第二十五章 女性よ、暗闇に潜むよからぬ影にいつ何時もご注意ください
暁蕾がいたずらをしたのか、蒼藍が大量の怨霊を放出したのか。尹さんはその日言葉通りに病院の外で私の退勤を待っていたわけではなかった。そのおかげもあって何日かのんびりできるので、ついでに張昀禎を助けるための道具を用意しよう。相手はただの人間にすぎないはずだから特に蒼藍にも声はかけず、手提げ袋の中に防犯スプレーと防犯ブザーに自撮り棒を詰め込み、ストーカーを捕まえに行く準備を整えた。
どんなスツールが武器トップテンの筆頭なんだろう……スツールを持って歩き回る人なんて見たことある?不便ったらありゃしないよ!もちろん、伸び縮みできる上に軽くて精巧なチタン合金製の自撮り棒を持ち歩いているから、本当に悪い奴に遭遇したらバット代わりに振り回せばいい。
「佳芬バイク持ってないんですか?」私が「乗せてくれ」というポンコツ人間だと思われてしまうお願いをすると、昀禎は田舎者を見るような驚きの目で私をしげしげと見た。「バイクなしでどうやってここで生活してるんですか?」
「近くの公共交通機関はそれなりに便利なの。それにそんなしょっちゅう出かけるわけでもないし」
事実、『直線七秒』のテストを七回受けたが、ムカついたので受けるのをやめた。どうせ近くにバスも地下鉄も電車もあるし、たまに超自然的な移動方法だってある。バイクがなんだというのだ?私のツラの皮が厚いならの話だが、蒼藍に連絡すれば三分後には太平洋を横断してハワイのビーチで日光浴することだってできるんだ。
昀禎もそれ以上深く追及することなく、ヘルメットを手渡すと後部座席に乗るよう合図した。彼女の運転は穏やかなほうと言えたが、それでも私を驚かせた。
というのも彼女のスクーターは、一目で問題があるとわかるその手のマッサージ店の前で停まったからだ。
私の同期は私を売り飛ばすほどのワルになってしまったのか!
「昀禎……」
「ああ、そんな驚くことないですよ。ここはこの手の店ばかりですから」
知ってるわよ!この通りは近所でいちばん有名な風俗街だよ!
「私の家は四階です」
「……」まずは黙っておこう。後々の質問の答えはすでに予想できている。しかし、時として物事は私たちが思うようにはいかなかったりもするものだ――
「昀禎はなんでこんなところを借りたのよ!ここはすごく──」
「大丈夫です、すぐに入れば問題ないですから。下の階のお姉さんは会えば挨拶してくれて、とても親切ですよ」昀貞はさも当然といった感じで言った。「ここは家賃が安いですよ!一か月千五百元だけで、バス・トイレ付きです!私たちの病院の近くでバス・トイレ付きといったらどれも四千五百元以上しますよ」
そうは言ってもお金はこんな風に切り詰めるもんじゃないだろう!お金はまた稼げばいいが、命は大切だよ!
頭が痛いのは私のほうだ。助けると約束した以上、最後まで面倒見ないことには良心が痛む。しかし……人の出入りがこんなにわちゃわちゃしているというのに、どうやってストーカーを探せというのか?ここを通る一人一人がみんな怪しいんだよ!
どうやらまた考えないとならないようだ。でもやっぱりストーカーの習性はもっとよく知っておいたほうがいいだろう。私は昀禎に聞いた。「『人に見られている』って感じることはあるの?」
「ないですけど……私が感じられないだけですかねえ?」
そうなると直接ストーカーを見つけるという選択肢はアウトだ。私はまた聞いた。「じゃあ普段どのシフトをあがったあとに謎のプレゼントを受け取るの?」昀貞はじっくりと考え、しばらくしてから返答した。「よく考えてみると、準夜勤シフトが終わったあとに見かけることが多いですね。準夜勤明けのが比較的新鮮で、時にはまだあったかいホットドリンクもありますから」
準夜勤シフトは四時から十二時まで……私たちのシフト表は固定ではないし、一般の人が入れない所に貼ってあるから、ストーカーがシフト表を手に入れる可能性は低い。昀禎の勤務時間を知るには……
まさか院内の同僚?
