第十七章 詠われる唐詩

 腰に手を当てながら、私は赤い塗料がかけられて芸術品と化した家の扉を眺めた。地面に冥銭が散乱しており、中には塗料が付着したものもあった。冥銭の裏に大きく『死』と書くことも忘れられていなかった。


 今回はあまりにも目立ちすぎたので、近所の人たちでさえ野次馬に来て、コソコソ噂をすることも免れなかった。うちの大家さんまで驚かされた。


「佳芬?」


「あ、麗月リーユェおばさん、私は……」


「大丈夫、もう警察に通報したよ」大家さんは、「きっと人違いでしょうね」と優しく慰めてくれた。


 私も「人違いだよ」と叫びたかったが、これが本当に私を目当てにやって来たのだと感じている。今まで届いた殺害脅迫文には、私の名前と病院の緊急救命室で働いている私の写真が含まれており、あたかも彼らが私の居処を完全に把握していると言っているようだった。


「あの……原状回復をします……」


「お金は私が払うから、佳芬は安心して仕事して、心配しないでね」


 私の大家さんは本当にいい人だ!もうこれ以上彼女に迷惑をかけてはいけないということだ。しかし、誰を怒らせたのか全く思いつかない。でも、このような『科学的』な脅威であれば、一般人が行うことであり、宋昱軒や蒼藍にお願いするのは良くないと思う。いくら仲が良いとはいえ、前者は処刑人の仕事があり、後者は最近期末テストでパニックの状態に陥っているようだ。


 自分でなんとかするしかない!内境関係者や怨霊でなければ、簡単だ!


「麗月おばさん、本当にありがとうございます。では先に出かけます」


 仕事に行くと言って、いつもの生活リズムを維持して相手を困惑させないようにする。そうすると、向こうも早く復讐を実行できるでしょう。早く実行してもらったほうが速やかに解決することができる。


 こうして、二週間ほど出退勤を繰り返した後、その人がようやく現れた。


 私は原状回復した扉を閉め、一人でアパートを出た。夜勤なので、この時はもう深夜近くで、昼間のように道に人も車もいなくなり、道の真ん中を歩いても轢かれることはなかった。


 それで、ワゴン車が私の横で急ブレーキをかけて止まり、大男二人が車から降りてきて私を車内に引きずり込んだ時、どの方向からも目撃者はいないので、通報してくれる人も当然いない。


 連れ去られたとき、私の頭の中にあった唯一の考えはおそらく、『なぜ仕事帰りに私を拉致しないの?そうすると休暇を申請する必要がないよ。くそ、臨時休暇を申請するのは非常に面倒で、数少ない休暇を無駄にしなければならない』ということだった。内心文句を言いつつ、私はとても協力的に車内に引きずり込まれていた。


「助けて──」たとえわざと拉致されたとしても、どんなに愚かでも一回二回くらい叫ぶ振りは必要だ。


 ワゴン車のガラスは特注品で、中から外を見ると暗くて何も見えない。きっと外から見ても、車内が全く見えないと思う。私と運転席との間に板があったので、どこに連れて行かれるのかわからなかった。


 二人の大男に挟まれた私は、何も言わなかった。


 怖くて何も言えないわけじゃないよ!今の私は小柄で弱い女子のイメージを維持する必要があり、ついでにこいつらが病院の救急科に行ったり、入院したりしていないことを祈る。そうしないと、私たち看護師がみんなとても優しくて慈悲深くて菩薩の心を持っていると誤解している人がいると思うが……


 ……そんなわけないだろう!


 ドライバーはバックミラーをちらりと見て、ちょうど私の目を合わせた。「チ、看護婦なんだ。ハオ兄はこのタイプが好きなんて初めて知った」


「こいつは豪兄を告発したやつだよ!豪兄は巨乳のほうが好きだ。こいつはどう見ても貧乳だし、背が低いし、未成年にように見える」


 あなたたちが雑談をするのはいいけど、人身攻撃はやめてもらえないか?


「ふん、こういう正義マンは痛い目に遭わないと、自分が誰を怒らせているのかわかっていないんだよ」右側の男が乱暴に私の顔を掴み、タバコとアルコールの強烈な匂いが鼻をつき、歯もビンロウで赤く染められており、私は胃の中で吐き気がした。


 この人たちに口腔がん検診を受けろと勧めたかった。私から遠くに離れてくれる?タバコの匂いは本当に嫌いなんだよ!


