第十一章 見て見ぬふり

 少し経ってから同僚たちがあたふたと集合場所に戻っているのを見て、私は何かが起きたのを知った。


「彦霓が幽霊を見たんだよ!」


 私はほかの同僚が劉彦霓の幽霊話を語るのを、訝しげに聞いていた。私の表情が強張っているのを見たほかの人が、余計なことを聞いてきた。「佳芬、怖くないの?」


「彼女は以前往生室に閉じ込められたことがあるんですよ。どう思いますか?」


「なら、ひとまず君は避けておくかい──」候医師が気遣って聞いてくれたが、私はすぐに首を振って拒否した。


 劉彦霓が以前霊視能力を持っていなかったのは、ハッキリわかっている。もし今幽霊が見えるとしたら──


「最近運勢が良くないんじゃないの?廟に拝みに行ってみる?」


 幽霊が見えるほど普通の人の運気が落ち込んでいるなら、それはおそらく『死ぬ運命』ということで、乗り越えられるかどうかは自分の運次第だ。前回の楊育玟はたまたま私と蒼藍に出会ったから難を逃れた。今回の劉彦霓は──


「幽霊じゃないですよ!」劉彦霓はかわいらしい声で反論した。「私はただカエルを見てビックリしただけです!」


 私はホッとした。幸いにもただの誤解だった。めったにない旅行にまで来て、生きるか死ぬかのバトルロワイヤルを繰り広げたくはないからね。


 私が看護師になってもう三年経つけど、今回が初めての防災訓練だ。新米具合は、救急外来に入って二日の劉彦霓とまったく同じなんだけどね。私はほとんどの時間キャリア十年の先輩のもとで指示を受け、やるべきことを学んだ。今回始まった時間がわりと遅かったこともあって、救難用の大型テントと物資がすべて配置された頃にはもう夕暮れ近くになっていた。三つの医療センターと三つの地域病院のテントはすでに明かりを灯していた。それにこの中学校に元からある照明も加わったことで、グラウンド全体が昼間みたいに明るくなった。


 私がお手洗いから出てきたとき、ちょうど同じようにお手洗いに入ろうとする直属の後輩に出くわした。


「佳芬先輩」


「どうしたの?」


 彼女は私が一人になるのを見計らって近寄ってきたようだ。


「この世に幽霊はいると思いますか?」


 やっぱり聞きたいことがあったのか。


 私が知っている事実を明かすわけにはいかないから、この質問には慎重に答えた。


「いるんじゃない?そのうち小魚の座右の銘を聞く機会があるでしょ。いつも言ってるよ『私たちの仕事は何が起きても目をそむけ過ぎちゃダメ』って」


 私がエレベーターで往生室に直行させられたあの一件以降さらによく言うようになったし、ついでに私の幽霊話も言いふらしている。だから誰かに幽霊関係の話題を聞かれたときは、こんな感じで標準的に答えるようにしているのだ。


 私は劉彦霓の目をまっすぐ見て、低くシリアスな声で尋ねた。「今日見たんでしょ?」


「よ──よくわからないんです」


「どんな色だった?」


「緑色です」彦霓が言った。「でも、緑色のは人を傷つけないって聞いたことがあります」


 緑色を帯びているのはさまよえる亡霊と冥官で、赤色は怨霊だ。鬼火の色が人を傷つける基準になるというのは確かにその通りだ。


「じゃあ今もまだ見えてるの?」明廷深はいないけど、もし本当に死ぬ運命だというのなら、今も彦霓は女子トイレに住み着いているさまよえる亡霊を見ることができるだろう。


 私が手を握ると、劉彦霓の顔に浮かんでいた恐怖がゆっくりと薄らいでいった。劉彦霓はようやく顔を上げると、恐る恐る周囲を見回した。


「見えません」


「ならよかった。先に戻ってるね」今見えていないというのは、三つの可能性がある。午後のは見間違えで、死ぬ運命はもう過ぎ去った。あるいは、見たけど嘘をついている。でも、もし本当に見ていたとしたら今みたいに落ち着いていられないはずだから、前の二つの可能性は比較的高い。前の二つに命の危険はないから、私も深く追究する気はない。


