撃精度の高い一、二本の矢を防いだ。無視された残りの矢は体の他の部位に命中したが、少し音を立てただけで効き目はほとんどなかった。

 攻撃が終わると、クリスはすぐに長槍を後ろに引いて、隊列の前方にいる数匹のリトルモアを渓谷に落とす準備をした。しかし、やっとかっこいい構えをとったところで、エステルが銃を投げつけ、その鼻のど真ん中に命中させた。

 クリスは痛みで顔を覆い、悲鳴を上げた。エステルはその隙に残りの団員に引き続き突進を命じ、自分はリトルモアから飛び降りて斥候を救出しようとした。

 しかし、敵は痛みに耐えて前足を踏み出し、標準的な弓歩を終えると同時に、その手で長槍を突き出した。殺意を込めた槍先がある団員のリトルモアを貫き、そのまま騎手の腕に突き刺さった――

 リトルモアも騎手も悲鳴を上げた。人が地面に倒れ、リトルモアは槍に突かれたまま瀕死の状態でもがき苦しんでいた。そして、痛みから回復したクリスに峡谷に投げ落とされた。

 一部の団員がこの状況を見てから、すぐにその場に戻った。一人の団員はリトルモアにその爪で槍を掴ませ、他の団員はクリスの相手をしていた。その団員は団長と共に負傷者二人を救出しようとした。

 だが、やはりクリスも簡単に倒せる相手ではなかった。怪力で自分をけん制していた団員を一掃しながら、エステルに斬撃を繰り出して、彼女が騎乗していたリトルモアの腹を切り裂いた――エステルが斥候を地面に押し倒すのが間に合わなければ、二人はそのリトルモアと同じ結末を迎えていただろう。

「お前の名はよく聞いているぞ、エステル団長!その命、貰い受ける!」クリスは武器を引き寄せ、再び攻撃の構えを見せた。

 エステルはまっすぐにクリスに突進し、長槍に迎えられながら、その両脚の間をすり抜け、背中から肩に登り、四肢で首と兜を締め付けた。

「作戦に変更はない。早くやれ!」と、団長がそう叫んで、次々と繰り出される鉄の鎧で覆われた手を精一杯かわそうとした。

 団員たちは命令に従い、すぐに怪我した仲間を連れて橋の向こう側へと走った。数匹のリトルモアは、クリスの槍の柄や肩にわざとぶつかって、団長の時間稼ぎをサポートした。最後の騎手がクリスの横を通り過ぎると、エステルの手を掴んで、屈強な男の体から彼女を引き離した。

 しかし、クリスは背中に目があるかのようにエステルの足首をつかむと、団員の手から彼女を引き離し、お手玉のように橋のたもとに投げ返そうとした──

 突然、岩壁から一つの黒い影が飛び出すと、クリスの胸に激突し、その胸当てが鐘のように鳴り響いた。

 あまりに激しい衝撃にクリスの体はほとんど宙に浮き、数歩後方によろめいた。エステルはチャンスとばかりに、もう片方の足で足首を掴んでいる指を蹴り飛ばし、なんとか拘束から抜け出した。転がりながら着地して難を逃れた。

 エステルは自分を救った『怪物』を一瞥した。それはまだ混乱していた敵の前にしゃがみ込み、大きく息を吐きながら、とても疲れた様子だった。やや小柄の体で、頭にはフードをかぶり、濡れた大きな麦わら帽子を背負って、手には長い武器を持っていた。

 エステルは頭を左右に振って気を引き締めようとしていたクリスを見た後、騎士団の追っ手が道の端に揃っていたことに気付いた。エステルはすぐにリトルモアの死体のそばに駆け寄り、荷物から二つの小包を取り出して、次の計画を実行する準備をした。

 クリスが自分の頭をたたくと、ようやく目の焦点が合うようになった。目の前の招かれざる客がしばらく攻撃してこないことを確認すると、地面に落ちた長槍を慎重に取り戻した。「こいつもお前らの仲間か?不思議なくらいに強いだな。。道理で今まで誰もお前らに勝てなかったわけだ」

 エステルは何も言わずに、一つの小包の中から二本の瓶を取り出した。うちの一本のコルクを抜いてマッチに火をつけて投げつけると、二本をまとめて橋のたもとの道に投げつけた。

 瓶は音を立てて破裂し、中の液体は燃え盛る炎となった。そして、水たまりに広がって、急速に熱い炎の壁になり、やってきた追っ手を近づけないようにしたのだ。

 クリスは炎の壁の隙間から、必死に手綱を引っ張って、怯えるリトルモアと馬を落ち着かせようとした部下たちが見えた。彼は思わずニヤリと笑い、チェスで素晴らしい一手を見たときのように、心の底から敵に敬意を表した。