「あなたたち、あなたたちは人違いだよ!私は正義マンじゃない──」


「たとえ人違いだとしても、それはお前がついていないからよ」車内の男たちは一斉に笑い、私の左側の男は私の太ももを叩いてから笑いながら言った。「俺たちはお前を放して正しい人を捕まえてくると甘く思っていないだろうね?俺たちの顔を見たお前を放すなんて?」


 うーん……もし後顧の憂いが何もなければ、私も同じく口封じで殺すと思う。


 私は教科書に出てくる典型的な思いやりのある優しい看護師ではない。そうでなければ、冥府の心理カウンセラーのアルバイトをしないでしょう。


 ワゴン車は三十分ほど走ってようやく停まった。私を押さえた男はきっと彼女がいないはず、なぜなら彼はとても乱暴に私を車から押し落とし、私を転ばせるところだった。場所はとある倉庫のはず。周りにたくさんの段ボールやガラクタが山積みになっており、エネルギー資源が無駄に使われ照明がとても明るく照らしている。


「豪兄、こいつは豪兄が探している簡佳芬だ」


「うん」豪兄と呼ばれる屈強な男は、両手と両足に龍と鳳凰の入れ墨を入れており、その中で最も目立っているのは、龍を真っ二つに切った腕全体にわたる長い傷跡だった。


「殺せ」


 え?えっ?こんなに簡潔で分かりやすいのか?悪者がくだらないことをいっぱい言うのではないか?


 私が抵抗する間も無く、私を連れてきたチンピラはすでにナイフを持ってやってきた。


「私を殺したら、絶対に後悔するよ!」私が冷静すぎたせいか、しかも口調には少し楽しさが漂い、私を取り囲むチンピラたちの動きは少し迷いそうだった。私は口を動かすことができる間、雄弁を続けた。


「教えるよ。あなたは間違いなく私に生きてほしいと思う。私は普段、地獄の方と仲良しなんだよ。もし白黒無常がここに来て魂を連れて行くとき、その魂が私であることがわかったら……まあ、彼らはあなたたちに何もすることはできないが、でもこのことが別の有能な人の耳に入ると、彼があなたたちをどうのように扱うかわからないよ」


 自分でもバカバカしいことを言っているように感じているが、真実な話をしていて、偽言は一つもない。


「驚きすぎて馬鹿な事を言い始めたのか?」


「馬鹿な事を言ってないよ!」私はゆっくりと壁の方向に後ずさりした。「少なくとも、私があなたたちを怒らせた理由を教えて!それが本当に私のせいで自業自得なら、閻魔大王があなたたちの処刑を決めるときにそれほどきつい処罰にしないようにお願いしてもいいよ!」


 逃げ方を探しながら、視界の隅に見覚えのあるナンバープレートが見えた。そのナンバープレートを見て全てを理解したが、それ以上に安心できたのは車の横に佇む影だった。


 口角を上げ、私は恐れる事なく豪兄の冷たい視線にまっすぐ目を合わせた。「あらまあ、轢き逃げさんなんだ!林泓安ちゃんがとても惨めで、そこでしばらく縛られていたよ。私が彼に地獄への扉を指示してあげなかったら、彼は未だに交差点で留まっていたかもしれないね」


「そうならお前をもっと殺すべきだ」


 彼は軽くコメントした。私は相変わらずに話を続けた。「友よ、あなたは私に感謝すべきだよ!私は泓安ちゃんを地獄まで送ったよ。そうでないと、彼が怨霊になってあなたに取り憑くと、それは大変だぞ……」


 頭上の照明が突然暗くなり、外には街灯の残光だけが残っている……


「今みたいに」


 ──それと広々とした倉庫に突然鳴り響く奇妙な歌声だ。


 垂髻束髮至弱冠、相逢有緣終無份(弱冠まで結髪し髷を結び、ご縁が繋がっても結ばれず)


 曾諾鴛鴦比翼飛、僅留孤鳥無聲泣(鴛鴦のように共に飛び立つと誓い、孤鳥だけが静かに泣いた)


 蔽顏紅冠遮赤瞳、迫嫁惡徒為門戶(赤い冠で顔を覆い、赤い瞳を隠し、家族のため強要され悪者に嫁いだ)