「佳芬、ここに立っているのはよろしくないので、まずは上がって私の家で腰を下ろしませんか?」
「オッケー!」確かに、女性二人が怪しいマッサージ店の前に立っているのはかなり安全上の問題がある。マッサージ店を通らなければならないのかと心配していたところ、昀禎が私を目立たない金属製のドアへと案内し、二人前後して階段を登った。
最初に気付いたのは、階段の曲がり角にしがみついている赤ちゃんの霊だった……中絶したり流産したりした胎児の魂は通常直接輪廻の輪に入るので、このような霊は出生後に殺されたものなのだろう。
うっかり超常事件を誘発させないよう、私はその虚ろなさまよえる亡霊を無視することに全力を尽くした。あとで雅棠に知らせて処理させればいい。しかし、三階の右側の家のドアに血のように赤い小さな手形が付いているのを目にしたとき、このビルはかなりヤバいということがわかった。
どうやら道案内人は対応が追い付いていないようだ。やはり処刑人も一緒に呼んだほうが比較的安全ではある。どうせ雅棠に通報したあとは、自分で必要な人員を見繕うだろうし。
「あ、今日もありました」昀禎が地面に置かれた箱を指さした。彼女が拾って開けると、中身は手の込んだカップケーキだった。
箱はまだ冷たく、冷蔵庫から出してきたばかりだった。しかも、箱の上には「張昀禎」と名前まで書いてあった。
「やっぱり今回も準夜勤シフトだね?」今は深夜の一時だ。私と昀禎はまさに準夜勤シフトを終えて来たのだ。お金の節約のためにこんな危険な所に住める昀禎だからこそ、私は心配になって聞いた。「これらのもの、まさか食べたことはないよね?」
「当たり前じゃないですか!」昀禎は私の後ろで金属製のドアを閉めた。「いいですか?私はまだ自分の命と貞操を大切にしてますからね!」
少なくともこのくらいのわずかな安全意識はまだ持っているようだ……だが安心はできない。視界の端に映ったなんだかわからない赤い光のせいでひどく気分が悪くなった。
……忘れずに処刑人を見つけてやる。
「ここか!」幸いにも昀禎が赤い光から遠ざけるように、私を連れてリビングルームを通り抜けた。彼女がシーリングライトのスイッチを入れると、目に飛び込んできたのはキレイでピカピカなバス・トイレ付きの部屋だった。
「すごくキレイな部屋じゃない!」さまよえる亡霊もいなくて、本当によかった!
「少なくとも週に一回は床をモップがけして、ごみもほぼ毎日捨ててますよ」昀禎は言った。「ゴキブリが嫌いなので、できる限りゴキブリが耐えられないレベルの清潔な部屋を維持しています──佳芬はコーヒー飲みますか?」
「要らない。帰ったら寝るから」視界の端にまた赤い光が映ったが、何も見なかった振りをしてわざと気軽に世間話を始めた。「そんなに金欠なの?お金の節約のためにこんな所に住む必要あるの?」
「部屋を買いたくて頭金を貯めてるんです──」昀禎はしょうがなさそうに言った。「今、部屋は本当に高くて、マンションの頭金だと、ともすれば三百万元します。お金を節約してなかったら、部屋を見るのもいやですよ……」
見るどころか、私は家を買うなんていう考えすら放棄したぞ。私が家賃月一万八千元のビルに住んでいるのを見れば、私がまったく家を買うつもりがないことがわかるだろう。そんな住宅価格なんてまったくもって無理なハナシだ!どうせ死んでも持って行けやしないんだ。今のところ結婚するつもりもないし、生きている間は賃貸で暮らしたほうがよっぽどいい。一人暮らしなら、カウンセリングのときに超常現象でルームメイトを怖がらせる心配もないしね。
たまに私の価値観は冥府の影響を受けていると思わずにいられない。
「でもやっぱり安全のほうが重要でしょ……」
「ああ、ここに住んで二年目ですけど、全然大丈夫ですよ」昀禎は私を安心させたいらしく、私の後ろの部屋を指さした。「あの部屋に住んでるのも私たちと同じ院内の人間で、いつも私を心配してくれてるんですよ!しかも大家さんも、もし下の階の特殊なお仕事の音に悩まされるようなことがあれば、話を通しに行ってくれるって言ってくれました」
昀禎が指さした場所はまさに赤い光の発生源だったので、内心さらに寒気を感じた。しかも赤い光の源はどんどん私たちに近づいてきているようだった。もはやその赤い光が昀禎の顔に反射しているのも見てとれた。
「じゃあ大家さんにストーカーのことは報告したの?」
「なんとかするって言っただけで……でも二週間経っても何の進展もありませんでした……」昀禎は悩むようにあごを手で支えた。「ストーカーのために引っ越しなんかしたくないんですよ!直接断ることができるように、そのストーカーには面と向かって贈り物を渡してほしいです」
昀禎の後ろの窓には、すでに怨霊の形が見てとれる。だが彼女が私の「見える」力を知ってしまうのを恐れてあまりじろじろ見ることはせず、女性であることを認識するだけに留めた。彼女は私に対して悪意はなく、興味を持っているだけに過ぎない。明らかに私が彼女の執着を引き起こしたわけではなかったが、体に施されているプロテクトが彼女の注意を引き付けた。
「さもなきゃ次はメモを外に残して、会いたいって言ってみれば?」私は提案した。「会うときは忘れずに男の友人に知らせてさ。私でもいいよ。私の友人に手伝わせるから」自分が言ったことに気づいて、私はすぐに首を横に振った。「ダメだ、ヤツはあんたのシフト表を知ってる。これだと約束をしてない日に会いに来るかもしれないから、かえって危険だ」
あのどんどん近づいてきている怨霊が私の考えを邪魔しやがったに違いない!会う約束をするなんてどれだけ危険なことか!特に風俗街は人の出入りがこんなにわちゃわちゃしてるんだから、どんなヤツが来るのかわかったもんじゃない!
