第11節:悪人

 峡谷の岩壁から、一羽の雄鷲が気流に乗って谷底に飛び降った。焼け焦げて崩れた橋の上を滑空して森の上空に入り、さらに羽をバタバタさせさせて空高く舞い上がっていく──

 一人の男は騎士から奪ったサーベルを背負い、森を縫うように進んでいた。わざと灌木や木の枝の下を進み、誰かに見つからないように四方の動きに気を配っていた。

 しばらくして、彼は、まるでたった今流れたばかりのような、鮮やかに赤い血痕を見つけた。視線を少し遠くに向けてみると、また別の血痕があった。自分の直感に従って、遠くのほうにも血痕が見えた。

 血痕を追って、灌木を越えたところで、誰かの愚痴を聞いた。「くそ、帰ったら、あのクソ女をボコボコにして、押し──」

 話の途中、その人物は彼の接近を察知したので、素早くナイフを抜いて、足音のする方向へ狙いを定めた。足音の主が自分の知っている人だとわかると、怯えた顔がほころび、武器を下ろした。「なんだ、ジョナサンなのか」

 ジョナサンは物陰から足を踏み出すと、涼しげな態度でその素顔を陽の光の中に浮かび上がらせた。「サウル」

「副団長と呼べ。まあいい、手を貸してくれ」サウル――つまり、モルデカイはジョナサンに腕を伸ばし、起こしてほしいという意味のジェスチャーをした。

 ジョナサンは相手の要求に答えず、ただゆっくり足を動かして空き地まで歩いた。そこからスカイラインを見ると、二人は二本の木の間に岩壁にある崩れた橋が見えた。「団長たちが無事橋を爆破したようだから、もう逃げ切ったはずだ」

「あんなクソ女などどうでもいい!」サウルは軽蔑したように言って、地面の土に拳の跡を残した。「今日のこの惨状は全部あの女のせいだ!」

「あの女?」ジョナサンは眉を少しひそめた。

「そうだ、あの女だ!」サウルは自力で体を起こして木に背中をつけるように移動し、痛そうな表情を少し緩めてから、こう続けた。「あの女が会議で作戦を反対しなければ、作戦中に団員たちがあんなに臆病にならなかったはずだ。あの女はもちろん……お前たちもそうだ!お前たちも作戦に参加する気があれば……」

「団長の言うことを聞いていれば何も問題は起こらなかっただろう?」とジョナサンは冷たく言い放った。

 それを聞いたサウルは、歯ぎしりをしながら、ジョナサンの鼻を指差して声を上げた。「あの小娘みたいに自分が賢いと思うな!やらない理由がなかっただろう?銅の月が終われば税金を納めるのだ。村の皆がどれほどの重圧にさらされているか知っているか?」

「銅の月はまだ二週間ある。何を急いでるんだ?」

「特定のキャラバンを狙うやり方は間違っている!あの女が義賊ごっこで奪い取った金品を他の村の人に分け与えたいなら、俺たち貧乏人を巻き込むな!俺たちは、奪いたい奴から奪って、手に入れた金を自分で使っていた時代に戻りたいんだよ!」そう話しながら、サウルは足元の木の根を叩いていた。まるで自分がどれだけ怒っているか、自分の言葉がどれだけ正しいかわかってもらえないことを恐れているようだ。

「おかしいな。去年、税金を払った後、お前と数人の仲の良い団員が家に新しい品物をたくさん追加し、不要になったものが廃品置き場を埋め尽くしたせいで、燃やすのに二日かかったんだがな」ジョナサンはしばらく間を置いた。顎を少し上げて、目つきを鋭くした。「昔はそんな贅沢なんてしたことがあるか?」

 サウルはジョナサンが自分を軽蔑の目で見ていることに気づき、少しポカンとした。そして彼は俯いて、肩を軽く揺らしながら喉を鳴らして笑った。再び頭を上げると、その顔は口角を上げて、歯を露出させ、目を弦月のように細めた嫌らしい表情になっていた。

「ハッハッハ……わかった、わかった、犬野郎。ご主人様に恋してるんだろ?ご主人様のベッドはきっといい匂いがするんだろうな?」その不快な笑みは、サウルが頭の中で構築している卑劣な筋書きを、自分に見せたくて仕方がないことを物語っているようだ。

