第8節:狐の招待状

 なぜか、身体よりも先に意識が目覚めてしまった。窓から差し込む優しい日差しが、髪の先やまぶたを暖め、暗かった目のカーテンが微かに金色のグラデーションでぼかしている。

 それでも起きようとせず、アンナは体を縮こめ、柔らかい布団に顔を埋めた。しかし、外から小波のような音が、アンナの耳に無造作に飛び込んできて、延々と耳にこびりついた。ガサガサ、ガサガサ──

「うるさい!」アンナは布団を開けて、枕を掴んで騒音の元凶であるウィリアムと黒髪の隊員の顔に投げつけ、それぞれ一個ずつお見舞いした。二人はベッドの反対側の壁際に座り、どれくらい話していたのか分からないが、その声の大きさに遠慮が全くなかったことは確かだった。

「あんたら本当にいやらしいのね。あたしの寝顔を眺めてるんだったら、料金を徴収しなきゃね……」と、アンナはあぐらをかいて、ベッドの枕元に置いてある木の杖を取って、頬に軽く当たるように肩に乗せた。

「それを俺たちが望んでいると思ったか?」ウィリアムは枕をベッドの枕元に投げ返した。「お前が突然、煙霧弾を投げて逃げ出して、その後二晩も姿を見せなかったからじゃねえか!やっと戻ってきて寝たんだったら、ここでお前が起きるのを待つしかないだろ!」

 アンナは目をこすり、目尻にある涙をぬぐった。「この二日間、あんたたち衛兵があたしばかり探してたさ、マジウザいんだけど。あたしに何の用?もう任務を完了したんじゃないの、それとも奴がまた脱獄した?」

「お前を探していたのは俺じゃない、彼だ」ウィリアムは親指でそばにいる黒髪の隊員を指した。「彼は先日の夜間捜索中に知り合った小隊長、セトだ。君に見せたいものがあると言っている。きっと興味あると思うぞ」

「シャロム!」黒髪の隊員はお馴染の言葉で挨拶すると、後ろから小さな革袋を取り出し、あぐらをかいている自分の膝の上に置いた。「私の名前はセトだ。先日、君のフェザーリングしている姿を見て、バーナバスが待ち望んでいた者は君ではないか思ったんだ」

 アンナはすぐに目を見開き、眠気が跡形もなく消えたが、すぐに隙だらけの表情を引っ込めて、警戒しているように微かに眉間に皺を寄せた。「あたしもあんたがフェザーリングを使えたことに気付いた。ということは、あんた、保管者なのか?」

 この男の魂は既に覚醒状態にあり、明るい白が優勢である。ウィリアムの魂と同じ高貴な色をしているが、彼よりもさらに色が濃く、様々な色が混ざっている。それぞれが何を意味するかはまだわからない。

 セトはただ微笑みながら、小さな袋から一本の古い巻物を取り出した。その瞬間、アンナの瞳は猫の目のように輝き、プライドと木の杖を全部ベッドの上に置いてきて、ベッドから転がって這い出し、巻物を持つ手に突進した──

「焦るな、まずは私の話を聞いてくれ」セトは慌てて巻物を片手で高く掲げ、残された手と足でアンナの突撃を全力で阻止した。

 アンナは手近にある巻物に手を伸ばそうと、けん制されていない腕を伸ばした。「ちょうだい!ずっと探していたの、ねっ、ちょうだい!」

 テンパったセトは他人事なウィリアムに「見ているだけじゃなく、助けてくれよ!」と助けを求めた。

 その時、銀髪の男はようやく正気に戻り、アンナの脇の下に腕を回して、セトから引き離した。

 アンナハあまり深く考えず、ただ巻物が欲しかったからワクワクしていただけなのに、この二人にここまで理不尽な目に遭わされるなんて、アンナは怒気を込めて「放してよ!離さないと怒るわよ!」と罵倒した。

 セトは巻物を後ろに隠し、手をまっすぐアンナの顔の前に突き出した。「落ち着いてください、お嬢さん。巻物を見せてあげるから、まずは落ち着いて私の言うことを聞いてくれ!」