私は性サービスを求める人間を差別しているけどなにか!アタシは絶対的に一夫一妻制を尊重してるし、婚前交渉だって徹底的に拒否してるんだ!それから後ろのあの怨霊それ以上近づいてこないでくれるかなと怖いんだよ!私は気を紛らわすために脳内であれこれとくだらない話を始めた。頼むから蒼藍への電話を強制しないでくれ!
昀禎は私を見つめている。私の後ろの怨霊を見ているのかと思うくらいずっと私を見つめている。
「佳芬は私が思っていたのとは全然違いますね!そもそもそんな慎重な考えの人だったんですか?」
後ろのあの怨霊が手を伸ばしてきて私の背中を探っている。怨霊のこの動作が何を意味するのかはわからないが、その手に触れられると良くて風邪、悪いとその場で急死してしまうのは知っている。それから私は何も知らないふりをして昀禎に返事をした。
「頭を使ってどうしたらいいか頑張って考えてるんだよ……」そう言ったその時、女性の亡霊の手がもうあとちょっとで私の背に触れようとしていた。突然、白い防護シールドのようなものが女性の亡霊を弾き飛ばした。首にかけていた蒼藍印のネックレスは防護シールドが出た瞬間焼けるように熱くなり、その後すぐに熱は引いた。
「本当にありがとう、佳芬。佳芬がいなかったら、本当に誰を頼っていいかわかりませんでした。ここにも一人住まいですし、こんなこと家族にも言えないですし」
「感謝するなら早く引っ越しなさいよ!ここには本当に長くは住めないからね。安全第一よ、わかった?」幸いなことに女性の亡霊は攻撃を続けてこなかった。しかも警戒して遠くに後退し、様子を見続けている。
困難を無事切り抜けられて、蒼藍のお守りには感謝だ。
「大丈夫ですよ、自分の面倒は自分で見ます!助けが必要なときはまた伺いますから!」
「いったいどうしたらいいんだろう……」
「風俗街から戻って来て以来、悩んでるみたいだね」
「変な言い方しないでよ!私はただ友人の家に行ってきただけなんだから!」宋昱軒をギロッと睨みつけた。宋昱軒は口では「ごめん」と言ったが、表面上少しも反省している様子はなかった。
「僕らを張り込みに使って、そのストーカーを探し出してもいいよ。写真は撮れないけど、犯人を特定する手伝いはできるし」
私は直接的に拒否した。「必要ない。これは人間の範疇だから、冥官に面倒をかける必要はないよ。それにもしあんたたちが張り込みをして内境関係者に見られたらどうするの?」人間の友人の安全を心配するだけでなく、冥官の友人の立場も考えないとならない。そうじゃなきゃ、冥官に頼んで張り込みして特定してもらうのが間違いなくいちばん速いのだ。「そういえば、あそこの怨霊は……」
「さまよえる亡霊は雅棠に連れていかれて、怨霊は蒼藍に詰め込まれて持って行かれたよ。蒼藍が言うには、このところ大量の怨霊が必要だからストックを補充してるんだって」
おそらく私の注意をそらすために大量の怨霊が必要だったんじゃ?
「少なくとも亡霊の件は解決した……じゃあストーカーの問題はどうすればいいんだ?」私はブツブツと言いながら、どんどん白熱していく武術大会を見ていた。第三試合場の拳一つで試合を優位に進めている選手も超カッコいい!エンターテイメントポイントを付け加えてもいいな。第一試合場の剣法もすごく鮮やかだ……でも何の役にも立ってないみたいで、いくら優雅でも反対側の大きい斧に圧倒されている。けどものすごく鮮やかなので──ポイントを付けてもいいかな。
「普段僕たちに対してやっているように、たぶんストーカーを捕まえて殴るんでしょ?」宋昱軒は真剣な面持ちで回想した。「ひょっとしたら吊るし上げて街中を引き回すのかもしれないな」
「今日は試合ないの?」図星だった私はちょっと気分が悪かった。なんで私が暴力的みたいに言うのよ?「次の試合じゃないの?降りて準備しなくていいの?」
「準備はいらないよ。その試合はたぶん負けるから」負けて当然なんて思うヤツがどこにいるんだよ?相手をちらっと見たが、隋王朝の処刑人か……宋王朝の昱軒には本当に何の勝ち目もなさそうだ。
案の定、宋昱軒はほとんど三分以内で殴られて場外となり、ベスト十八止まりに終わった。私の後ろに戻って来て縛霊縄を引き継いだ宋昱軒にも、気落ちしている様子は微塵もなかった。おおかた自分の実力が人に及ばないことがわかったんだろう。
「つまり君は君の友人を追い回しているストーカーを吊るし上げて鞭打つんだね?」
私は宋昱軒が試合前の話題を続けていることを知ってしばらくフリーズした。私は言った。「なんでも暴力で解決できるわけじゃないでしょ……」どうやら宋昱軒の「理学療法」に対するイメージは、すでに頭の中に深く根付いてしまって簡単には変わらないようだ。私はため息をついた。「人間は考えなきゃならないことが多過ぎるから、対処するのが難しいよ。私は最後まで対処して昀禎が白黒無常に連れていかれるのを見るのは嫌なんだ」
人間は死ぬ。冥官は消散する。けど人間は死ぬだけじゃなく、ケガもするし、冥官と比べるとひどく脆い。
実際、昀禎に引っ越しさせることこそがいちばん根本的な解決法だ。あそこの人の出入りは本当にわちゃわちゃしているから、仮にそのストーカーを阻止できたとしても、あの環境がまた別のストーカーを生み出しかねない、という問題がある。でも、昀禎は本当に引っ越しするつもりがないみたいなんだよね……
だから私は人間をカウンセリングするのが嫌なのだ。人間は考えなければならない要素が多過ぎて、複雑過ぎる。
まさか本当にストーカーから手を下さなきゃならないのか?あの日防犯グッズを持って行ったけど……それは突発的な事態に対処するためだ!そもそも「想定内」でストーカーと関わり合いたくなんかない!待て待て、ひょっとしたらそのストーカーは、ただ普通に昀禎に恋しているだけかもよ?それなら理性的なコミュニケーションがとれるはずでしょ?でもそれだと自分も巻き込まれるんじゃないか!