 ジョナサンの顔にはあまり感情の起伏がなかったが、その拳にある静脈は隠すことができなかった。四十歳を過ぎ、五十歳近くになって家庭を持つ男にとって、その発言は人格を侮辱するものであった。

 ここ数年、陰口を叩かれていることに気づかなかったわけではないし、同じように指さされるのも初めてではない。今までは、とりあえず『誤解だ』や『悪意はない』で済ませていたが、今日は自分の耳で直接副団長の口から聞いたのだから、いつもとは違った。

 続けてサウルは「無理もないよな!いつもあの女を甘やかして、あの女に『はいはいはい』としか言わなかったもんな。お前、ベッドであの女と一緒にいる時もこのような腰抜けなのか?」

 この時、ジョナサンはうっかり拳を強く握りすぎたことに気づき、少し緩めた。そして、自分を怒らせることで勝っていると思わせないよう、口調を整えた。「結局、団長は正しい決断を多く下したおかげで、皆の生活はこれまでよりも豊かになった。もう生きることだけに必死になって……おっと、皆じゃなかったな。お前はこの前も賭博で金を使い果たしただろう?」

「黙れ!」サウルはジョナサンに向かって石を投げたが、狙いが正確でなかったのでジョナサンの耳の横をかすめた。彼はより大きな声で怒鳴った。「目を覚ませ!あの女はどこからやってきたかわからないただのよそ者だぞ!しばらく村に居候してから、盗賊団を結成して団長になって、少し腕が立つから自分が偉いと勘違いしてるだけなんだよ!」。

「それでお前は七割の団員を言いくるめて、団長に楯突いたか?」

「俺はただ、団員たちの意見を代弁しているだけだ!奴らは皆てめえみたいなのばっかりだ。なんでそんなにあの女が怖いかわからねえな。言いなりになりやがって、吐き気がするぜ!」サウルは吐き気をする顔をした。「はっきりしろ!この村は俺たちの手で作ったんだ!いついるかわからねえような断じて自惚れ屋のクソ女ではない!」。

 ジョナサンは顔を背けた。もうサウルの顔など二度と見たくなかった。「はっきり言えば、お前らはどんどん欲張りになっただけだ。今まで団長の計画に失敗はなかった。たとえあまり儲からなかったとしても、こんな羽目にはならないはずだ。お前は今日、仲間が何人死んだか、わかっているのか?」

「ジョナサン、てめえもクソだな!てめえとの議論も飽きた。帰ったら懲らしめてやるよ!」

 その時、ジョナサンは顔をサウルに向けず、視線だけをサウルに向けた。そのすべてを凍りつかせるような眼差しを見て、サウルは首の後ろから尾椎にかけて震えが走った。例えるなら、その眼差しは屠殺される家畜を見るものなんだろう。

 ジョナサンは素早くサウルの方へ歩いて行き、後ろからサーベルを抜いて、淡々と言ってのけた。「もう帰る必要はない、ここがお前の最後のベッドなんだから」

 サウルはすぐさまナイフを抜いたが、前に向けた瞬間にそれがジョナサンに蹴飛ばされた。

「待て!ジョナサン、やめろ!」

「さらばだ、サウル」

 鳥たちが樹冠から飛び出し、梢の間で鳴き声と羽音が交錯した。


༻༻༻


 空はまだ雲が完全に晴れていないため、峡谷の逆光側は暗く、昼夜の区別がつかないので、足跡を隠す必要がある者にはおあつらえ向きだった。

 アンナは木々や灌木の間を一人で潜入し、岩壁の上に捜査している騎士がいるかいないか目を配っていた。一時間前に、いくつか小隊発見したが、今見上げると、木々や岩、鳥や流れる雲だけが見えた。

 懐中時計を見ると、もう十時を過ぎていた。彼女は体がとてもとても疲れていた。気を緩めると意識が空に飛び、目が上を向き、まぶたが下がるだろう……彼女は慌てて頭を振り、もう一度自分の頭を叩いて眠気を飛ばした。