「うるさい!それは本来あたしたちのものよ!」アンナはもがいたが、ウィリアムの腕力はアンナよりずっと強く、どんなにあがいても抜け出せなかった。抜け出すためには、彼の顔に肘鉄を打つ角度を見つけなければならず、アンナが焦るにつれて、その肘に血気がにじんできた──

 そのとき、ドアが突然開けられ、ルーシーが注意してきた。「あんたたち何騒いでるの?外の人が怖がるじゃないの!」

 女主人が駆け込んできたその時は、衛兵隊の隊員一人が怖くて隅にうずくまり、自分の息子がだらしない恰好の女の子を拘束しているという気まずいタイミングだった──

「ルーシーさん、二人がいじめるんです……」 アンナは目をうるうるさせながら、完全な被害者のふりをした。

「母さん、本気にするな!」

「奥さん、そうではありません、私たちの話を聞いてください!」

 両方がお互いを非難しながら、ルーシーはセトの襟をしっかり掴んでいる左腕を見てから、営業スマイルを浮かべた。「アン、素敵なタトゥーね。あなたたちは一旦やめて、ジュースでも飲んで落ち着きましょう」

(アンナの腕のタトゥーは大小三枚の羽が交錯している。)



 日曜日の午前十時、店内に他に客はおらず、皆、市場で掘り出し物を探しているか、聖会堂でサクラメントに参加している。

 三人はルーシーからレストランの隅のテーブルを借りた。本題に入る前、二人の男はアンナに、セトがウィリアムを説得してホテルに連れてもらうため、について説明した旨を話した。黒髪のあんぽんたんが自分は仕方ないと強調しても、アンナはまだ不満そうに彼を睨んだ。セトは秘密厳守と引き換えに、ウィリアムにフェザーリングのことを教えることを約束したのだから、今日の銀髪の男が晴れやかな気分でいるのも無理はないだろう。

 セトはアンナの向かいに座り、両手でしっかりと巻物を持った。「バーナバスと出会ったのは十年ほど前のことだ。彼は私に魂について、そしてサマリアの乱について教えてくれた。彼は去る前にこの巻物を私に渡し、資格ある者に出会ったら渡すように言われたんだ。少し我慢してくれ。話がもうすぐ終わるから」

 アンナは口を閉じたまま、焦った両手を太ももの下に押し込んで、興奮を抑えようとしていた。長い時間をかけて、はるばる遠い国まで来て、毎日がハラハラドキドキの連続だった。そして今、その終着点への鍵が目の前にあるから、冷静でいられるだろうか?

 セトは資格についての理論を展開したが、アンナは全く興味を示さず、巻物の軸受けの飾り気のない彫刻を見つめていた。

「最後にひとつだけ聞かせてほしい」相手は真剣な口調で言って、アンナが目を合わせたのを見てからこう続けた。「君は『エステルの祈り』を歌えるか?」

 アンナは眉をひそめた。彼女は決して歌えないわけではない。実際、この歌について詳しく知っている。それはサゼラック人に受け継がれている伝統民謡だからだ。アンナが困惑したのは、本来なら注意すべき相手の武僧たちでさえ歌える歌なのに、セトがなぜこんな簡単な歌を秘密の暗号のように使っているのか、ということだ。しかし、彼の真剣な態度と巻物を握る力を見れば、この黒髪の騎士が冗談を言っているのではないと確信した。

「もちろんよ」そう言ってアンナは無伴奏で一小節を歌った――

 これを聴いたセトは笑みを浮かべて、巻物の両端の軸受けを左右に動かして、謎に包まれた内容を白日の下に晒したのである。

 アンナはこの突然のことにショックを受けた。まさかこんな風に開けられるとは、誰かに見られたらどうする?手を伸ばして止めようとしたアンナは、巻物の内容を見てさらに衝撃を受けた。「何よ、これ!」