面倒くさいなぁ!いったいなんで吊るし上げて殴ったらダメなんだ!またやったらまた吊るせばいいんだ!
「簡さん、かなり思い悩んでいるみたいだね!本当に僕らの手助けは要らないの?水鏡で探したらすごく早いよ!」
「本当に要らない……」
「じゃあストーカーを脅かしてあげましょうか?」二千歳のロリは無害そうな顔で笑い、さらには美少女戦士の決めポーズをまねた。
「本当に必要になったらそのときはお願いするから……」要は、人間の問題で冥官に頼み事をしたくないのだ。時間が経てば麻薬と同じように依存性が出てきてしまう。まだ少しは普通の人間としての尊厳を持っていたいのだ。
私は実際に、昀禎にピンホールを買うよう言った。それはいちばん想像力に欠け、それでいて実際にいちばん安全な方法だ。証拠を保存したら警察に送って、受理してくれるかどうか様子を見よう。
……結果的にそのピンホールカメラはピンホールでもなんでもなく、昀禎の家の金属製のドアにはカメラを隠せる場所が一か所もなかった。私はピンホールカメラを手にしながら、ガラクタを買うのに千元も無駄にして、なんでこんなにバカなんだと心の中で自分を罵った。
「ピンホールカメラは私も考えました。けど……」昀禎は細くて古びた金属製の門扉を指さした。「おわかりかと」
私は千元のためにしくしくと泣いた。
自分に買ったと思って以後使おう……内境との接触頻度からすると、ひょっとしたら本当に必要かもしれないし。うっかりヤバい人を怒らせて路頭で不慮の死を遂げることがあっても、弟に申し開きができるからね。
生まれてから今まで聴き慣れたゴミ収集車の音楽が、街角からそこはかとなく流れてきた。
「ちょっと待っててください、ゴミを捨ててきます。私の部屋で座っててもらっていいですよ」昀禎は部屋に入ると、ゴミ袋を一つ持って階下に急いだ……
今は夜の九時だ。
「待って!」私はついに、ストーカーがどうやって昀禎のシフトを掌握してるのかがわかった。こんな簡単なことを最初に思いつかなかったなんて!バカか私は!
「今日はひとまず捨てないで」
「でも食べ物にゴキブリが寄って来ちゃいますよ」
「私があとで家に持って帰って捨てるから」
私は彼女を部屋の中に追いやった。「入ったら話すよ」
「ほら、やっぱりあったでしょ!」ちょうど一時過ぎ、これぞまさに昀貞が普段準夜勤シフトを終えて家に着く時間なのだ。私は彼女の住居の金属製のドアを開けた。案の定、皮を剥いた果物がドアの前に置いてあった。箱はまだ冷たく、上には同じく昀禎の名前が書かれたメモが貼ってあった。
「本当だ!佳芬すごいですね!」
「ピンときただけだよ」
ある種のルーティンはあまりにも当たり前過ぎて、私たちはこの習慣が下心のある人間に悪用されるということを考えもしないものだ。ストーカーは毎回食べ物を寄越し、そのタイミングで昀禎は生ゴミがあれば出て行ってゴミ収集車を待ってゴミを捨てる。だから、昀禎がゴミを捨てに出て来ない日は準夜勤の勤務中であり、ストーカーは近くに身を潜めていれば昀禎がどこに行くのか見ることができる。名前は昀禎とほかの人がおしゃべりをしているときにストーカーに聞かれたのかもしれない。あるいは、一緒にゴミを捨てる振りをしたストーカーに昀禎が無防備に自ら教えてしまったのかもしれない。名前の書き方はもっと簡単だ。読み方がわかった以上、ビルの郵便受けを何週間も調べれば、ビルのどの部屋に誰が住んでいるかだってわかる。
風俗街の人の出入りはもう十分にわちゃわちゃしているから、さらにもう一人悪だくみをする人間が増えたところでそれほど注目を集めることもない。
ここは安全な国だから、人々はこういった些細なことにあまり注意を払わない。こういった些細なことがひとたび下心を持った人間に悪用されてしまうと、所在もつかまれてしまう。
「じゃあもっと気をつけます!少なくとも、またストーカーが物を送って来ることがないように……毎回見るたびにいつもゾッとしてたんです」
「こういう奴らはキモいよ」私は昀禎みたいに上品じゃないし、言葉選びはさらにキツい。
「じゃあひとまず帰るよ!また明日」
「急いで帰ってください!気をつけて!」昀禎は手を振った。「本当にありがとうございました」
「いいえ」階段を降りると、気になっていた階段の赤ちゃんの霊と三階のドアにあった小さな手形はもう消えていた。どうやら、雅棠と蒼藍が本当に「亡霊たち」をきれいに片付けたんだろう。
でも、入口にあのメモが貼ってあった……
『昀禎に近づくな』
フッ、どうやらまた生身の人間に脅されているようだ!私がすぐ最初にしたのは電話をかけることだった。
「もしもし、昀禎!写真を送る……言っておくけど、ここに人は住めないよ!早く引っ越して!」
あの日の夜こうして終わったと思った?