 アンナは一晩中走り続けた。やっとの思いで森の端にたどり着いた時は休む暇もなく、山道で盗賊たちと追いかけてくる騎士たちの姿を発見した。体力の限界を超えたアンナは直ちに行動するため、傭兵たちが好んで服用する興奮剤――『ヘア・オフ・サムソン』を数錠飲んだ。身体はたちまち元気を取り戻し、自分のものとは違うエネルギーまで湧いてきた。

 結局、その人物は助けることができたが、薬の副作用もやってきた──

 追手に注意するだけでなく、焚き火に適した枝を探さなければならなかった。実のところ、それは、盗賊団の団長を探すよりも困難だった。なぜなら、早朝に降った雨が強すぎて、いくら葉が雨水を遮っても、全ての薪がまるで水に浸かっていたように湿ってしまうからだ。

 植物にとっては恵みの雨でも、すっかり濡れて体温を失いかけている者にとっては、あまりにも残酷な話だった。数時間前に集めた薪が果たしていつまで燃えるのかわからないからだ。

 三十分ほどして、アンナはなんとか使い物になる枝を数十本見つけた。杖に繋いだ縄でそれらを縛って、腕で担いで帰えろうとした。

 岩壁に沿ってしばらく歩くと、アンナは半階分の高さの灌木の前に出た。彼女はまず枝の束を藪の中に突っ込み、通らないのを確認してから、方向を少し左に修正した。一通り試してみてから、ようやくエステルの足取りを確認することができた。

 手足を揃えて道を切り開き、灌木の中に少しずつ体を押し込んでいった。数本の枝で腕や足首を切り、スカートの裾を引きずって少し破ったが、ようやく木の壁を通り抜けて岩窟にたどり着いたのだ。

「ただいま……」と、アンナは枝に抱きつき、岩窟の入口に倒れ込んだ。このまま安心して眠れるならありがたいが、残念ながら今はその時ではなかった──

 気づかないうちに、枝が燃える音がアンナの耳にこだまし、次第に明瞭になった。彼女はすぐに地面から跳ね上がり、焚火が明るく燃えていることに気づいた。団長のずぶ濡れた服は廃木材にただぶら下がっており、アンナの木の杖はハンガーの一部になっていた。

「あれ、あたし、寝てました!?」アンナは驚きの声を上げた。

「ああ、子豚のように寝ていたぞ」エステルは淡々とそう答えた。最低限の下着しか着ていないにもかかわらず、彼女は恥じる様子もなく、静かに焚火のそばにある岩の上に座った。片方の手で頬杖をつきながら、もう片方の手で小さな石を持ち、砂と土の上で描かれたチェス盤と、他の駒の代替品をじっと見ていた。

 エステルはウィリアムより少し背が高く見えて、長い脚と細いウエストでさらに背が高く見えた。彼女は頭からつま先まで優雅さを醸し出しておる。盗賊の装束からイブニングドレスに着替えたら、宮殿から出た女王と名乗っても、アンナは信じてしまうだろう。

 アンナも非常に勢いのある焚火の炎に気づいた。ホーリー・ツリーの樹脂を使っているのだろう。橋の上でエステルが使っていたのを目撃したのだ。

 一般的に言うと、それはそう簡単に入手するものではない。正規のルートで購入すれば小さな瓶一本で四マラック程度だが、銅の月にはセールの可能性もあるはずだ。闇市で買えば安いのだが、それは常連客の紹介が必要である。

 アンナも自分のマントを適した場所で干すと、リュックから濡れてしまった保存食を一人分取り出した。フォークで一枚を固定し、焚火の上で軽く焼くと、水分が空気中に蒸発し、ほのかな香りが漂ってきた。

 保存食もだいぶ美味しそうな色になり、アンナは満足げに微笑んでそれを頬張ろうとした時、無意識に焚火の反対側にいたエステルに目を向けた。自分の食料を物色するどころか、地面に置かれたにおもちゃに夢中になっていた。その毅然とした姿を見ていると、なぜかその姿はアンナの記憶の中にある誰かの姿と重なった──