「シルバーウェアの王都の地図のようだな」とウィリアムが答えた。

 騙されたと思いながらも、アンナは感情を抑え、慎重に確認した。「これが本当にバーナバスがあたしたちに渡したいものなの?」

「間違いない」セトの表情は自信に満ちていた。質問される覚悟が確かにあった。「お察しの通り、私は君が本当に探しているものを持っていない。ただ言伝を託されただけだ。ちなみに君がさっき歌ったのは『ヨナの家』のバージョンだ。古代サゼラック語が使われている。バーナバスによると、これを歌える者ははじめて資格がある」

 アンナは言葉に詰まった。自分が歌える歌が古語で書かれていることは知っていたが、古語でないバージョンがあることは知らなかったのだ。セトはその違いを聞き取っただけでなく、『ヨナの家』まで知っており、彼はバーナバスに託されたに違いないと証明したが、目下の疑問は――この地図が一体何を意味するのかということだ。

 セトはアンナに疑問に思う暇を与えることなく、地図の右上の色が薄いマス目を指で差し、アンナの視線がついてくるのを確認すると、地図上のマス目の位置を順番に指していった。「右上のマス目から、歌詞を書き上げ、終わったら、すべてのマス目を埋めたアルファベットを単語として読んでください」最後にセトは軽い笑みを浮かべた。「これだけの情報を伝えることができる。結局のところ、私は古代サゼラック語を書けないから、君がそれを解読したとき、私もバーナバスの恩情に報いることになる」

 アンナはバーでルーシーからペンとインクを借りて、席に戻ると、歌詞を手書きで地図に書き写した。アンナは、文字が四角形にぶつかると、その四角形のスペースに収まるように文字の大きさや間隔に気をつけた。三十分ほどして、ようやく最後の文字を書くことができた。

「どうだ?意味のある文章なのか?」

 アンナは頷き、童謡の歌詞の内容に唯一の『皇宮』の単語を指で追うと、地図上の王宮の位置と重なった。

「『宮殿の中の狐』、王宮で誰か狐を飼ってるの?」アンナはセトとウィリアムの目から答えを探ったが、二人とも呆然としながら肩をすくめて首を振った。

 とにかく、捜索範囲が絞られたので、アンナは席を立ち、王宮のマークをまっすぐ見つめた。「まあ、とにかく中に入って狐を探そう!」

 二人の衛兵はその宣言に衝撃を受けて顎が外れそうになった。ウィリアムはアンナの腕を掴んでその言葉の真意を確かめようとした。

「もちろん王宮に行って狐の『飼い主』を捜すのよ」答えながら、アンナは目の前にいる二人の男が面白そうな顔をしていることに気がついた。「大丈夫、あたし、足が速いし、隠れるのが得意だから、見つからないよ」

 それを見て、ウィリアムは鐘楼の時と同じように一瞬にして顔の皺を寄せて、セトはすぐに手を伸ばしてウィリアムを阻止すると、アンナに言った。「まず落ち着け。衛兵の立場として、君を我らの主が住む場所へ侵入することに賛成できない。急ぐ気持ちはわかるが、必要な物を手に入れるなら、他に方法があるはずだ。これ以上騒ぎを大きくしたくないだろう?」

 その時、ホテルの外で誰かがオペラを歌う声が遠くから玄関に近づいてきて、だんだんはっきり聞こえるようになって、ドアが勢いよく開けられた。その人が歌の最後の一節が「お~~バカさん!」だった。

 予想通り、二人の男を引き連れたミスター・デオだった。二人は護衛に違いない。ストレートな無地の礼服を着て、服に合わせた紳士帽をかぶり、黒眼鏡をかけて、笑っているようで笑っていないポーカーフェイスだった。

 三人がホテルへ向かってくるので、ルーシーが止めようとしたが無視された。ウィリアムとセトはすぐに前に出て鞘に手をかけ、それを見た護衛の二人も襟に手を入れた──

 アンナはため息をつきながら、二人の騎士の肩を叩いて「大丈夫、この人たちはあたしの雇い主だから、手を下ろして」と言った。そしてルーシーには、「大丈夫、ルーシーさん、この人たちはクルップル商会の人たちよ。会議のためにレストランを借りたいんだけど、ドアのカギをかけてくれる?三十分くらいで終わるから。ありがとう、家賃に上乗せしておくね」

