第八章 口論して勝ってこい

「ごめん、遅くなっちゃった」黒い顔の男が、我が家の食卓のかたわらで長いことお待ちかねだった。私も急いでカウンセリングの準備に取り掛かった――実際は加持済みのモップを持って『物理的治療』の準備をすることでもあるんだけど。ムカつくものは叩くんだ、殿主だからといって軽く叩くつもりはないよ。


「白黒無常が午後病院に魂を迎えに行かない日を選んだんだが、それでも仕事が終わるのが遅かったのか?」殿主の特権として事前に閻魔帳を調べることができるから、心理カウンセラーの仕事終わりが遅くなるかどうかがわかるのか……


 仕事が遅くなると機嫌が悪くなる。機嫌が悪いと私の『物理的治療』における力のコントロールが難しくなる。そうなると……あとは知っての通りだ。


「誰かが死んだり応急処置で仕事が遅くなったわけじゃないよ」私はぶすっとして言った。「今日はまったく頭のおかしい奴に遭遇しちゃったんだ――患者じゃなくて、私に纏わりついている内境関係者だよ」


「内境関係者だと?」閻魔の顔つきがシリアスになった。「宋昱軒は?」


「知らない。さっき見かけたけど、会話が終わったら消えてた」私は少しも意に介することなく肩をすくめた。昱軒はせいぜい私のアシスタントに過ぎない。厳密に言うと、護衛はヤツの仕事の範疇というわけではないのだ。そういえば――


「前からおかしいと思ってたんだけど、私は無免許の心理カウンセラーに過ぎないよね?私へのプロテクトってやり過ぎじゃない?」よく言えば『旧知の仲』だけど、危うく『過失傷害』を受けるところだったよ。宋昱軒が調査に来るだけじゃなく、雅棠まで現れて、さらには蒼藍も……今でもまだよくわからないんだけど、私はただの蒼藍の友人に過ぎないのに、ヤツも私の安全を気にかけているみたいなんだよね?


「佳芬、どれだけの生者がおまえのように自由に冥府に出入りできて、さらには冥官と殿主の情報を持っていると思うんだ?内境が殿主の能力を確認するためには十数年の潜入調査と研究が必要で、その結果が事実とかけ離れている可能性だってあるんだぞ」


「蒼藍はなんて言ってたの?」


「あいつは特例だ」


「わかったよ。要するに私は知り過ぎているから、もっと監視せざるを得ないってことね」おそらくは、十殿の殿主の中で誰がリーダーなのか、誰が軍の指揮権と軍令を握っているのか、誰が主に普段の行政を管理しているのか、誰が判官と相容れないのか、といったことをはっきりわかっているからなんだろう……


 それがすごく重要な情報だということは認識しているけど……そんな情報を人間に委ねるのはすごく危険なことだと思わなかったのか!


「先に言っておくが、プライベートと自由は依然として残してあるんだぞ。監視と保護は本当に必要なのだ――」


「昱軒も含めて?」私は口を挟んで言った。「最初はあくまで私のアシスタントをさせるために寄越したの?それともボディーガードをさせるため?」


「なんだって?お前は昱軒がボディーガードをするのがいやなのか?」閻魔はあごを支えながら興味深そうに私を眺めた。黒い瞳に理解不能な光が瞬いていた。「宋昱軒が最初自己紹介したときに、自分の仕事内容について話しただろう?」


 覚えてないし、それって何年前のことだよ!アシスタントとして使えばいいと思ってたから、そもそもボディーガードにするつもりなんてなかったよ!


 モップを持ち上げて力いっぱい床のタイルを叩いたら、力が強過ぎてひび割れそうになった。「私の話はもういいから。今日は何を相談したいの?」


「話題を変えたな!それは恥ずかしいってことか?つまりお前は、宋昱軒がボディーガードをするのがいいんだろう?」


「私の七年間のカウンセリングにおいて、主訴も言わずに『物理的治療』を受ける最初のクライエントになりたくなかったら、カウンセリングに戻りなさいよ!」クスクス笑いやがって何なんだ!このガングロの閻魔大王は、袖口で顔を隠して密かに笑う古代の少女の真似なんかするんじゃないよ!