 苦勞飢寒作飯吃、嫁入豪門又何如(苦労飢餓を糧にし、玉の輿に乗れてもどうする)


 二女知難早明理、雙雙卻成棍下魂(二人の女は最初からこんなことが困難だと知り、道理をわきまえているのに、それでも棒で叩き殺された)


 披肩麻布扎入骨、又留孤鳥獨哀啼(肩までかぶった麻布は骨に突き刺さり、孤鳥を残して泣き続けた)


 展翅飛離速遭擒、火燒牢籠共成灰(羽を広げようとするとすぐに捕らえられ、火をつけられ檻まで灰になった)


 閨秀一生值幾錢、賤命聘禮百兩金(女の一生の価値はいくら?鄙賤の命が結納には金百両)


 歌声が非常に悲しく、まさにホラー映画のサウンドトラックのようだった。混沌とした陰気が周りの空気をかき混ぜ、冷たい風が吹き、突然大きな段ボールが床に吹き飛ばされ、その音で目の前にいた数人の大男が恐怖のあまりに飛び上がった。陰気の乱流の影響で、頭上の照明もヘッドライトも狂ったように点滅しており、最後ヘッドライトが先に耐えられなくなり、火花が噴き出した。


「ど──どういう事だ!」


「あぁぁぁ、幽霊だぁぁぁ──」暗闇の叫び声に、私を殺そうとした大男はもう落ち着かず、次々と倉庫から逃げ出した。豪兄は自分に落ち着かせようとして怒鳴っていた。「お前ら戻ってこい!この世の中に幽霊なんていない──」


「旦那様……」空洞の声がサラウンドのようにどこから来たのかわからない。豪兄は凍りついた。なぜなら、微かな緑色が光っている手が下からゆっくりと彼の首を掴み、そっと頬まで撫で上げるのがはっきりと見えたからだ。


 彼は固まり、目はまっすぐ前を見ており、少しも動こうはしなかった。


「旦那様よ、どうして旦那様はわたくしにそんなに無情なの……」焦げた顔が豪兄の目に押し付けられそうになり、空気中にはバーベキューのような炭や肉の匂いで満たされていた。豪兄は怖くて目を閉じたくてもできない、なぜならば彼のまぶたは女幽鬼に開かされているからだ。


「──わたくしも旦那様が娶った十年以上の妻だよ!」


「ああああああああああ──!!!」屈強な豪兄は小さな女の子のような尖った声を出し、その後口から泡を吹いて倒れてしまった。


 陰気は徐々に発散され、照明も元の明るさに戻った。倒れて気絶した豪兄を見て、私は笑顔を隠せず、女幽鬼に親指を立てた。「詠詩、よくやったよ!悪霊になる才能があるとは思わなかったよ!」


 骨まで見えた火傷が彼女の顔から消え、しばらくすると道案内人の制服を着た唐詠詩に戻り、彼女は私に丁寧に頷いた。


「簡さん、身に余るお言葉恐縮です」


「彼らを怖がらせるだけで、生前の物語を歌う必要はなくない?」冥官の生前の物語はとてもプライベートなものであり、その重要性は彼らの実名と変わらない。しかし、このように生前の話を述べるなんて……


 詠詩は唐王朝の時に亡くなったので、当時唐詩が流行っていたのは普通だった。私のような理科生は詩の韻律にはあまり敏感ではないが、歌声に含まれた溢れるほどの切なさは本当に耐えられず、曲が終わっても心の閉塞感は消えなかった。それと……


「……唐詩は歌えるのか?」


「ただ詩を吟ずるだけでは怖い感じはありませんが、適当に節をつけて歌うともっと恐怖感があります。しかも、何気なく歌った音律は不調和なので効果はさらに良くなります」唐詠詩は真剣に答えてくれた。


 まあ……詠詩も私を救うために策を弄したので、唐王朝の人である彼女さえ気にしなければ、私が唐詩を歌えるかどうかを気にする必要はないだろう。


「私は武官ではなく、ただの道案内人です。陰気は武官ほど強くないので、この技を使って強制的に力を高めるしかありませんね」女冥官は優しく言い、その後に言い足した。「でも、私はこの前簡さんが提案した武術大会の文官組に申し込みました。試してみたいのです」