 ウィリアムとセトはサーベルからゆっくりと手を離したが、心はまだ落ち着いていなかった。ルーシーは少しためらった後、息子と視線を交わし、急いで言われた通りにした。

「おお──やらかした小娘!信じられない、全く信じられませんね──」ミスター・デオは再びオペラを披露し始めた。「わずか数日で、君は既にマナーを学び、友人を作り、絆を深めてきた。しかし、君は、それが愚かなことなのか──それとも無知なのか、わかってないのかもしれませんね。君が本当に学ぶべきは、力を入れるべきは、プロフェッショナリズムです!狼の群れに飛び込み、蛇のように賢く、鳩のように素直なプロフェーーーーーッショナルですよ──」。

 最後まで歌い終えると、両手を広げて天井に顔を向け、護衛が拍手するまでしばらくその姿勢でいたが、両手を下げて背中に手を回して立ち姿勢を取り戻した。

「さて、もうあまり時間がないので、戯言はこの辺にしましょう」ミスター・デオは仮面の下の目でウィリアムとセトを順番に観察し、「この二人の衛兵は誰ですか?ここにいる必要がありますか?」と尋ねた。

「大丈夫、二人は仲間です」アンナは二人を紹介した。「こちらはウィリアム、父親が過去にバーナバスと接触したことあります。こちらはセト、バーナバスが手がかりを託した相手で、テーブルの上に置いてあるから、目を通しておいてください」

 ミスター・デオは、地図とそこに書かれた筆跡を確認すると、二人の衛兵を見て満足そうに頷いた。そして、椅子を引き寄せると、優雅に腰を下ろして足を組んだ。

「君がゴリアテを倒した後、国王は大臣たちと軍部の人間を集めて緊急会議を招集しました。議題は二つ。一つは、君の戦闘能力が明らかになり、彼ら皆が危うく漏らしそうになったこと。もう一つは、数日前から黒いマントを着た男たちが、城壁を羊小屋の柵のように飛び越えて、自由に行き来していることです。この二件はお偉いさんたちの神経を刺激して、あの「選択者事件」を想起させることになりました。ここにいる二人の衛兵さんは若いから、君たちが知っているあの事件の顛末は全て上司が押し付けた作り話でしょう?」

 二人の衛兵は視線を交わし、階級の高いセトが代表として話した。「衛兵隊の記録によると、当時、祭司庁の戦士は世界的な指名手配犯、つまりバーナバスを追いかけていましたが、バーナバスは我が国の大臣を人質に取りましたが、後の戦闘で大臣が死亡したとされています。その後、聖会庁が派遣した特使の調停で、戦士は直接無罪釈放を言い渡されました。バーナバスを知ってから、初めて真相を知りました。事件の真相は、ナジルの武僧がしるしを奪うために行動し、その時、しるしの保管者は大臣だったので、武僧は罪のない人を傷つけたのは事故ではなく、故意に行われたということでした。しかし、国王も軍部もしるしのことを知らず、両庁が何をしたのか理解できないので、このように解釈するしかありません」ウィリアムは傍で無言で呆れた演技をするのが仕事であった。

「その通りです。ですから並外れた武芸の素養を身につけたサゼラック人が見つかっただけで、彼らは非常に焦ります。王は第二の『水源公園』を作りたがらないのです」ミスター・デオが話を続けた。「つまり、行きあたりばったりな小娘よ、黒マントの連中に手を出す度胸がないのは、祭司庁を怒らせるのが怖いからです。祭司庁が怒ると、聖会庁も怒ります。聖会庁を怒らせるということは、六聖王都全てを敵に回すから、彼らは君を始末するしかありません」