 団長の魂は多くの色がある。それはまるで各種の絵具を同じカップに注いだようだが、色同士が互いに混じり合うことなく、どの色より目立つこともない。互いに邪魔をすることなく優雅に泳いでいるのである。その混乱は、ラビのそれとよく似ていて美しいが、ラビの場合は、赤の部分がもっと多かった。

 アンナは二度跳ねて、エステルの隣にしゃがみ込んで、フォークを相手の手が届くところに持っていった。「お昼食べますか?王都で買ってきたんです」

 エステルはその薄い白い湯気が出ている保存食を見ると、フォークと一緒にアンナの手を握り、少し力を加えて、先に食べなさいという意味で、保存食をアンナの口の前に押し戻した。

「サゼラックの少女よ、今何歳か?」とエステルが尋ねた。

 アンナは食べ物を口にしながら、上を向いて考え、できるだけわかりやすく答えるよう努力した。「わかりません。仲間からは十八、十九歳くらいと言われるんですけど、実年齢は自分でもわからないんです。それより気になるのは、あたしよりも皆がその答えを知りたがっているように見えることです」

「仲間とは商人ギルドの人間のことか?」

「いいえ、孤児院の仲間です」そう言ってアンナはリュックの中を手探り、保存食をもう一つ取って、火にかけた。ようやくお腹が満たされ、機嫌がよくなったせいか、思わず鼻歌を歌ってしまった。同時に彼女はしるしをラビに手渡す瞬間、ラビが優しい笑顔を浮かべ、大きな手を自分の頭に伸ばす姿を想像した──

 保存食から放たれる白い湯気で現実に戻ったアンナは、再び焼き上がった保存食をエステルに渡した。「本当に何も食べなくていいんですか?後で先を急ぐ体力もなくなりますよ」

 エステルはようやく食べ物を受け取り、アンナを見つめる表情も随分柔らかくなった。「お前の名前はアンナだな?ならば、『ぞくせきせい』は何だ?」

 アンナは後頭部をかいた後、困った表情を浮かべた。「あたしには姓氏がないし、仲間にもありません。子供の頃から自分の名前がアンナまたはアンということしか知りません。でも、所属する商人ギルド名が姓氏になるって話を聞いたことがあるんだけど、それが属籍姓氏なんですか?」

 そう話した瞬間、エステルはどの言葉が心に響いたのかわからなかったが、アンナは彼女と知り合って以来まだ感じたことのない驚きと喜びを感じた。

「わかった。ならば、お前のフルネームはアンナ・クルップルで、『避難所の街からの来た者』ということだ」エステルは立ち上がり、その目はまだ盤上を見ていた。「依頼書は持っているか?」

「はい、でも、もうびしょ濡れです」アンナは柔らかくて今にも破れそうな手紙をエステルに渡した。「文字がぐちゃぐちゃになっているはずですから、火にかけて、他に何があるか見てください」と補足した。アンナはわざとそう言って、狐を見た相手の最も誠実な反応を待っていた。

 エステルはうんざりした様子でこのボロ雑巾のようなものをつまんで、いくつかの角度からひっくり返して、やっと封筒と手紙を切り離すための隙間を見つけた。彼女は注意深く手紙を広げ、火の前に置いて、紙の表側まで火の明るさが届くようにした。

 しばらく経つと、エステルは少し照れくさそうに微笑んだ。アンナは彼女と狐がとても深い関係にあっただろうと推測し、後でもう少し探りを入れれば、狐が一体何者かが分かるかもしれないと思って──

「狐にお前の弱みを握られるんだな?」エステルの笑顔が悪だくみをしている表情になった。

 アンナは口に含んだばかりの水を吹き出してしまった。自分が予想以上に深い罠にはまったことを悟った。エステルが狐と関わっているのは間違いないのだが、まさか手紙を相手に見せることで、狐の武器をエステルに渡し、自分を脅すことができるようになると想像もしていなかったのだ。

「い、いいえ!何の話ですか、狐って誰ですか?あたしの弱みって何ですか……」アンナは相手と目を合わせないように慌てて目をそらし、平静を装って新しい保存食を取り出すのであった。