そんなわけはない!
私はあの日、スマホをいじりながらその場を去ったが、すぐに招かざる客が自分の後をつけていることに気がついた。私の霊能体質が正常に発揮されたせいか、オートバイのバックミラーに映った怨霊の赤い光が見え、怨霊に取り憑かれた兄さんの姿も見えた。
私はすぐさま昀禎にメッセージを送って警察への通報を頼み、私を助けるために外には出ないよう伝えた。同じ看護師なら、「まずは自分を守ってこそ、人を守ることができる」という鉄則をわかっているはずだ。
私はコンビニに向かって前進し、後ろにいるストーカーには気づいてない振りをした。もともとタクシーを呼ぶために行ったのだが、今行くのは助けを求めるためだ。
だが私は完全に後ろにいる殿方の敵意を甘く見ていた。コンビニ店員に助けを求めるのが間に合わず、後ろの人物は店に入ってきてしまった。まるで私が彼の幸せな夫婦生活を壊したかのように(あるいは本当にそうかも?)私を睨みつけ、さらには突進してきた。
私?当然、まずは逃げるよね。
自分の背が低くて小さい体が、このときばかりは役に立った。いくらか体を低くかがめることで商品棚の間に隠れることができたので、ストーカーとの「鬼ごっこ」を開始した。すぐさまヤツは商品棚が邪魔なことに気づき、力を入れて商品棚をひっくり返した。商品がすべて地面にばら撒かれたので、コンビニの夜勤バイト君はカウンターの後ろに隠れてとんきょうな声で何度も叫んだ。彼が電話をして警察を呼んでいるのもかすかに聞こえた。
商品棚は一つずつ押し倒され、私も徐々に身を隠せる場所がなくなっていった。可哀そうなバイト君を守る気持ちから、私もカウンターの後ろに隠れるのは避けたかった。
警察は!早く来なさいよ!
私はもう逃げる場所がなかった。冷蔵庫のドアに背をぴったりと付け、手には防犯スプレーをギュッと握りしめた。
「お前はなんで僕と禎禎の仲を壊すんだ……」
何が「禎禎」だ──くそ、始めから聞こえていたつぶやきはこれだったのかよ!今から隠れても間に合わないし、そもそもヤツが言っているワケのわからないたわごとを理解する気はない!しかもあの虚ろな目つきに不安定な足どり……お酒を飲んだり薬をやったりするわけじゃないよね?
ストーカーが私からあと五歩の距離に迫ったとき、私は防犯スプレーをヤツの前に振り上げ、力の限り押した──
……
くそっ、ロックを解除するのを忘れていた。ここでみなさんに一つお教えすると、防犯スプレーを持ち歩いても役には立ちません。操作方法を覚える必要があります。さもないと私みたいに気まずい状況に陥ってしまいます。
防犯スプレーを見たストーカーはメチャクチャ激怒し、防犯スプレーを叩き落としただけでなく、私の顔めがけて拳を振ってきた。その拳は反射的に私がとった手で頭を守る動作によって阻まれたが、そのあまりの威力で私は地面に倒れてしまった。
「禎禎は僕を愛しているんだ。彼女は毎日密かに僕を見ていて、僕も密かに彼女を見ているんだ……」
もうたくさんだ!頼むから黙ってくれないか!私は這ったり転んだりしながら起き上がろうとするも、ストーカーが私の足首をつかんでヤツのほうへと引っ張った……
それからストーカーは地面に倒れ込んだ。諸悪の根源は心配そうな表情で私を引っ張り起こした。「佳芬さん、大丈夫ですか?」
くそ、ストーカーが倒れたと思ったら今度は別のもう一人の相手だよ。
「なんであんたがここにいるのよ?」きわめて不愉快な口調で言った。
「命の恩人に対してそんな言い方するんですか?」
「それは、私はあんたに助けてくれと頼んだわけではない、ってことよ」私は彼が差し出した紳士の手を無視して自分で立ち上がり、遠慮なく言った。我ながら今のはさすがにひどいな。
「もし私があなたを助けなかったら、とてもよろしくないことが起きていたかもしれませんよ」
「犯されるか殺される、って言えばいいでしょ。私は成人なんだから」私は腕をぐるぐる回した。これは絶対あざが残るな。移動には問題ないから、たぶん大丈夫だろう。せいぜい明日の勤務ついでに診察の受付をして、先生にちょっと見てもらうくらいだろう。私は尹さんに軽蔑の眼差しを向けた。「私の後をつけてるの?」
「退勤するのを待つと言ったはずですが、それは後をつけていることにはならないですよね?」