 アンナは顔を下げたまま、話す勇気がなかった。泣き顔の仮面の男は続けて、「しかし、幸いなことに、彼らは君がうちの商会が発行した臨時通行証で入国したことがわかったから、君を始末したくても、うちの気分を害さないように配慮してくれるでしょう。いやあ、めでたしめでたし!」と言って、護衛と共に拍手を送った。

 ウィリアムは我慢できずに小声でセトに「なぜ王国は臨時通行証で入った人を大事に扱うんだ?」と尋ねた。セトも小声で答えた。「浮遊世界一の商閥の客人、それが招かれざる客でも商閥の面子を立てなければならない……」

 ミスター・デオは二人の男の会話を聞いていた。「その通りです。『客人』に対する憶測がさらに不確定性をもたらし、お偉いさんたちはどのような匙加減が妥当かわかりません。あまりに強引だと、今後のお互いの関係に影響するし、あまりに軽すぎると、影響力を全く発揮できませんから。故に、私たちは彼らが手をこまねくように仕向けているのです」

「いいですか、活き石の小娘よ。本来、この曖昧な関係こそが最後の砦なのです。これが破壊された場合、私たちも君を始末しなければいけないのですよ」ミスター・デオは懐から一つの封筒を取り出した。「この封筒は、会議当日の真夜中にうちの商会に届きました。相手は王宮からの密使を名乗っていまして、その封蝋も確かにシルバーウェア王家の家紋でした」

 アンナは封筒を受け取り、手紙を取り出して中身をざっと目を通すと、困ったような表情を見せた。「『プリム祭盗賊団』の調査のためにあたしを雇ったってことですか?」

「その通りです。彼らの意図は明らかに君を街から追い出すことであり、恐らく期間が長いほど都合がよいでしょう。それなら、君が祭司庁の者と喧嘩しても、それが街に波及しないですからね。そして、万が一君に何か不幸なことがあっても、彼らは自分たちには関係ないと主張することができ、私たちも責任を追及することができなくなるのです」

「でも、遺物はどうするんですか?王都を離れたくありません。早く見つけなきゃ……」その話が終わらないうちに、ミスター・デオが突然立ち上がり、アンナの頭に手のひらを押し当てた。

 仮面の男はとても挑発的な口調で、「あら──ようやく任務の優先順位を思い出しましたね。手を出した時、その責任感がどこに行ったのですか?いいですか、君を王国から強制送還しなかった時点でお偉いさんたちに感謝すべきですよ。何事もなかったように物を探そうと思っているんですか?今の立場で街を彷徨いながら手がかりを探すことができると思っているんですか?頭は大丈夫ですか?」

「君がどのように彼らの依頼を遂行するか、やり方は問いません。 彼らの前からしばらく姿を消しなさい。私たちは金で彼らとの関係を維持して、王宮で狐を飼ってる者が誰なのかを探ります。君は大人しく王都から出ていくこと。いいですね?」彼はアンナが頷くまで、手のひらで彼女の頭を揺さぶった。

「良い子です!今夜、必ず指定の場所に行ってくださいね。先方にとって私たちが知ってはまずいこと何かを君に教えるでしょう。何か異常あったときの対処法がわかりますね」ミスター・デオは話を終えると護衛と一緒に帰ろうとした。

 アンナは椅子に座り、両手を目にあてて涙を抑えたが、唇の間から漏れる嗚咽を抑えることはできなかった。

 この時、ウィリアムは何が引き金になったかはわかなかったが、怒りの感情が膨れ上がり、義憤に駆られながら泣き顔の仮面の男を怒鳴りつけた。「あんたらがアンナとはどのような協力関係かは知らんが、俺の家に勝手に押し入っただけでなく、最初から最後まで失礼極まりない言葉で、うちの大切なお客さんを傷つけやがって。これが世界最強の商人ギルドのやり方なのかよ?」



 ミスター・デオは一瞬固まった後、ウィリアムに歩み寄り、細長い体を折り曲げ、彼の鼻から指一本分しか離れていない距離まで仮面を近づけてきた。「君の勇気が気に入りましたよ、事情を知らない小僧。本当にアンナが何かをやらかしたかを知ったら、お金を払ってでも私に彼女をもっと罵倒してくれと思うようになり、そして、私の商売に生意気な口を聞いた自分を恥じるでしょう。さよなら!ウィリアム・シメオン・ホワイトヘア」