「先輩……」劉彦霓は私の背に向かって恥ずかしそうに言った。「少し待っててもらえませんか?ちょっと怖くて……」


 私は暗いトイレと、白いライトの周りを飛び回る蛾に目をやった。トイレには何体かのさまよえる亡霊もいて、すぐさまうなずいた。


 たとえ武術の達人でも、幽霊は怖いんだろうな……


 私が劉彦霓を待っているそのとき、普通のさまよえる亡霊よりもさらに鮮やかな緑色の光が赤い点を追跡しているのが目に入った。きっと今回の防災訓練が無事に過ごせるように、廷深が怨霊を捕まえてくれているんだろう。


 結局、今回の防災訓練は途中までしかやらなかった──夜になって、演習が実戦に変わってしまったからだ。


 夜のとばりが下りたあと、天地の揺れに驚き全員がテントから避難した。中学校のグラウンドに備え付けられていた照明が、『パチッ』という音とともに暗くなった。持ってきたライトは発電機で電力を供給していたので、真っ暗闇になることは免れた。現代人に共通する『病気』は、地震直後に現れる。ほとんどの人がスマホで地震のニュースを検索したり、地震に関するメッセージを投稿したりした。


「電波が入らない……」


「ありえないよ、地震の前はちゃんとフルになってたのに!」


「こんな地震だと津波が来るかな?」


「津波はここまで来ないでしょ?運転手が山間部に入ってから、少なくとも十分は運転してるのを見たし……」


 話し声はますます騒がしくなっていった。私は遠くの空を眺めた。防災訓練の場所は山の中ではあるけど、前後どちらも町からそれほど遠くはない。さっきまでは町の明かりが見えていたのに──


 ない。光害の少なくなった空で星の光は輝きを増していたけど、とても鑑賞する気分じゃなかった。


「廷深?」小さな声で呼んでみたけど、そばに貼りついていた緑色の光は見えなかった。


「みなさん落ち着いてください。まずはその場を動かないでください。各病院の師長は点呼をお願いします。それから対策を話し合うため、医師は各一名ずつ私のところへ来てください。もう一度言います──」拡声器の声はハッキリと皆の耳に伝わった。私はチームの最後尾に立って廷深の姿を探し回ったけど、私の後ろに冥官は現れなかった。


 本当に何かが起きているんだろう。じゃなかったら、廷深が勝手に持ち場を離れたりなんかしない。夜はまだ始まったばかりだ。今は初春だから、だいたい六時には夜が明ける。私は校舎の中と、グラウンドの反対側の林をこっそり見渡した。少なくとも怨霊の赤い光はもうない。霊異的な部分で言えば、今夜は平和な夜になるはずだった。でも同時にそれは、この停電が怨霊もしくはどこかのバカ冥官が誤って電線に触れて起こしたものじゃなく、自然災害か人災の可能性が高いという意味でもある。廷深が見つからない状況だと、内境の関与が猛烈に疑わしい。


「誰か来たよ!」誰かが、遠くでスクーターのヘッドライトのような明かりが校庭を走っているのに気がついた。それからそれはグラウンドの端で停まり、エンジンを切った。


「早くあの人を呼ぼう!地元の人かもしれない!」対策を話し合っていた医師たちはその男に向かって叫んで呼びかけ、さらには懐中電灯を取り出して振り回した。何もないよりは、地元の人がいる方がマシだ!じゃなかったら、山を下る方法や助けを求められる店の場所なんて、グーグルマップに過度に依存している今のこの状況下じゃ誰もわからない。


 来訪者はグラウンドの端にスクーターを停めると、ゆっくりとした足取りで私たちに向かって歩いてきた。夜のとばりに身を隠したその人は、影の中から踏み出した。


 ビニール袋を二つ持ち、さらにはヘルメットをかぶっていたから、デリバリー配達員にそっくりだった。病院の同僚たちがその顔を見たとき、全員が来訪者の身元を認識した。


 人間の格好をした元奕容はきまりが悪そうに言った。「うーん……タイミングが悪いのはわかっているんですが……どなたかデリバリーを頼みましたか?今、スマートフォンの電波がないようでして……」


 私は当初、これは元奕容が私を探しに来たことへの単なる口実だと思っていた。私たちの病院の集団の中で実際に手を挙げる人がいるなんて、誰が想像できるというんだ──


「私です……」


周任祺ジョウレンチ―!」


「先輩!」


「彼らの揚げおでんがすごくおいしいんですよ!私はただ皆の夜食にと思いまして──」我らが救急外来唯一の男性専門看護師はさらに贖罪をしようと、一言付け足した。「台湾風カキフライも頼んでありますよ!」