 武術大会は、互いに恨みを持っている冥官たちや、武術交流で仲間を作りたい冥官たちを集めて戦う試合である。殿主にこの試合の開催を提案した時、全ての殿主がそれにとても興味を持ち、冥府総出で参加する規模まで盛り上げた。


『文官組』と『武官組』の分け方については、私が提案したのだ。そうしないと、武官は弱い文官を床に押し倒して殴るだろう。大会の後に、トラウマを持つクライエントのカウンセリングを受けたくないんだ。


「いいじゃない?一緒に遊んでもいいと思うよ」倒れて気絶した奴は三分前に私を殺そうとしたが、いずれにせよ、私は救急看護師なので、気絶した人を見ると肺蘇生法CAB+Dを行わないと、自分の専門に申し訳ないと思う。


 これは完全に職業病だ。


「大丈夫ですか?大丈夫ですか?」起きない。(本当は今起きてほしくないけど)彼の頸動脈を触れると……心拍はあり、呼吸も安定している。では彼の携帯を使って救急車を呼ぼう。


「簡さんは招待状を貰っていますか?」


「私は審判員だよ」私は手を叩いて豪兄の側から立ち上がり、ためらうことなく答えた。どうせ公式発表がなくても、私が審判員として招待されることは冥府全体が知っているので、隠す必要がない。


「どうして私がここにいることがわかったの?」危機が去った後はおしゃべりの時間である。


「昱軒さんは、雅棠先輩に簡さんの世話を頼みましたが、今日雅棠先輩が忙しいので、私に簡さんを見守る仕事を頼みました」


「……何度も言ったけど、ついて来なくてもいいって!」


「これは閻魔大王に言ってください」


 彼に言っても無駄だよ!何回断ったかもう数え切れないが、いつも宋昱軒が私の側についているのが見える。違いは回数だけだ。


「私の負け、私の負けだ」諦めて手を挙げ、詠詩の再診予約日が近づいているとふと思い出した。私はついでに、「最近人間界でどう?」と聞いてみた。


「雅棠先輩と新しい同僚がよくしてくれています。修行について、まだ道案内人の資格を満たしていませんが、一生懸命頑張ります!」


 詠詩がうまく適応してくれているのを見て、私もとても安心したが、そもそも詠詩が転勤になった理由を忘れていない。


「旦那の浮気はどうなったの?今は旦那についてどう思っている?」


「まだ慣れようとしているところです……仕えるべき男がいない日々に慣れようとしています」詠詩は『どうぞ』というポースをして、この場所が長く留まるべきではないことを示した。九死に一生を得た後、冥官と胸の内を明かし合いながら帰り道を歩くことは構わない。


 薄暗い街灯に照らされた道に私の影だけがあった。唐詠詩は幽鬼なので影はないが、灯りの下で彼女から滲み出る自信と決意が見える。最初に見た無力感とは異なり、前回再診した時ほどためらっていないとわかった。


「あの曲を聞いたから、簡さんは多分私の過去をよくわかったはずです」詠詩は少し立ち止まってから話を続けた。「私が生前愛した人は夫の家族に殺された。私が死んだ後、もう一度誰かを愛する機会を訪ねられたとき、私は死ぬほど愛すること、ためらうことなく愛すること、無私かつ献身的に愛することを選んだのです。そして、その方が私の運命の人であり、どんなことでも私たちを別れさせるのはできないと信じていました。これは私の選択です。後戻りはできないし、後戻りもしません」


「しかし、生前の人生経験から、恋愛感情は変質してしまうということは教えられませんでした。恋愛感情について、心ならずも折り合いをつけることは避けられないといつも思っていました……簡さんが私に冥府の家を出て行くようにしてくれたときから、私は男なしでも気持ち良く暮らせることに気づきました。仕える相手がいないことはちょっと慣れないですが、気持ちが大分楽になりました」