 エステルは濡れた手紙をアンナの頭の上に置くと、アンナは驚いて頭を振り、手を伸ばしてそれを引き剥がそうとした。

「先に団員と会うと言ったことを覚えているか?」エステルは視線をチェス盤に移し、「旅程を少し変更する必要がある。団員を見つける前に、ポポセイ港に向かわなければならない」と言った。

「ポポセイ港は百キロの離れているのに!なぜですか?」アンナの声は一オクターブ高くなった。脳裏には、バーナバスの遺物を手に入れるためにどれだけの距離を移動したことがすぐに思い浮かんだ。そして今は訳もわからずにその倍以上の時間がかかるようになったのだ。

「なぜ?狐の依頼を早く完了させるためさ。依頼主を不機嫌にさせるのはまずいよ」エステルは駒をいじり続けた。

 アンナは猛然と立ち上がり、柔らかい保存食を一口で食った後、エステルのチェス盤のそばに行った。「すみません、どういう意味ですか?」少しは落ち着いた声になるように努力したが、その表情はもはや隠すことができなかった。

「私の団には少し問題があって、それを解決しないと王都に戻れない」エステルは赤い葉と銀の弾丸を同時に手に取り、盤上の端にある「P」と書かれたマスに置いた。「お前が手伝ってくれたら簡単に事が済むだろう。さもなくば、銅の月が終わるまで戻れないかもしれない」

 エステルの言い分を聞いたアンナは、足でチェス盤を破壊し、多くの石や葉を焚火の中に飛ばした。これにエステルは反応せず、ただ背筋を少し伸ばして、ごく冷静に彼女を見ていた。

「次から次へと……」アンナはうなだれた。血の色をした霧で髪がわずかに盛り上がり、拳に血管が膨れ上がった。「こうしろああしろと言ってあたしを利用してばかりで、遺物はよこさない。いいよ、それなら我慢できる。本当に我慢できるのよ。でもラビはどうするのよ?ラビはいつまで持つか……」

「ラビ?」

 アンナは顔を上げ、その深紅の瞳は涙でよりはっきりと見えた。「お前はわざと狐の依頼で私を脅す。私の負けだ。お前は賢い。だが、頼むから、まず一緒に王都に戻ってくれないか?まずは狐から遺物を受け取らなければならない。それが済めばなんでもする……」。

「断る」

 その瞬間、アンナは大量の血気を放った。彼女の赤い髪が血の色をした霧で命が吹き込まれたかのようだった。それは、無風の洞窟の中で自由に舞った。次の瞬間、アンナの左手がエステルの首にかかり、呼吸困難に陥るほどの力を発した。「だったら悪いけど、引きずってでも連れて帰っ……プハー!」

 アンナは腹に受けた一撃を受け止めながら、数歩よろめいて、目がくらくらした。鼓動の音はまるで耳のすぐそばから来て、体に穴が開き、強風が腹に流れ込んでくるような感覚を覚えた。

 その衝撃は、久しぶりに感じたものだった。それは、アンナがいたずらしたとき、兄や姉に教え制裁されたときと同じ感覚であった。アンナを驚かせたのは、技を放った対象と周りに落ちてきた羽根だった。

 エステルがその拳を前へ突き出しながら、もう片方の手で自分の首を守っていた。苦しそうに咳をした後、苦笑して「凄いじゃないか……誰かが言った通り、フェザーリングと血気は表裏一体で、フェザーリングが強力な者ほど血気も強くなるらしいな」と言った。

「目の下のクマを見る限り、酷く疲れているようだな。だから気付いていない」悪い女は用心深く、より開けた場所へと歩いていった。「フェザーリングを放つのは久しぶりだったから、腕がすっかり鈍った。でもお前のおかげで、渇いた魂も簡単にフェザーリングすることができるようになった。だから、『牧師』それがお前が得意とする『神職』の一つなのだな?それにしても、お前のあの爆発力と体の強さを見る限り、『使徒』も『福音書記者』としてもかなり強いはずだ」

 アンナはエステルの魂が目覚めた姿を見て狼狽した。遺物の入手を阻んだ悪意は本物だが、フェザーリングを軽々と放出して自分に対処できた。それは自分の『牧師神職』の影響だろうか?それとも、もっと確かな情報を持っていたのだろうか?誰からフェザーリングの知識を学んだのだろうか?