「俺たちは似た者同士だな。戦いを有利に進めるために手段を選ばない。それ、『ホーリー・ツリーの樹脂』なんだろ?城が買えるほど高価な異邦の燃料だ」と言ってきた。

「勘違いするな。私は石畳の道でしか使わないんだ。誰かみたいに森で使ったりはしない」エステルはそう言って、別の小包を手に持って、同じようにその中で火をつけようした。

「ダイナマイトだな?内燃式でうまく出来ている。雨で使えなくなる心配がないからな。どうした?それを使って俺を道連れにするのか?」クリスは自分の観察力を誇っているようだった。

「今回は半分正解だ。これは確かにダイナマイトだけど、お前と一緒に無駄死にするのは御免だ」そう言ってエステルは小包を空中に放り投げ、近くに待機していた団員が受け止めた。

 団員は小包を掴むと橋の反対側へダッシュした。クリスは何かおかしいと警戒して目で追ったら、視野が朦朧している中、橋の上に何かあるということに気づいた。

「そ、それは、複数のダイナマイト小包!この橋を爆破するつもりか?」クリスが驚いて叫んだ。

 たくさんのダイナマイト小包は、先に橋を渡った団員たちが残していったもので、最後の任務を遂行するために団長のダイナマイト小包を待っていたのだ。

「そうはさせんぞ!」クリスは長槍を持ちかえて、耳のそばに槍の柄を置いて、槍の先端を団員の背中に向け、鳥と騎手をまとめてくし刺しにしようとした。

 その時、エステルは既にナイフの刃をつかんで、クリスに不意打ちをかける準備をしていたが、一瞬にして頭が真っ白になった。目が見えないのではなく、逆に団員の死が迫っていることで神経が限界まで研ぎ澄まされていたのだ。クリスの動きがカタツムリのように遅く見えて、エステルは余裕で槍を投げるその姿を頭から足まで何回も見た。しかし、どの部位を攻撃したらその動きを阻止できるかわからなかった──

 突然、クリスの体が大きく仰いで、そして前後開脚のポーズになって、股間がほぼ地面と接触した。

「痛っ!」彼は横に倒れながら、両手で自分の鼠径部をギュッと押さえた。

 エステルは、その劇的な展開に驚きつつも、何が起こっているのかわからなかった。そして、『怪物』がしゃがんだ状態から座った状態になり、鉤状の武器がその脇に置かれたのを見て、はっきりとわかった――あの者がクリスの足首を力いっぱい引っ張っていたのだ。

 なぜ助けてくれるのかはわからなかったが、そのおかげで団員が任務を完遂し、橋の中央にダイナマイト小包を置いていくことができた。計画実現のめどが立ったのを確認後、エステルは急いでリトルモアの死体のそばに戻り、リュックの中からフック付きロープを探した。

「ちくしょう!」クリスは這いつくばり、ダイナマイトの山から身を引き離そうとした。

 橋の上のダイナマイトを爆発させたことで、橋体に埋め込んだ火薬を連鎖爆発させた。その威力が橋の下に付けたダイナマイトに伝わった時、レンガから生まれた紅蓮の巨獣は刺すような光を放ち、大量の石塊を吹き飛ばすと、広々とした石橋が一気に崩れ落ちた。

 巨大な火の玉が地獄のような熱波を放ちながら、石橋の両方のたもとにいる生物を襲いかかった。人々は腕に顔を埋めなければならないほど激しく打ちつけられた。

 騎士たちの前にあった火の壁が吹き飛ばされ、炎の勢いが更に増した。彼らが騎乗していた馬たちが怯えてしまい、騎手を振り落として橋の上であたふたしていた馬もいた。

 その混乱に乗じて、エステルは両手で各一つのフック付きロープを掴み、制御不能になった馬の蹄を巧みにかわした。そして、橋の支柱の壁を踏みつけ、そのまま峡谷に飛び込んでしまった。空中で彼女はフックを山壁の木の幹にひっかけて、峡谷の奥へと身を振り出した。

 エステルがある高さまでスイングして、最初のロープを放ち、二本目のフック付きロープを投げる準備をしているとき、クリスは部下の一人からクロスボウを奪い取り、そのピープを通して彼女を見て、そして彼女がスイングする軌道を予測していた──

「この川がお前を悼むといいね!」

 引き金が引かれた瞬間、あの『怪物』がクリスを叩いて、矢の軌道を数センチずらした。その矢はエステルを外したが、空中でフックに当たった。スイングの力はその直後に失って、エステルの体は奈落の底に引っ張られてしまった。

 これはエステルが予想だにしなかったシナリオだった。いや、むしろ、相手が夜に空中のフック付きロープにでも当てるのなら、自分は運命をそのまま受け入れたほうがいい──

「だが断る!」なぜか湧いたエステルの勇気が恐怖を一時的に鎮め、素早く両手でフックを引き戻し、彼女のそばに猛スピードで通過する木の幹に投げつけた。

 しかし、落下速度が速すぎたから、フックは引っ掛けに失敗したほかにターゲットの木の枝を折った。最後にエステルはうっかりロープを手から離してしまった。

 手段を全て失っても、エステルはあきらめずに周りの枝に手を伸ばした。たとえ二本、三本を続けて折ったとしても問題ではない。落下速度を緩めることができれば、何でも掴むのだ──

