第四夜:狼の遠吠え(4)私は単なる闇市の商人さ
前回のミラーズフィナンシャルタワーでのチャリティディナーの一件で、多くの神民が殺害されて、あるいは重傷を負った。
そのとき、井千陽と南宮樹は市長護送の任務を命じられていたため、最も戦況が苛烈な時にその場にいることができなかった。
まるで敵前逃亡したような罪悪感を覚えた二人は、今まで以上に積極的に任務を遂行し、殉職した仲間のためにも共に努力する決意をした。
夜を迎えると、二人は今晩の人狼退治地点である――地下鉄の『黒水駅』に到着した。
黒水駅は俗に言う幽霊駅、つまり、使われていない駅である。
現在、駅は封鎖されているが、打ち付け板の一部が悪戯で壊されていた。
二人が駅構内に到着すると、至る所が埃まみれで、あちこちにゴミが散乱していた。壁は落書きだらけで、雰囲気は薄暗くて不気味だった。
「わっ!」
南宮樹が駅内部のトイレに入ると、中から突然コウモリが飛んできたので、驚いて大声を上げながらあちこちに逃げ回った。
「たかがコウモリに大騒ぎするな」井千陽は淡々とした口調で諫めた。
「咬まれたらマズいだろ。変な病気に感染するかもしれないし」南宮樹は怖がりながら言った。「それと、吸血鬼のルーツはコウモリに関係しているらしいぜ。吸血鬼になんざなりたくねえよ」
二人は引き続き駅の中をあちこち捜索したが、特におかしいところはなかった。ただ、地下の奥深くから騒がしい声が聞こえてきた。
それから、二人は既に動かなくなったエスカレーターを降りて、駅のホームに来た。
ホームでは、若者の集団がどんちゃん騒ぎをしていた。
若者たちはキャンプ用のランプを持ってきて、酒やタバコに耽けて、中には線路に向かって小便する者もいて、見るに堪えない光景だった。
井千陽と南宮樹、この奇妙な衣装の二人を見て、若者達はどうやら新たな馬鹿にするネタを見つけたようだ。
緑色のモヒカンヘアーの男が二人に向かって、酔っぱらったとろんとした目で絡んできた。「てめえら何してるんだ?COSPLAYでもしてんのか?」
「何よそのお面?カッコつけてんの?」体中から大麻の匂いが漂うもう一人の女が訊いてきた。
若者たちは次々行ったり来たりして、井千陽と南宮樹を囲い込んで、因縁をつけようとする様子だった。
神民が鳥のクチバシがついたマスクをつけるのはもちろんカッコつけるためではなく、理由は他にあった。
古くからの言い伝えでは、人狼の起源は中世に西の大陸で発生した疫病と関連している。当時の医者は患者を治療する際に、巨大な鳥のクチバシがついたマスクを着けていたと言われている。
現代、人狼と戦う神民は、疫病と戦った医師の衣装をある程度受け継ぎ、作戦中は同じようなマスクを装着している。
だが、歴史に関する知識を話しても、この脳みそが空っぽな青少年たちは多分興味を示さないだろう。
「待てよ……そのマスク、どっかで見たような気がするぜ」タバコを手に取った、歯が黄ばんでいる男が言った。「こいつらは、いわゆる神民だよな?」
「ワオ!あたしも神民のことたくさん聞いたけど、実際に見たのは初めてー!」眉ピアスをした女がそう言ってキャハハと笑いながら、南宮樹のマスクの前で手を振って、「ハローハロー、こんなマスク着けちゃってさ、前が見えるわけ?」と言った。
「おい、てめえに話かけてんだよ。無視すんじゃねえよ!」
モヒカンヘアーの男が突然井千陽の胸に強い衝撃で押し出すと、井千陽は後ろによろめいた。
「あの……話し合いで解決しようか。暴力を振らないでください」南宮樹が弱弱しい声で言った。
「暴力を振るんだ。なに命令してんだ?」モヒカンヘアーの男がバカにした表情で言った。
「失せろ」井千陽は小さい声で言い返した。
「ああん?ビビってんのか?」モヒカンヘアーの男は挑発をやめず「お面外しててめえのツラ見せろコラ?」
「失せろと言ったんだよ」
「千陽!」
南宮樹は焦って大声を上げた。井千陽が心配なのではない、むしろ井千陽を怒らせたこの連中のことを心配していた。
モヒカンヘアーの男が井千陽のマスクに手を伸ばして、一気に外そうとしたとき、突如銃声が鳴り、広々としたホーム全体に響き渡った。
発砲したのは井千陽だった。天井に発砲すると、若者たちの酔いが醒めてしまった。