いや、私の目にはそれは十分にストーカー行為だよ。あんたと倒れているアイツとの差はただ単に「私があんたを知っている」のと「あんたは私に対して悪意がないということを私が知っている」ということだけに過ぎない。内境関係者が私に対して悪意があったら私はとっくに死んでいるだろうし、ましてやここでヤツとこんなどうでもいいことを言い争ってる命もなかっただろう。
「家まで送りましょう」ヤツは提案した。一般的に言って、ヒーローが美女を救ったあとにこの提案を口にするのは至って普通のことだ。だが残念なことに、ヤツはヒーローではないし、私も助けが必要な美少女ではない。
「要らない。あとで調書もとらないといけないから」噂をすれば影、パトカーのサイレンの音が近づいてきて、コンビニの入口で停まった。かわいそうな夜勤バイト君は恐怖のあまり言葉に詰まったが、地面を指さす身振りは明らかに犯人が誰であるかを指し示していた。
この、昀禎を怖がらせた野郎が以前武装強盗で捕まっていたと聞いて、私も胸がすく思いだった。今は仮釈放中なので、このドタバタ劇のあとヤツはまた鉄格子の中に送られることになる。どうやら昀禎は、逃げるように急いで引っ越しする必要はなさそうだ。
不愉快なのは、私が警察から出てきたときにはもう心身ともに疲れ切っていたにもかかわらず、外にはまだガムのように私にひっついている内境関係者がいたことだ。
「いったい何なの、私から離れてってば。後ろにある警察署に駆け込んであんたを捕まえてくれるよう通報するよ?」
「うーん……」尹さんは真剣な面持ちでちょっと考えた。「彼らも私を捕まえることはできないじゃないですかね?」
「忌々しい内境関係者め」私はあのとき名刺を受け取ったことを後悔し始めた。警察署がある場所は私の家からはちょっと離れている。夜が明けても家に帰れないという状況を避けるため、別のコンビニを探してタクシーを呼ぶことにした。尹さんは黙って後をついてきた。
私はついに耐えきれなくなって、振り返ると怒って言った。「いったい何の用なの」
「あなたは近いうち死ぬ運命にあります」彼は少し考え、結局私に言うことにしたようだ。
「もっと面白い話はないの?」
「佳芬さん、これは面白い話でもなんでもないです」尹さんは首を振り、真剣かつ残念そうに言った。「前回お会いしたとき、あなたの面相がとてもよくないことに気がつきました。さらに占ってみたところ、近いうちに死ぬ運命にあると──」
「占った?」吐き気が込み上げてきた。「どこから私の生年月日を手に入れたわけ?」
「せ、西洋の占いは生年月日がなくてもできるんですよ!」
そんなオドオドした物言いで誰を騙そうって言うんだ!それと──
「これ以上後をつけてこないで!私はもう安全だから!」
「あなたが不幸な目に遭うと知ってしまっているのに見過ごすんですか?」
ああ、この手の話を聞かないカタブツ野郎は……そういえば尹さんは内境関係者だから、人間のルールで扱う必要はないよね?
「私が死ぬ運命はたった今過ぎ去ったから、もう放っておいてくれればいいでしょ!」
「違います。さっきのではありません」
自信があるみたいだけど、もしかして本当に、尹さんは自分が割り出した死の運命がどれなのかわかるっていうの?
死ぬ運命……こんな若くして白黒無常に連れていかれたくはないけど、来るべきものは来るんだからさ、隠れて何の意味があるわけ?
私はそっぽを向きながら、言った。「まあ、あんたがそこまで言い張るんなら……」
尹さんは私の諦めに近い発言を聞いてホッとしていた。でも次の瞬間、私は手を上げて防犯スプレーをお見舞いした。
私は大まじめに、ゴキブリにスプレーするのと同じように、新品の防犯スプレーを一缶まるまる残さず使い切った。顔にはたっぷりとスプレーし、手足や首にまでスプレーしたから、ヒリヒリしてたまらないことだろう!
ったく、人間の話がわからないのかよ!どうせあんたたち内境関係者は魔法で治療できるから、この手の防犯スプレーなんてどうってことないでしょ!あんたを人間扱いしないとこういうことになるわけよ!
「佳、佳芬、あなた――」事実が証明しているように、内境関係者は万能ではない。顔中に刺激性の液体をかけられた尹さんは痛さのあまり地面でのたうち回っている。呪文を唱えようとしているのは聞こえるが、その声は呪文が発動しないほど不明瞭だった。
さっき婦警のお姉さんたちに防犯スプレーの使い方を教えてもらったのは無駄じゃなかった!