 あたふたしていたエステルの手は、やっと何かを掴むことができたようで、ようやく体の落下が止まった。しかし、腕から頭にかけて激痛が走り、彼女は大声で叫び、泣きそうになった。彼女は歯を食いしばって、辛い痛みの波に耐えきった。普段から体を鍛えていなかったら、先は一瞬で肩が外れていたかもしれない。

 痛みが少し治まってから、エステルは自分が何を掴んだのか見ようと顔を上げると、掴んだのは自分ではなく、何者かが自分をつかみ、曲がった木の杖で木の幹に引っかけていることに気がついた。

 その時、ようやく太陽が雲の向こうから顔を出し、雨も小降りになった。夜明けの暖かい光が峡谷に降り注ぎ、その手の持ち主を照らした──

 それは一人の少女だった。少女は目の下に二つの真っ黒のクマをつくり、濡れた赤い髪を後ろで結んで頭頂部から肩まで下ろし、苦しそうに息を切らしていた。

「やっと助けることができました。本当に疲れましたよ…」と、少女は狼狽しながら笑顔を絞り出した。

「お前――」エステルは相手がクリスを殴った者だとわかった。橋の上から飛んできて自分を掴んだとは。こいつは人間なのか──と疑ってしまった。

 木の枝が再び折れ、二人はそのまま落下した。何本もの木の幹や葉がいっぱいの梢にぶつかってから斜面の灌木の茂みに落ち、何度か跳ねてから礫石に包まれた川底に転がり落ちた。

 慣性力から解放された瞬間、エステルは膝を立てて体を安定させ、逆手でナイフを抜き、『命の恩人』の腕に斬りかかった──

 相手は命の恩人ではあるが、その正体も動機もわからなくて、さらに怪物みたいな身体能力の持ち主だから、先制攻撃が一番理に適った選択だ。

 しかし、怪物は半拍遅れても、木の杖でナイフを受け止めた。さらに悩ましいことに、少女は顔も上げず、右手の掌を上げて攻撃をやめるように求めてきた。

 二人ともしばらくその姿勢のまま、振ってくる細い雨に打たれながら、水のせせらぎの音と両者の吐く息の音を聞いていた。

 エステルが落ち着くと、少女の指に見覚えのあるペンダントが巻かれていることに気づいた。「それは誰から貰った?お前は一体何者だ?」

「クルップル商会のアンナです」少女は少し顔を上げた。「ある人物からの、プリム祭のエステルを探し出して、共にシルバーウェア城に帰還するという依頼を受けました。遠くから観察したところ、盗賊団の団長だと判断しましたけど、合ってますか?」

 エステルは異国訛りがある少女の手にしたペンダントを見て、それからゆっくりとナイフを収めた。「ああ、私だ」

「よかった、本当に疲れました……」アンナの体は一瞬にして動かなくなり、綿がなくなったぬいぐるみみたいにあひる座りになった。

 エステルは立ち上がり、口と鼻からマスクを外し、頭巾も外して長い金髪を左右に揺らした。そして、タオルを絞るように髪から大量の水を絞り出した。



 有名画家の絵に魅入られたように、丸い目をぽかーんとさせながら自分を見つめるアンナの姿に彼女はふと気がついた。「どうした?私の顔に何かついてるか?」

「な、何でもないです……」アンナは立ち上がり、スカートに付いた木の葉を払った。

 エステルはペンダントを受け取り、アンナにその由来を知っているか訊ねたが、当然のことながらアンナが首を横に振った。彼女は手に持っているキラキラした宝石を見ると、それを隠しポケットに仕舞った。「わかった。アンナ。でも私は先に団員たちと合流しなければならない。一緒に来てくれ。うまくいけば一日で王都に戻れる」

「はい、一緒に行きます!」アンナは煮干しをもらった子猫のように飛び跳ねていた。

 少女の素顔を見たエステルの脳裏に、ぼんやりとしたイメージがよぎった。彼女はたちまちアンナに背を向けた、それで密かに口角を丸めることができたから。

 体力が少し回復したエステルは、峡谷の奥へと向かった。後ろからアンナが声をかけ、壊れた橋の方向を指差して「あの……森は、あそこですよ」と言った。

「わかってるさ。もうすぐあの騎士たちが私の死体を探しにここに来るから。奴らを撒いて、支度を整えられる場所を探す必要がある」エステルは頭巾で顔と首筋を拭いた。

 その言葉に戸惑いつつも、アンナは素直に従って後を追いかけた。

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