すると、空気中にアンモニアのような悪臭が立ち込め、チョロチョロと液体が流れる音が聞こえた。モヒカンヘアーの男はなんと、尿を漏らしていた。
誰が号令をかけたのかわからなかったが、連中は酒瓶とタバコを放置して、一目散に逃げていった。
「今夜、ここに人狼が出没する。あいつらは喰われずに済むから、運がいいだよね」南宮樹が頷いた。「僕らは駅構内のあらゆる場所を調べた。残るのは……」
二人は同時に視線を線路へ向けた。
この駅のホームにはホームドアがないから、彼らは簡単に線路内に侵入することができる。しかも、ここは廃駅だから、線路内は安全というわけだ。
クチバシが付いたマスクのレンズには暗視機能があるため、真っ暗なトンネルの中でも周囲の様子がはっきり見えて、道が見えなくなる心配はない。
二人は一歩ずつ慎重に前進しながら、トンネルの中間に差し掛かると、前方の暗がりに隠れた人影がゆっくりとこちらに近づいていることに気が付いた。
人影が更に近づいてくると、そこに作業用ヘルメットをかぶって安全ベストを着用した全身血まみれの中年男性が見えた。右腕が損失しているところを見ると、まるで野獣に噛まれたようだった。
これは間違いなくトンネルで作業していた建設作業員だ。彼はよろめきながら歩いて井千陽と南宮樹の前にたどり着くと、「人狼が……」と呟いた後、体を支えきれず倒れた。
南宮樹は魔女の薬を使って急いでこの作業員を治療し、井千陽もすぐさま教会へ負傷者の状況を報告して、救援を要請した。
負傷者を安全な場所へ運んだ後、井千陽と南宮樹は線路に沿って前進し、建設中の駅のホームへたどり着いた。
ここで、二人は咬まれて原形をとどめていない死体を発見した。周囲に散乱した服から、この犠牲者も建設作業員であることがわかった。
「メインディッシュの後に、デザートがあるとはな」
四方の影から、三匹の野獣が徐々に輪郭を現した。
野獣たちの口角には鮮血と肉のかすがこびりついていて、その腹はまるで大きなボールと化していて、明らかに食べ終わったばかりだった。
「この二人は神民だな?どうやら成人ではないらしいから、肉は絶対に新鮮で甘いだぜ」一匹の金色の人狼が口からよだれを垂らしながら、「でも、こいつら痩せてるから、肉があまりなさそ——」
金色の人狼が話し終える前に、井千陽はいきなりその頭に向かって銀の弾丸を発射して射殺した。
残り二匹の人狼が怒りに任せて咆哮すると、目を血走らせながら二人へ襲ってきた。井千陽が再び銃を構えて、黒い人狼に発砲して負傷させた。南宮樹も血の刃で残りの一匹を刺し殺した。
負傷した黒い人狼は二人の仲間を失ったので、尻尾巻いて急いでトンネル内に逃げたが、井千陽と南宮樹はすぐさまその後を追った。
ここは建設中の駅であることもあって、至るところに行き先不明の分かれ道ばかりだった。二人は逃げている黒い人狼を追って、通路の奥へと進んでいった。
最初は通った道を覚えていたが、だんだん方向が分からなくなっていった。奥まで進むと、そこはもはや人間が掘ったトンネルではなく、天然岩の地下洞窟の中だった。
岩の間の通路は曲がりくねっていて、葉脈のように複雑だった。狭い通路は体を横にして進まなければいけなかったので、気を抜くと岩の間に永遠に挟まれそうだった。
二人は深く後悔した。準備不足の状況もあって、無謀にも不慣れな場所は探索すべきではなかったと思った。
人狼は人間よりも遥かに嗅覚に優れているので、複雑な通路をたやすく識別でき、どんなに遠くに行っても元の道を見つけることができるが、人間にはそれができない。
通路を更に奥へ進んでいくと、突然騒がしい音と声が聞こえてきた。
耳を傾けながら聴くと、それはまるで多数の人間が同時に話していて、市場のように賑やかだった。
二人は疑問を抱きながら、恐る恐る声が聞こえる先に進んだ。
しばらく進んで、岩の通路の出口を抜けると、彼らは自分達がとても広い洞窟の中にいることがわかった。
次の瞬間、二人は目の前の光景に驚嘆した。
目の前にあるのは巨大な市場だった。シンプルなテントと移動式屋台が多く並び、肉や生活雑貨が販売されていた。客が頻繁に行き来していてとても賑やかだった。
よく見ると、売っている肉は人体の各部位からのものであり、かなりグロテスクだった。
「おい、このひき肉、匂いが違うぞ。豚肉を混ぜてるじゃないか!」