「わかった、わかった」閻魔はまだ口もとの笑みを隠し切れていなかったけど、少なくとも私をからかい続けることはなかった。


 殿主のカウンセリング内容は比較的デリケートだから、殿主とカウンセリングするときは常に机の上は空っぽにして、カウンセリング記録を残したりはしない。


 閻魔は心を落ち着けると、重苦しい声で私に言った。「最近ある者と口論したのだ」


「口論?」私は眉をひそめた。「殿主の一人と、誰が口論できるっていうの?ほかの殿主?」


 閻魔は第五殿を管轄しているけど、その名声と威信は間違いなく十殿の殿主の中でトップに位置している。人間界ではそのせいでミスリードされてしまって、殿主たちを総称して『十殿閻王』と呼ぶ始末だ。閻魔は難色を示した。閻魔と口論する度胸のある相手がいったい何者なのか、あまり知られたくないようだった。


 言いたくないなら、私も強制はしない。結局のところ、相手が誰であるかはカウンセリングに影響するわけじゃない。問題を整理して明確にすることと、クライエントの心を楽にさせることの手助けこそが重要なんだ。


 気がついた?私の口論に関するカウンセリングは、クライエントに妥協することを要求しないんだ。一時的に我慢すればトラブルは収まると言ったところで、一生我慢なんかできる?特に冥官たちはとっくに生死の問題なんか超越しているから、我慢したって恨みが深まるだけで、根本的な解決にはならないでしょ。


「つまるところ原因は何なの?」


「正直なところ、俺にもよくわからんのだ――」閻魔大王は腕を組んで考え込んだ。「おそらく言いがかりをつけたかったんだろうし、今回はちょうど奴らに弱みを握られてしまったしな?」

『奴ら』つまり口論の相手は複数ということか。その口調からも集団なんだろう。クライエントのカウンセリング記録を書く必要がないから、私もその感情と言葉から浮かび上がるキーワードを観察することに集中できる。閻魔が不平を言い始めたのが目に入った。「たかがゲームに過ぎないのに、奴らもマジになり過ぎなんだよ!佳芬、誰かと将棋をさしている最中に、部外者が乱入してテーブルをひっくり返されるのを想像できるか?」


「それはどこのゴロツキよ!」私は我慢できず口を挟んで言った。閻魔大王はすぐにうなずいて同調した。「そうだろう、ゴロツキだよな!まったくもって理不尽だし、せっかくの楽しい気分も台無しになったんだよ。奴ら……あんな奴らはとりあえずゴロツキでいいだろう。前から余計な世話を焼くのが好きで、自分たちのことはちっともうまく処理できないくせに、俺のことにまで口を出したがるんだ。親切にも奴らの問題を処理してやったっていうのに、俺が過剰に干渉するのを嫌がるんだよ」


 すべてを自分のコントロール下に置きたがる、コントロールフリークって感じだなあ。この手の人間は間違いなくひねくれ者だ。でも、『コントロールフリークの集団』って、ちょっと矛盾しているな……


「奴らは今、俺との取り決めをまとめたがっていて、その中には二度と奴らの問題に干渉しないこと、二度と遊んで騒がないこと、二度と奴らの前に現れないこと、が含まれているんだ……」


 なるほど。閻魔が来た理由がわかった。


「もし同意しなかったら?」


 閻魔大王は少ししょげながら言った。「奴らに代償を払うことになるだろうな」


「承諾したくないんでしょ?」


「同意なんかできるか!何も間違ったことはしておらんのに、なんでこんな自分を抑えつける取り決めに署名しなきゃならんのだ?奴らなんぞ怖くもない。ただ……」


 閻魔は長いためいきをついた。ためいきの中に数百年の苦悩や哀愁が満ちていて、少しゾッとした。事はどうやら私が思っていたほど簡単ではないみたいだ。閻魔は立ち上がると、ゆっくり我が家のベランダに向かった。