 その言葉はまったく役に立たなかった。救急科のある者は恥じ入って顔を隠し、ある者は悪態をつき始めた。防災訓練の途中でこっそり夜食を頼んだことを、地震の関係でスマホが機能しないから二百人の前で認めざるを得なかったのだ。当然のことながら、これはおそらくほかの病院で何年もの間笑いぐさになることだろう。


 でもそれはまた、緊急救命室の関係が本当に良いことも証明していた。なぜなら周任祺先輩を罵り(『罵る』っていうか、『からかう』と言ったほうがぴったりな気がするけど)ながら、みんながビニール袋を手に取ってシェアして食べ始めたからだ。元奕容はお金を受け取ると、上着から腕時計を取り出し私のほうに歩いてきた。


「これはあなたが座っていた場所で拾った物です。ずいぶんと探したでしょう」


「ありがとう」私は自分の物ではない腕時計を受け取り、それを付けるふりをした。元奕容が私に近づくという目的を果たすと、私はすぐさま声をひそめて聞いた。「今はどうなってるの?」 


「内境が攻撃してきました。八人小隊です。通信はすべて断たれています。すでに支援の要請をしました。あなたの名を使いましたので、支援は早く来るはずです。今、外では廷深が防いでいます」元奕容の声もすごく小さかったから、楽しそうに食べ物を奪い合うにぎやかな声にかき消されそうだった。  


「私に向かって来てるの?」  


「わかりません。ですがあなたの身元は明らかになっていませんので、廷深に向かって来る確率のほうが比較的高いでしょう。彼は今日一日中、処刑人の制服を着てウロウロしていましたからね」 


「すぐ冥紙を燃やして人を呼ぶ──」


「ダメです──」元奕容は厳しい口調で制止した。このとき、華奢な人影が強引に私と元奕容の間に割って入ってきた。


「そちらの方、あなた妻子がいますよね。お伺いしますけど、先輩に何をしたいんですか?」劉彦霓の口調は不快感が満載で、今にも殺気に変わりそうだった。私は慌てて和らげようと言った。「彦霓、この人が来たのははただ私の物を──」


「近過ぎます!」


「思ってるほどそんなに近くないよ!見間違いだよ」私は奕容に離れるよう目配せをしながら言った。元奕容はまだ話し終わってなかったけど、一方では劉彦霓がハゲタカみたいに睨んでいるし、今の劉彦霓の叫び声も救急科のほかの人たちの注目を集めちゃったから、私たち二人もこれ以上会話を続けることは困難だった。


「彦霓、台湾風カキフライを食べに行きたくない?」


「先輩……」


「お願いだから」私は心から言った。劉彦霓の視線は私と元奕容の間を行き来していたけど、結局数歩後ずさっただけだった。


「あなたはただ友人がたと一緒にいるだけでいいんですよ」劉彦霓に聞かれることを心配して、元奕容はぼかした言い方をした。でも私はバカじゃないから、当然言葉の裏の意味を理解した。


 あなたが見つかると事態がさらに複雑になるから、何もせずに普通の人間たちと一緒にいればいいんだよ、ということだ。


 仮に遠くで行き交う緑色の光を見ても、それに攻撃し続けるカラフルなビームを見ても、私は動くことができなかった。私はマンガの主人公じゃないから、『私も行くぞ!』と大声で叫んでバカみたいに戦場に突入したりはしない。まして私には自分を守る能力がないから、名前を呼ぶか冥紙を使って召喚しても、別の冥官を巻き込んじゃうだけだし。


 スマホが繋がらないから、蒼藍に助けを求めることすらできなかった。


「先輩、何を見てるんですか?あの人がやっぱり変なことを言ったんですね?」


「なんでもないよ。深く考えないの。フクロウが飛んでいくのが見えただけだから」私は劉彦霓を軽く押しやり、おでんを奪い合っている人たちのほうへ移動させた。元奕容が言ったように、人間と一緒にいるのがいい。


「早く食べに行かないと、餓鬼の群れがいるから夜食がすぐになくなっちゃうよ!」


 普通の人間のふりをして、何も見ず、何もしなかった。

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