「ついてこないで、って言ったのに言うことを聞かなかったんだから、いい気味よ!」なんで家までついてこさせなきゃならないって言うんだ?家に入ってきて呪文が書かれた『理学療法』の道具を見る必要なんかないよ。その前にまずはドアに幾重にも施された冥府のプロテクトを目にすることになるだろうし、ひょっとしたらそれに加えて蒼藍の結界もあるかもしれない。普通の人間の家にこんなたくさんのプロテクトが施されているなんて、どう見てもおかしいでしょ?
このメーカーの防犯スプレーは本当に役に立つから、次は二本買ってリュックに入れておこう。
私は尹さんを道端に置いてけぼりにしてその場を去った。彼を助ける気持ちはこれっぽっちもなかった。しばらく歩いたあと川辺で立ち止まり、誰一人いない川岸に向かって言った。「出てきたら?」
冥官と一緒に歩く私の姿を見られることを心配してか、今回宋昱軒は人間の身なりをしているので、冥官特有の緑色のかすかな光さえ完全に抑えられていた。
「そもそも一発殴られたら助けに行こうと思っていたんだ」
「助けは要らないってあんたたちに言わなかった?」
「だからずっと顔を出さなかったよ?」宋昱軒と私は並んで歩いていたが、人間の温もりや声の響きは感じられず、彼の体から発せられる冷たさだけが感じられた。以前はこんな敏感になったことはなかったから、どうやらこのところ私の運気は本当に下がっているのだろう。
「タクシーを呼ばないの?」
「次のコンビニに行ったら呼ぶよ」
タクシーの運転手がお客を乗せるときに、防犯スプレーを受けて地面でのたうち回っている男を見たらビックリするよね?しかも今は宋昱軒がいるから、私もより安心だ。
冥官の付き添いがあると、いつもリラックスできる。
「あなたの友人の住まいの後始末に行ったときにその友人を見たんだけどさ、」道すがらあまりにも静か過ぎるせいか、宋昱軒が報告を始めた。「彼女は本当に引っ越ししたくないみたいだね」
「まぁ私にもどうしようもないよ……人間はあんたたちみたいに部屋が全部公営住宅、というわけにはいかないからね。引っ越しが必要な場合も、住居の管理所を通して相談の上で相手の合意を得るから」
宋昱軒は傍らでなんら意見を発することなく、次の指示を待っている。
「昀禎の周りに特に危険な人物がいないか見てきてよ。あの子の集合住宅に怨霊がいるから、ちょっと心配なんだ」
「あそこに危険人物はいないよ。僕も調べたけど、怨霊を引きつけるようなものはなかったよ」
本当に私をよくわかっているなあ。
「じゃあひとまずそのままにしておこう。昀禎のほうはまた説得してみる」
腕時計を見ると、もう朝の五時だった。武術大会の準々決勝は朝の七時開始ということもあって、どうりで宋昱軒が私を探しにきたわけだ。じゃなかったらエンターテイメント項目の審判は欠席になってしまうところだ。
ふと、遠くの交差点に見慣れた制服が立っていた。彼らの制服はどれも同じデザインだ……彼らが知り合いだと気づいたのは近づいてからだった。
「雅棠?」
「あ、宋昱軒が先に着いてたんですね!知っていたら付き添いに来ないで家に帰ったのに」
驚いた。雅棠は普段、さまよえる亡霊サービスセンターを守ってるんじゃないの?なんで今日出てきたの?
私は警戒しながら聞いた。「最近何かあったの?」
「え?何も起きてないですよ?」
「比較的大きなことといえば、あなたが自ら内境関係者に接触したことだよね?あなたは多くの冥府の機密を握っているというのに、捕まって尋問を受けるのが怖くないの?」
「あははは……できる限りはそのラインを切るよ」私だって断ち切りたい……でもその難易度は、カップルが平和的に別れる難易度より高いんだ……宋昱軒の非難を受けて私は少し弱気になり、急いで話題を変えた。「雅棠はあとで試合があるよね?先に降りなくていいの?」
「私たちは人間の運動競技のようにウォーミングアップをする必要がないので、もう少しいても大丈夫ですよ」冥府における道案内人の地位は比較的厄介だ。文でも武でもないけれど、文でも武でもあるからだ。それゆえに当時新人の唐詠詩は文官組でエントリーし、晋王朝の雅棠は武官組にエントリーしたのだ。
雅棠が最初に言った言葉が「私が文官組にエントリーするのは後輩いじめになっちゃいますかね?」だった。
今見たところ、文官組であれ武官組であれ、上位八名のリストは唐王朝の処刑人一名を除いて残りはすべて唐王朝以前からだった。晋王朝の雅棠はまだ若いほうだ!