 頭が混乱して全く考えることができず、さらに深刻なことに、あの倦怠感がまた瞼を引っ張ってきた──

 エステルはアンナに向かってゆっくりと歩いた。その真っ白な霧を見て、アンナは後退せざるを得なかった。「今のお前は疲れと怒りに満ちて、全身から『血が流れている』。フェザーリングの状態でお前に触れたら、その血気がお前自身の魂をかき乱し、数回繰り返したらお前は脱力する、そうだな?」

 アンナの背中は岩壁に押しつけられ、もう後戻りはできない。その時、脳裏にラビの笑顔が浮かび、一つの記憶がよみがえった。自分の両手で処方箋の指示に従い、薬を瓶に入れ、目立つように結び、最後にラビのバッグに入れる画面を見た──

 思い出すと、また思わず涙が流れた。左手に血気が流れ、焼けつくような痛みが腱を引き、五本の指の関節が岩石の隙間に食い込んだ。岩壁が恐ろしい亀裂の網目状に花開いた。

「ポポセイ港に行かないで、他の方法を考えよう。全力でサポートするから」これがアンナの最後の願いだった。

「ダメだ、必ずポポセイ港に行かなければならない」

 アンナは左手に持っていた石を投げ出すと、エステルが無意識に顔を守っている間にその背後に回り込み、彼女の右手を背中に回して無防備な首筋を絞めた。

 喜んでいるのも束の間、脛骨のほうから足が折られたような激痛が走り、彼女は悲鳴をあげた。

 エステルはその隙に右手の束縛を外すと、アンナの首の後ろを掴み、しっかりとした構えで上体を地面に近づき、後ろにいる者の両足で宙に舞い上がらせた──

 その勢いでアンナは腰を強くひねり、下半身につられて上半身も百八十度回転した。エステルはタイミングよく手を離し、アンナの腕から頭を抜くのが間に合い、その力で投げ出されずにすんだのだ。

 両者とも互いの技を破った。アンナの両足が地面に着くと同時に突進してエステルの腹に直接掌打をお見舞いし、当たりは深くなかったものの、疼くほど痛かった。

 エステルの姿勢を整えていないうちに、その顎に隙があると気づいて、アンナはすぐに距離を詰め、暴力に満ちた拳を彼女の顔面に叩き込もうとした──

 拳は的を外した。アンナはエステルの腕の中でスライムのようになり、まるで敵に抱かれているようだった。自分で立ち上がる気力もなく、体の血気も空気中に霧散した。

「ヘア・オフ・サムソン」の副作用が襲ってきたせいで、アンナは力が抜けて、エステルの肩に寄りかかって息を整えるしかなかった。

 エステルは偽りに満ちた手で彼女の後頭部を撫でた。「よし──よし──もう大丈夫だ、クルップルの娘よ。大人しく私の言うことを聞けば、すぐに王都に戻れるよ!」

 アンナは、残り僅かの力で瞼を支えて、意識を失う前に、自分を手のひらで踊らされる悪い女の顏を目に焼き付けようとした。

 エステルは得意気に「ところで、言い忘れたのだが、以前、よく笑うあるサゼラック人から私が真相を見抜き、策略を計画するのが得意で、『導師』の資質があると言われたことがあるが、どう思う?」と言った。

 アンナはゆっくりと目を閉じた。眠りにつきながら、エステルの肩に涙の跡を残した。


—‧—‧—


▍属籍姓氏▍家族が代々受け継いできた姓の他に、故郷を離れた、または異邦人と交流する際、自分の国の名称を申告して、自分の出身地を表明する。これは同時に、トラブルに遭遇した場合、その国が後ろ盾になり、逆に、自分がトラブルを引き起こした場合、現地国はその国に対して賠償を請求する権利があると意味する。また、アンナのようなケースもある。それは出自に問題があり、または罪を犯して国から追放されたせいで属籍がない者たちだ。でも雇用やその他の利害関係が発生した場合、どこかの大手商人ギルドが、その組織の名称を「姓氏」として使用できるように保証してくれるという事例も存在する。

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