 ここまで聞いて私は心から笑っていた。


 これは成功したカウンセリングである。クライエントが自分の心に住み着く魔物から解放されるのを見ることが、冥府の心理カウンセラーである私の達成感の源なのだ。


「それで、いつ離婚するの?」


「もうすぐですね?でも、まずはお金を取り戻さないといけないですよ。さまよえる亡霊サービスセンターの何人かがすでにチームを組んで仇を討ってくれる予定を立てました」


 陶瓷器のような顔で私を見つめた唐詠詩、今の彼女は今まで私が見た以上に美しくなっていた。


「簡さん、本当にありがとう──」


 世界はスローモーションボタンが押されたように、唐詠詩は後ろに倒れた。そして、彼女の胸から突き出した、黄色の光を放っている矢も連れていた。


 美しい道案内人の目は大きく見開かれ、悲鳴も呻き声も上げず、きれいにとぐろを巻いた髪が取れて広がっていた……


「詠詩、詠詩!」私は彼女が形のない冥官であることを完全に忘れて、仰け反った唐詠詩の体を掴もうとしたが、彼女の手は煙のように私の手を通り抜け、その体が床と接触する前に、彼女の体が放っている光輪と似ていた緑色の輝点に変わり、空中に消えてしまった。


 緑色の輝点があんなに多いのに、私はその一つですら掴めなかった。


「やめて!」私は最初に思いついたのは、ほぼ全能の蒼藍を呼ぶことで、次に宋昱軒……


 私は携帯電話で蒼藍に電話をかけてから、スピーカーを押して横に置いた。間も無くいつも持ち歩いている折り鶴とライターを取り出したが──一本の小さな矢がライターを撃ち抜いた。もう一本の矢は折り鶴に刺さっていた。その矢には釣り糸が繋がっているから、折り鶴はそのまま誰かに私の手から引き離された。


 それは普通の矢ではなく、テレビ番組で時々見る水中銃だったことがわかった。


 携帯を取ろうと振り返ったが、携帯にも短い矢が刺さっており、鉄くずになってしまった。

「実に面白いね……怨霊と一緒にいる人間」突然後ろから若い声が聞こえ、私はびっくりして顔を向けると、数歩後ずさり、よろめいて転倒した。


 やってきたのは三十歳くらいの青年で、背が高く、顔がハーフのように彫りが深く、内境関係者を代表する紺色のロングコートをさりげなく肩にかけている。彼は手のひらを開くと、水中銃の引力で折り鶴が手の中に止まった。


 謎の男は折り鶴を弄び、中身を研究していたが、すぐにそれが普通の折り鶴ではなく、冥銭でできていることに気付いた。


「折り鶴を返して!」


「これは怨霊を呼び出す法術で、怨霊しか作れない。だが、ここにかかる力の波紋は先程消滅したものとは全く異なるもので……」


「詠詩は冥官だ!怨霊じゃない!」私は怒鳴っていた。「あなたは詠詩を殺した!」


「お嬢様、冷静になってください。今の奴は幽鬼だぞ、もうすでに死んでいるよ。僕が殺したわけがないでしょう?」そう言いながら、謎の男はなんと折り鶴を冥銭に戻ろうとした──


「ダメ!」そこに書いてあるのは宋昱軒の本名だ!私すら見たことはなかった。宋昱軒と長い知り合いだが彼から本名を聞いたことがない。アドレナリンの作用にかけて私は人生最速のスピードで名前を見られる前に折り鶴を奪い取ろうとした──


 ──しかし、内境関係者は魔法スキルがあることを忘れていた。


 私は透明な壁にぶつかり、あまりにも強くぶつかったので口の中に錆びた鉄の味がした。この見えない壁を迂回しようとしたが、すぐに自分が閉じ込められていることに気付いた。


 私は見えない壁を叩き、「ダメ!それはあなたが見るものじゃない!」と絶望して叫んでいた。


 私は謎の男が冥銭を平らにしているのを見て、彼がそこに書いた名前を見ると、興味深そうに片方の眉を上げ、驚いてこう言った。「まさかこの名前とは思わなかったよ!残念だね。この名前はどんな魔法でも効かないほど有名なので──」


 有名?


「ねね、閻魔大王ってさ、あなたの名前はウィキペディアにも載っていますよ。テレビドラマでも小説でもあなたの名前がありますから、内境関係者に名前を呼ばれることにどうやって抵抗しますか?」かつて、私は閻魔大王にこの質問をした。閻魔大王を呼び出したい気まぐれな内境関係者がいないと信じない。


「これは実力の深さの問題だ。魂呼び法術に抵抗できなかった歴史的人物の冥官はすでに歴史になったよ。何度も呼ばれれば、抵抗する方法がわかるよ」


 では、宋昱軒は……


 突然、謎の男が持っている冥銭が何もないところから見慣れた白い炎が燃え上がった。謎の男は驚いて手を離した、白い炎から少しでも遠ざかれば遠ざかるほど良いような感じで──