冥府の試合場では、雅棠がカッコよく体を捻って長槍の突きを躱し、側転からのバク宙で距離をとった同僚も攻撃を忘れなかった。ひょっとしたら、今日は戦うために来ているので着飾る必要がないから、普段のタイトスカートより動きやすく……パンチラもしにくいパンツルックにしたのかもしれない。でも足もとは相変わらずあの黒いハイヒールだった。
私には冥官の服の着こなし方はわからないけど……秦廣のがっかりした表情を見る限り、どうやら人間と大差なさそうだ。
「あなたは本当に変態なんだね」
「知ってたんじゃないのか?」秦廣はまったく否定することなく、さも当然という様子で言った。「覗き見するのが俺のこの長年で唯一の楽しみなんだよ!佳芬と一緒に女性の下着の変遷と発展について分析することだってできるぞ!」
「どっか行って!」秦廣がおとなしく言うことを聞くことは絶対にないだろう。私もせいぜいテーブルをこの殿主からできるだけ遠くに引っ張るのが精一杯だった。
「秦廣、佳芬をいじめると彼女の周りの者に仕返しされるから気をつけろよ!」遠く離れていたけど、九殿の平等王が親切にも注意してくれた。「たとえば、ちょうど今試合場にいるあの者とかな」
雅棠の鞭の手元が狂い、試合場に大きな亀裂を走らせた。その鞭の威力は試合場を破壊しただけでなく、さらには結界をも突き破り、傍観していた何人かの冥官を弾き飛ばした。観戦していた冥官は全員マゾなのか、彼らに飛び火する攻撃が激しいほど歓声は大きくなり、今にも冥府を突き破って天界に届きそうな勢いだった。
暁蕾は自分の結界が破られるのを見ても不機嫌になることなく、明るく微笑んで言った。「どうやらまた下に行って修理しないとならないみたいですね……誰か私の代わりに佳芬の縛霊縄を持っててくださいませんか?」
私の隣に座っていた秦廣がすぐさま言った。「俺が手伝ってもいいぞ」
「いや!」誰が魂をスケベ野郎の手に預けるって言うんだ!「宋昱軒に来るよう言って!なんなら白黒無常でもいいから!」
「チッ、少しも顔を立ててくれないのかよ?」
立てるわけがないでしょ!それは私の貞操なんだよ、殿主様!
宋昱軒があっという間に私の背後に現れて、縛霊縄を引き継いだ。
「来てくれてよかった……スケベ野郎の手に縛霊縄を渡したくなかったんだ」
「おいおい、佳芬お前も随分と陰険だなぁ!この機に乗じてチクるなんて!」
閻魔の声が風に乗って聞こえてきた。「彼女は縛霊縄をお前さんに渡したくないと言っただけなんだから、自分で勝手に思い込むなよ」
「お、俺が言ったのは──」秦廣はしばらく言葉を失い、言い逃れのための言葉を探しているかのようだった……
違う、秦廣王だけでなく、ほかの殿主たちの動きまで止まっていた。試合場では、雅棠とその対戦相手の処刑人も一斉に攻撃の手を止め、顔を上げて冥府の灰色の空を眺めた……
灰色の空に裂け目が現れ、太陽のようなまばゆい光が射し込んだ──
雅棠が嫌悪しながら吐き捨てた。「マザーファッカー!」
彼女もある集団に遭遇したときだけはちょっと口が悪くなる。
「内境来襲!」いましがた女性をからかっていた秦廣が下で観戦していた冥官たちに向かって怒鳴った。「文官は全員撤退、武官は迎え撃て!暁蕾!」
「任せてください!」暁蕾が普段の明るい笑顔を消し去って足下を踏みつけると、彼女の周りの地面が幾重にも波しぶきを巻き起こし、水しぶきは空中に浮かんだまま落ちることがなかった。さらには暁蕾の命令に従ってまばゆい裂け目に向かって飛んでいくと、裂け目から打ち込まれてくる光の矢を相殺しながら、裂け目の周りにシールドを形成した。
「昱軒、佳芬は任せたぞ!」十殿の殿主たちが次々と審判台から飛び降りると、残った第十殿の輪轉王が受け取ったすべての情報をまとめて指示を出すことになった。彼は深緑色の令牌を手に命令を下した。「すべての城隍よ、聞け!冥府が襲撃を受けた。早急に管轄エリア内における内境関係者の攻撃の有無を報告せよ!一、二殿の処刑人は即刻人間界へ救助の要請に向かえ。三殿の武官は文官の撤退を擁護、残りの処刑人は受刑亡霊を守り奴らに奪わせるな!一、二殿の武官は代わりに処刑人の位置につけ!」
輪轉が理路整然と指示を出したので、武術大会の人たちはすぐに引き揚げた。私も心配で何度も見たが、宋昱軒の周りに黒い霧が生成され始めていた。「佳芬、すぐに連れて帰る──」
新たな裂け目がまた別の場所で開いた。今回は暁蕾もウォーターシールドの召喚が間に合わず、光の矢が雨のように冥府の領土に降り注いだ。宋昱軒は佩剣を抜いて、私たちの方に向かってくる光の矢を撃ち落とした──
だが、一本撃ち損じてしまった。
光の矢は黒い霧を突き抜けた。私の魂を繋いでいた縛霊縄は、目の前で光の矢によって真っ二つに切断された。
「佳芬──」
「あなたは近いうち死ぬ運命にあります」その瞬間、私は尹さんの警告を思い出した。
私は手を伸ばし、大声で叫ぼうとするも声が出なかった。まるで激しい乱気流によって急速な渦へと巻きこまれたようだった。縛霊縄をつかめなかった宋昱軒も、私の魂を捕まえようとした輪轉も、そのすべてが目の前でぼんやりとした色の塊になっていった……
(私、冥界で心理カウンセラーをやってます 第一部 完)
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