「佳芬、お前はわかっていると思うが、世間では俺が清廉で剛直だなどと言うばかりで、争いを好まないというイメージは定着していないのだ」閻魔大王はベランダの手すりにもたれかかった。私の角度からは三百万元の借金を踏み倒されておまけに美人局に遭ったようなしかめっ面は見えず、ただ悲しげな後ろ姿だけが見えた。「お前のところに来てこんなことを相談しても、『そのくそったれ野郎を母親が息子だとわからなくなるまで殴れ』という答えが返ってくるだけなのはわかっているよ」


 ……本当に私のことをよくわかっているね。私も本気でその言葉をかけようかと思っていたところだよ。


「だが……もしそいつを殴れないとしたら?」閻魔は言い終わると軽く首を振り、小さな声でブツブツ言った。「俺はなんだってお前とこんなことを話し合いたいんだろうな?お前はたかが普通の人間に過ぎないのに――」


「普通の人間であるこの私を見下してんの?」私の口調は不快感でいっぱいだった。私を見下すだと?重要なのは私に聞かれてたってことだよ!


「もちろんそんなことはない。ただ――」


「ただ閻魔大王様の悩みが大きいだけで、私みたいなちっぽけな人間の女じゃ共有できないってことなんだよね!」私は皮肉っぽく言うなり、イラッとして怒鳴った。「私を信用してないなら、カウンセリングに来るんじゃないわよ!長年のカウンセリング経験は何も教えてくれなかったわけ!?」


「佳芬、誤解だ。俺の話を聞いてくれ――」


「言いわけなんかいらない。私は心が広いから、そんなことは気にしないよ」私は冷たく言うと、テレビ台から冥紙と赤インクを取り出して、冥紙の裏に文字を書き殴った。私は金宝元(古代のお金)を丁寧に折って、その文字を隠した。


「私のところに来る際の二番目のルール覚えてるよね?」


「あの『器物を破損したら損害賠償を請求するが、冥銭は受け付けない』ってやつか?」


「……それは三番目」


「じゃあ『無免許だからどんな結果になっても自己責任』ってやつだな」閻魔が正解を答えたあと、体を震わせているのが見えた。閻魔はためらいがちに聞いてきた。「お前は俺に何をしたいんだ?」


「悩みの解決方法だよ」私は冥紙の金宝元を閻魔の目の前でちらつかせた。「今日の悩みをまとめてみるよ。今日私のところに来たのは、なかなか決断できなくて悩んでるからだよね?」


「そんなところだな……」


 冥紙の金宝元は空中で弧を描き、閻魔の手の中に落ちた。閻魔は困惑した様子で私を見ているので、言ってやった。「これが悩みを解決して、決断を下す手助けをしてくれるよ。金宝元をそのゴロツキに渡して――こっそり中に書いてあることを見たらダメだからね!」


 開けようとしていた閻魔の指が空中で止まり、結局ゆっくりと冥紙の金宝元を袖にしまった。


「私を信じないの?」閻魔の複雑な表情を見て、私は聞いた。


「この十年一貫して、お前は俺たちのために最善の決定ができると信じてきた」蛍光灯が点滅し、黒い顔の男は目の前から消えた。


 閻魔の決断を下す手助けって言ったけど……これってただ私が決断してあげただけだよね。閻魔は明らかにあのひどい取り決めに応じる気はなかったわけだし――


 じゃあ情勢を激化させて、閻魔が二度と後戻りできないようにしよう。


 ふと、金宝元を手にしたゴロツキが、それを開けて中の赤い文字を見たときの表情を知りたくなった。


 あの冥紙にはこう書いてあるのだ。


 Fuck You.

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