「純粋な炎?」彼は嫌そうに言った。「どうしてここに現れるんだ!」


「お前は運が悪いとしか言いようがないよね?ああ……俺が折り鶴を燃やしたとばれたらきっと嫌われるでしょう──」


「蒼──」


「お姉さん、名前には力があるから、気軽に呼ばないでね!」私と謎の男の間に空中にパッと現れた広い背中が立ち塞がった。彼が指を鳴らすと私を閉じ込めている透明な壁はパリパリとガラスが割れる音がしたがすぐに周りの『感覚』が変わったことに気付いた。空はモザイクになったように黒と青と灰色の塊が混ざっており、呼吸さえ徐々に難しくなり、吸い込まれるのは空気ではなく水のようだ……


「空間隔離で遊んでるの?」蒼藍は軽蔑そうに言った。彼の周りに白い炎が燃え上がり、足下の部分が私のそばに蔓延して円を描くように広がり、その円が一周して繋がったとき、私の呼吸もだいぶ楽になった。私はすぐに大声で「気をつけて!彼が唐詠詩を殺した」と蒼藍に警告した。


「唐?冥官なの?」蒼藍は目を細め、危険な雰囲気が漂った。「今冥官を消滅することが流行りなの?」


「これほどの実力を持つ道士が、冥府の権力者たちと仲良い事のほうが驚きだね。ましてや純粋な炎の所有者……、どうやって家のご先祖様に顔向けできるだろう?」


「申し訳ないけど、俺の苗字は魏で、黎家とは何の関係もない」今まで無事の時に普通に雑談してくれて、有事の時に助けてくれて、あらゆる手段を使い星の海音楽少女を勧めてくれるデブオタク高校生がそんなに冷たい口調で喋ることは聞いたことがなかった。


 蒼藍がとても強いのは知っているが、その強さの裏には──


 彼は顔を横に向けて私をちらりと見た。彼の目尻は相変わらず不真面目な蒼藍のままだが、優しさを微かに含まれているよう……これは間違いなく私の錯覚だろう。


「お姉さん、ここからはあなたが関わるべきではない世界だ。よく寝てね、休暇の取得は任せて」


「待って!やめて──」


「──私を寝かせないで!」


 掛け布団が胸から滑り落ち、自分のベッドに入っていることに気付いた。


 詠詩、詠詩が消えた……だからさっきの全てはただの夢だったのか?財布を開けると、宋昱軒の折り鶴がまだそこにあったが、昱軒は自分でそれを補充できる。携帯電話も無傷だったが、蒼藍が手を振るだけで全損した携帯電話を修復できると知っている。


 私は急いで外出着に着替えてから、鍵を持って外へ飛び出し、バスに乗って道案内サービスセンターへ向かった。


 ドアを押し開けると、サービスセンターの道案内人たちは私を見た瞬間に呆然とした。


「佳芬?あなた──」


「詠詩はどこだ?」雅棠の話が終わる前に、私は雅棠の手を掴んだ。この時雅棠は顔を背け、私と視線を合わせることができなかった。今彼女が慌てて隠した席はまさに詠詩の机であり、この時点では何もなくて非常に綺麗だった。


 雅棠の声はとても小さかった。「佳芬、詠詩がすでに消散してしまいました──」


「違う!そんなわけがない!あなたたちは冥官だ。怨霊じゃない。なぜ消散するの?なぜ消滅されるの?詠詩は──」私の喉が詰まり、次に声を発した時もう泣き声になった。


「詠詩はやっと自分の人生をちゃんと過ごそうとしているところだよ……」


「くそ、宋昱軒のやつはどうしてちゃんと見守っていなかったんだよ──そんなに状況が悪いのか──」ドアが突然開き、重い足音が急いで私の側に駆け寄り、私の腕を掴んで彼に向かうように強制した。


「佳芬姐さん、落ち着け!ここはさまよえる亡霊のサービスセンターだよ!あなたがパニックになっている様子を見ると、ここに来たさまよえる亡霊たちは凶悪化になりやすいのよ!」


「蒼藍、詠詩は──」


「わかっている。あれは死者にとって最悪の法術だ。俺がそこにいたとしても、彼女の消散を止めることができない」蒼藍がそう言うと、元々静かだったサービスセンターがさらに静まり返り、恐怖感が空気中を漂った。


「詠詩は私を救うために生前の物語を歌い、それで内境関係者の人を引き寄せて標的になってしまった……」


「佳芬姐さん、詠詩が消えたのはあなたのせいじゃない──佳芬姐さん!」私が失神状態になったのを見て、蒼藍は私の体を激しく揺さぶって、私に彼の目を見つめさせた。「佳芬姐さんは救急看護師じゃない?生と死のことがいっぱい見てきたんじゃない?このような心理素質はどうやって緊急救命室で働くのか?」


「それとは違う!」蒼藍の大きな手から逃れるのにもがいた……もう、どうして最近みんな力が強いのよ!