「だからこんなに安いんだよ!買わないなら他のお客さんに譲ってくれ!」
人がひっきりなしに行き来している市場の中は、店主が大声で呼びかけ、客は値段を交渉し、とても賑やかだった。
ミラーズシティでは市内のどこかに人肉を専門的に販売している闇市があると広く噂になっているが、実際の場所については諸説がある。
噂によると、闇市は毎月開催場所を変える。そしてその場所は、神民に取り締まられないよう、人狼たちが口コミで広めるだけである。このとき、井千陽と南宮樹に偶然発見されるとは思いもよらなかったであろう。
この市場の客は皆間違いなく人狼だった。井千陽と南宮樹はこれだけ人狼が集まっている光景を初めて目にした。
ここに人狼が少なくとも数百匹はいるから、二人が軽挙な行動をしなかった。さもなくば、最後は商品の一部にされてしまうだろう。
井千陽と南宮樹がこっそり去ろうとしたとき、二人が通ってきた道がいつの間にか塞がっていて、周りを見渡すと四方八方が人狼だらけで、二人は周りを囲まれてしまった。
「人間が勝手にそっちからやってくるとは、奇妙なこともあるもんだな」傷跡が右目と交差している男が言った。「しかも、ただの人間ではなく、神民とはな」
「ここにいる奴で山分けだ。こいつら解体したら分けて喰おうぜ」凶悪な顔つきの男が貪欲な視線を二人にぶつけた。「俺はふくらはぎを……いや、やっぱり太ももをもらうのだ」
「いや、みんな順番で値段を言って、一番高い奴がもらえるってのはどう」一人の女が提案した。
人狼たちの言い争いが絶えず、闇市に不用意に侵入した二人の神民の取扱いに対する意見はバラバラだった。
井千陽と南宮樹は背合わせになり、気づかれないうちに武器を用意し、もしかしたらこれが最後の戦いであり、ここで命を落とすことも覚悟した。
次の瞬間、これまで賑やかだった市場が一瞬でしんと静まりかえった。
すると、井千陽と南宮樹を囲んでいた人狼たちが次々と道を作って、ある集団を通らせた。
その首領は長身で真っ黒なフード付きのローブを身に付け、ローブの長さはくるぶしまで届き、フードは顔全体を覆い隠しているため、どうやって前方を見るんだと思わずにはいられなかった。
その者の後ろには同じ服装だが濃い灰色のローブの六人がいて、パッと見るとまるで何かのカルト集団のようだった。
「ここは闇市、取引を行う場所だ。勝手に屠殺して良い場所ではない」黒いフードの下から感情がなく、年齢と性別も判別できない声が聞こえてきた。「ここでは、掟が全てだ」
「この神民二人は勝手に闇市にやってきたんだ。それは勝手にやってきた食材と同じだから、俺達が喰っても問題ない、違うか?」凶悪な顔つきの男がそう訊いた。
「二か月ほど前、ある買主が五十万で神民を買うという意思を表明し、そして既に前金が払い済みだ」黒いローブの者がそう答えた後、「お前がもっと良い条件を提示できるなら、金額を言ってもいいぞ」
これを聞いた途端、その男は悔しそうな表情を見せ、他の人狼も同様だった。
「金額を提示する者がいないようだから、約束と掟に従って、この神民二人をその買主に売ることにする」黒いローブの者が宣言した。
「おい、俺がマジで腹減ってんだよ。今から喰うから、ガタガタ言ってんじゃねえよ!」
一匹の人狼が自分の欲望を抑えきれず、牙と爪をむき出しにして井千陽に襲い掛かったが、彼に触れる前、灰色のローブを着た二人に制圧され、銀の鎖で縛りつけられた。
「闇市の掟を破る者は、何人たりとも容赦はしない」黒いローブの者が冷酷に言い放った。「先ほどある市民が人狼を購入したいと言っているから、お前を売りさばこう」
他の人狼は連中の冷酷ぶりを見て、軽率な行動はとらなかった。
暴れ出したあの人狼を処分した後、黒いローブの者は井千陽と南宮樹に振り向いて「その買主は生きている神民を買いたいと言ったから、引き渡すまではお前たちを生かしておいてやる。取引完了後、その買主がお前たちをどう扱うかは私のあずかり知るところではない」と言った。
井千陽は自分たちに逃げ道がないことはわかっていたが、一つ確認しておきたいことがあった。
「お前は……一体何者だ?」
「私は単なる『闇市の商人』さ」黒いローブの者は淡々と答えた。
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