 仮面の男は振り向きざまにドアの方へ歩いていったが、数歩歩いたところで別件を思い出した。「そうそう、君が私に託した少年の容態ですが、もう峠は越えましたよ。治療費は後で請求しますがね。では!」彼の護衛がそっとドアを閉めた。

 ルーシーはすぐさまアンナを抱きしめ、ウィリアムは戦慄を覚えて、セトに言った。「あの野郎、俺のミドルネームを知ってやがった。フルネームは衛兵隊の名簿にしか載っていないのに……」

「驚くことではない。彼らはいわばアングラ版聖会庁だ。私の両親が誰であるかさえ調べることができるだろう」セトはそう言って、アンナの手から手紙を取り、窓辺で光の中で読んだ。

 アンナは嗚咽をこらえながら、「やっと手がかりをつかんだのに、どうしてこうなるのよ…プリム祭なんて探したくないよ!」と言った。

「いや、君は行かなければだめだ」セトは手紙をアンナに手渡すと、なだめるように言った。「お嬢さん、落ち着きなさい。怒ることはない。さあ、それを日の光を当ててもう一度読んでみるといい!」

 アンナは少し困惑した。先ほど手紙を読んだ時、照明は十分に明るかった。その際、紙には依頼内容以外何も書かれていなかった。しかし、セトの決意のほどを見て、その紙を受け取り、言われたとおりにした。

 手に持った紙を窓の枠に合わせ、日光がその背面に当たると、前面の透かしがすぐに浮かんできた─

 細長い口、大きく尖った耳、そして二本の線で描かれた目。

「き、狐だ!」アンナは椅子から跳ね上がった。

 セトは苦笑いを浮かべた。「エステル、王宮、プリム祭、あまりにも出来過ぎた偶然だと思わないか?」

 アンナは手の甲で涙を拭うと、不平不満の気持ちが消え、口角が密かに上がってきた。ルーシーはアンナが落ち着いたのを見計らって、頭を優しく撫でてから自分の仕事に戻った。

「よし……わかった。この依頼は狐の飼い主が手配したものの可能性が高い。それを遂行すれば答えが見つかるだろう」そう言ったアンナは不思議そうに尋ねた。「あの盗賊団はサゼラック人の組織なのか?」

 ウィリアムがその質問に答えた。「衛兵隊の情報によれば、その全員がジャフェンラージュ人らしい。奴らは荒野でキャラバンを襲撃することを得意としている。そして、貴族の貨物だけを狙う長官たちにとって悩みの種さ。時折、偽のキャラバンを囮にして誘い込んでいるが、今のところ成功していない」

 また、セトは「組織名だけでなく、リーダーの肩書きも故事から由来していることは注目に値する」と付け加えた。

「つまり──」

「そう、彼らのリーダーの名はエステルだ。狐の飼い主とあいつの関係はよくわからないが、王宮にいる狐の飼い主がプリム祭に行ってエステルと接触するように言っているのだから、次の手がかりは恐らくそこにある可能性が高い、と私は考えている」

「そうみたいね。手紙では今夜九時に南門の城壁で会うことになってる。何を言ってくるかわからないけど、何か情報を聞き出せるといいね」

 ここで、ウィリアムが突然口を挟んだ。「とっても大事なことを忘れていないか?」

 アンナとセトは、一番情報を持たないはずの彼を一緒に見た。彼がどんな盲点を突いて、思いがけない洞察に至ったかは想像がつかなかった。

 ウィリアムはどや顔で笑った。「君は受けた依頼の内容が王女の署名を得ることだと嘘をついたが、結局は一族のしるしを探すことだね。約束を破ったというわけだ。三マラックは遠慮なくいただくよ!」