「生きている人は死ぬが、あなたたちも消えるとは知らなかった!」


 私は全く心の準備ができていなかった……冥官がいつも私の側にいてくれて、二度と会えないことを心配する必要のない唯一の友達であると思っていた。


 しかし今、詠詩が消えた。私の手元には彼女のカルテしか残っていない。


「佳芬姐さん、内境と冥府との軋轢はあなたが生まれるずっと前から始まっていた。だからそれはあなたのせいじゃないよ」蒼藍は私より八歳年下だが、身長は私より三十センチも高いので、彼の目に会うために顔を上げないといけない。こんな近距離で、彼がカラコンをつけていることにやっと気づいた。


「でも、今世でこの問題をきちんと解決する、だから佳芬姐さん、あなたは冥府の重要な人なので、自分をしっかり守らなければならない。箒を持って詠詩のために復讐しに行くなど思わないでください、わかった?」


 蒼藍は子供に念押しするように私に念押しして、その穏やかな声は心のパニックを洗い流してくれた。


 自分から内境関係者を挑発するほど愚かではないよ!でも、心の片隅には詠詩のために復讐したいという気持ちがあることは認めるが……


「魏蒼藍殿は正しいです」晉雅棠の白い手が近づき、私の手の甲を軽く押した。冷たい感触が皮膚の反対側から滲んでおり、彼らが生きている人間ではない事実を思い出させてくれた。「佳芬は我々冥府の重要な人です。ぜひ自分をしっかりと守ってください。あなたは私たち冥官にとって唯一の心理カウンセラーであります。武力行使に関しては他の方に任せばいいと思います」


 蒼藍は突然私の背中を強く叩き、あまりにも強くて私が吐き出しそうだった。「もういいよ、佳芬姐さん、早くさまよえる亡霊サービスセンターを出ようよ!これ以上滞在すると、ついでに凶悪化になった怨霊を浄化することを手伝わないといけないよ……俺は怠け者なので何もしたくないよ!ここから三ブロック離れたところにパンケーキ屋があって、口コミがいいから立ち寄ってみないか?」


「それで、私がお金を払うのか?」私はパンケーキを食べようと提案したデブオタクを無言で見た。このデブオタクがどんなに多才だとしても、彼はまだ高校生であり、社会人でお金を稼ぐのは私なので、最終的にお金を払うのも私だ。


「もちろん!佳芬姐さんは賢いね!早速デザートを食べに行こう──」


「私たちの前で『食べる』ことを言うのは本当に失礼ですね!」


「忘れずに燃やしておくよ!」


「そして、また私がお金を払うの?そこは安くないよ!私がたくさん稼いでいると思ってるの?」


 私のパンチと道案内人の叫び声で、蒼藍は頭を抱えてさまよえる亡霊サービスセンターから逃げ出した。


 彼らは雰囲気をもう少し明るくしたく、私に唐詠詩のことをしばらく忘れてほしいと思っていることを知っている。しかし……


 私は宋昱軒に、冥府の相談小屋に保管されたカルテを持ってくるように頼んだ。数枚の薄いに唐詠詩の悩みと気持ちが走り書かれていた。私はもう一枚の白紙を取り出し、詠詩が消散する前に私に言った話をできるだけ詳しく書き留めた──その詠われた唐詩も。



唐詠詩

診断:旦那が浮気している、夫婦関係を修復したく旦那の気持ちを取り戻したい。

治療評価:クズ男から無事に離れた。恋愛感情は全てではないと理解した。

備考:カウンセリング成功したが、クライエントは消散した。カウンセリングが終結した。



 全てを記録した後、私はこれらの薄い紙を綴じて『カウンセリング終結』というラベルの付いたフォルダーにファイリングした。

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