༻༻༻


 今宵の黒い雲はかなり重く、美しい銀河の大部分を隠した。城壁の上、一人の衛兵が遠くの真っ黒の夜景を見てあくびをしていると、やがてエレベーター室からもう一人の衛兵が声をかけてきて、二人の気配はエレベーターの作動音とともにゆっくりと消えていった。

 その時、木製の杖が城壁に引っ掛けられ、人影が城壁をよじ登っていた。アンナが懐中時計を確認すると、時刻は八時半だった。

 手紙の指示に従い、アンナはエレベーター近くの武器庫で待つことになった。アンナはドアの前に立ち、周りの動きを観察して、依頼人と思われる人物を探していた。

「約束の時間より早いね。さすがはクルップル商会からの者だな」武器庫内から聞こえた声は鋭く、中にいる人物は間違いなく幻声薬(声を変える薬)を使っていた。気が立っていなければ、笑っていたかもしれない。

 その者は話を続けた。「私はただのメッセンジャー。ゆえに、多くの質問には答えられないが、あなたが知る必要があることは何でも話す。お互いの時間を無駄にしないために、これを銜えて、しばらく、ただ聞いていてくれ」。そう言って、その者はドアの鉄格子の窓から長方形の物体を一つ渡そうとしていた。

 アンナがあの木で出来たような物体を取ると、その者はまた話してきた。「このドアに背を向けてください。私が霊気のことが少しわかる。あなたが心に反することをしたらすぐにわかる。そうなったら、私は武器庫内のランプを灯す。私の主が火の光を見て、あなたが欲しているその物を直ちに燃やすだろう。私が本気だということがわかるはずだ」

 アンナは相手の話を聞きながら、霊気をドアの隙間にいれて相手の気持ちを探っていた。メッセンジャーの感情に少し起伏があったが、全体としては安定していたので、言ったことは単なるハッタリではないはず。遺物のためにも従うしかなさそうだ。

「協力、感謝する。しかし、ここからが本当の依頼内容だ。今夜午前零時、囮のキャラバンがポポセイ港を出発し、早朝に南の『ラントロの森』に到着予定だ。あなたの任務は、エステルが殺される前に彼女を発見し、今、口に銜えている物を使って彼女の信頼を得ることだ。エステルと一緒にシルバーウェアに戻ったら、私の主である狐が、あなたが欲する報酬、『マイチの約束』を授けるだろう。そして、この依頼が完了するまで商人ギルドには教えるな、いいか?」

 キーワードを聞いたアンナは、すぐに短い音を発して、承諾の意を示した。

「感謝する。『ハマーン大臣が自分の処刑器具に吊るされますように』」全部サゼラック語で語られるこの言葉は、エステルの故事を正確に引用している。

 その後、武器庫の中で石板がこすれ合う音がして、その者の気配が消えた。おそらく、秘密の通路を通っていったのだろう。

 アンナが自分の口から長方形の物体を手に取り、月の明かりの下でその木の箱を開けてみると、中にはペンダントが入っていた。その鎖もペンダントも金色で、見事な彫刻と装飾が施された。真ん中にある宝石は銀白色に光っていた。

「盗賊エステルって、本当に王妃なの?」アンナは思わず独り言を言った。


―――


▍王妃エステル▍サゼラック人に代々受け継がれている伝説の物語。史料によると、大陸が空に浮かぶ日から数千年前、一人のサゼラック人の女性が異国の王に選ばれて王妃になった。大臣がその王国内の同胞を殺そうとしていることを知り、養父とともに知恵と謀略で同胞を虐殺から救ったのだ。王妃の偉業を記念して、この物語を後世に伝えるために『プリム祭』という祭典が行われるようになった。

▍六聖王都▍浮遊世界最強の六つの帝国のこと。経済力と軍事力を背景に、近隣の小国を自国の勢力圏に押し込め、互いに同盟を結んで巨大な連盟を形成してきたのである。『聖会庁』は、六聖王都で人々をシオニズム(シオン信仰)に導き、祭司庁の大予言者の意志を伝える政治的・宗教的な機関である。シルバーウェア王国の宗主国である『シュタンケンティン』は王都の一つである。

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