第三夜:狼王(3)ミラーズホロウはお前のものではない

 ガシャーンドカン——ゴロン!

 カーテンウォールが衝撃で割れると同時に、ヘリコプターがまるで砕氷船のようにビルに突っ込んできた。その瞬間、火が付き、炎が激しく燃え広がった。

 次の瞬間、ヘリコプターのドアが開き、獰猛な人狼が次々とキャビンから飛び降りて、人間を見るや否や襲い掛かってきた。

 パーティーの客は我先にとホールの出入口に駆け込んだ。転んだ者は踏みつけられ、ケガした者は悲鳴を上げ、動きが遅い者は人狼の餌食になった……ホール全体が大混乱になり、それはまるで地獄絵図だった。

 人狼が客の中に紛れ込まないようにすることしか頭になかった神民たちは、奴らがまさかヘリコプターで堂々と襲い掛かってくることを想定できず、自分たちの失敗に内心苛立つしかなかった。

 幸い、彼らは皆百戦錬磨であるゆえ、このような状況でも慌てることはなく、既に人狼の退治と市民の救出の任務を開始していた。

「パパ!パパ!助けて!」男の子が人狼に捕まって、体をじたばたして泣き叫びながら父に助けを求めた。

 この男の子はあの成金の息子だった。その父親は焦ったが、息子を助けに行く勇気がなかった。

「誰か!息子を助けてくれ!早く!」

 成金は怒鳴りながら、一人のウェイターを捕まえ、人狼に立ち向かわせようとした。

「お前はスタッフだな?私たちを守る責任があるだろう。早く息子を助けないか!馬鹿者が!」

「あの……私は……」

 そのウェイターは神民ではなく、戦闘能力のないただの一般市民だったから、驚いて顔から血の気が失せた。

 バンッ!

 銀色の弾丸が音と共に通過し、人狼の頭に命中すると、人狼が叫び声を上げた後にその場に倒れた。

 九死に一生を得た男の子は、すぐさま泣きながら父親のもとへ駆け出した。

 人狼を撃った者は井千陽だった。彼は人狼を一匹射殺した後、すぐにそばの一匹の相手をして、銃弾で人狼の胸を貫いた。

 井千陽の相棒である南宮樹は血の刃で人狼を始末しながら、魔女の薬で人狼の攻撃で傷を負った客の手当てを行った。

 現場が混乱している最中、井千陽は突如背の高く、ブロンズ色の肌の男がステージに上がっていることに気が付いた。

 この男はテレビで宣言を行って騒ぎを引き起こした、自称『狼王』ことアザット・メメティだった。

 井千陽は決意を固めて、男に照準を合わせると、あのローズゴールドの毛皮へ向かって歩き、大きな手を伸ばして毛皮を撫でている姿が見えた。

 その動きは驚くほど優しかった。それはまるで死んだ物ではなく、生きている生命体を扱っているようだった。

 すると、狼王の顔からとても想像できないものが出てきた──涙だった。

 トリガーを引こうとした井千陽は、狼王の涙を見た瞬間、動きが一瞬遅れてしまった。この一瞬のタイムラグのせいで相手を仕留める絶好のチャンスを逃してしまった。

 狼王は殺気を察知すると、すぐこちらに振り向いた。真っ赤な目が井千陽をギラリと睨み、血に飢えるような目線を放っていた。

 井千陽はハンターである。彼はこれまで相手を狩る側だったが、その両目に見られた途端、自分が獲物になったように思った。

 原始的な恐怖が井千陽の心に湧き、そして四肢へと広がっていった。それは人類が生来、捕食者――つまり、人狼に対して抱いている『恐怖』なのだ。

 狼王は瞬く間に全身が黒く光る毛に覆われた巨大な狼へと変身した。

 井千陽はこれだけ逞しい体躯の狼を見たことがなかった。その姿はまるでライオンのようだった。その硬い黒毛はまるで黒鉄の鎧であり、体毛の下には百戦錬磨の強靭な筋肉が隠れていた。

 井千陽は逃げようと思ったが、自分の両足がまるで凍りついたように、一歩も動くことができなかった。逞しい狼王の前に、自分がサバンナのガゼル以下の存在だということに気づいた。

 狼王はゆったりとした動きで近づいた。洗練されたその姿に、自分が食物連鎖の頂点に君臨していることを知っている故の自信があった。

 二人の距離が更に縮められ、残り五メートルを切ったとき、井千陽の生存本能がとうとう恐怖心に打ち勝ち、トリガーを引いて、狼王の頭部をめがけて銃弾を放った。

 バンッ!

 銀の弾丸は強い推進力で銃から飛び出し、空を切って飛んでいたが、狼王に躱された。これだけ巨大な生物であるにもかかわらず、その動きが異常なほど俊敏だった。

 すると、狼王は防御不可能な態勢のまま前進し、恐ろしくて大きな口を開いて、井千陽へ突撃した。

「千陽!」

 相棒のピンチに気づいた南宮樹は、ためらうことなくすぐさま駆け寄って井千陽をタックルし、勢い余って転がりながらも、危なげなく狼王の鋭い牙を躱した。

 井千陽と南宮樹は慌てて起き上がった。狼王は二人の周りをゆっくりと歩き、まるで縄張りを巡回するオスライオンのようだった。

 狼王は猛禽類のような鋭い目で目の前の『二匹の獲物』を品定めし、全身から鋭利な刃物のような濃厚な殺気を放った。

 井千陽と南宮樹は狼王に睨まれて鳥肌が立ち、体内のアドレナリンが急上昇して全身の筋肉が石のように硬直し、手からは大量の汗が流れた。

 次の瞬間、狼王は突然力を放ち、まるで砲弾のように二人へ猛烈に突進した。二人が躱そうとしたとき、狼王の標的が二人ではなく、斜め後ろにいる市長だと気が付いた。

 狼王はあっという間に市長を地面に押さえつけ、容赦なく市長の肩に噛みつくと、鋭い牙が皮膚を貫通し、その血肉へと侵入した。

「ぎゃあ!」

 市長が悲鳴を上げた。本来、多くのボディーガードが付いているのだが、ある者は殺され、ある者は負傷し、市長を守れる者はもういなかった。

 神民たちは市長の悲鳴が聞こえると、すぐ市長の救助に駆け付け、狼王を何重にも包囲した。

 狼王はゆっくりと口を開いたが、市長への拘束を緩めることなく、前足下部を市長の首の下に置き、がっちりと固定した。その足裏の大きさは成人男性の拳よりも更に大きかった。

 狼王は市長を人質にとり、神民たちが狼王を包囲したが、人狼たちも神民たちを包囲した。

 三者が互いにけん制することで、奇妙な均衡が保たれていたが、少し風が吹くだけでこの均衡は崩れてしまうだろう。

 野生の狼は狩りでじっと待つことに慣れていて、獲物を狙って何日、時には何か月も待つことは珍しくないのだ。今、人狼たちはこの天性の才能を発揮し、動かざること山の如く神民たちと対峙している。

「我が以前宣言した通り、ミラーズホロウの現在の名は人狼トゥーラーンであり、我こそが唯一の統治者である」

 狼王の野獣のような低い声がホール内に響き渡り、現場の人間の鼓膜を震わせた。

「ここには市長という者が存在しない」

「違う……」市長はなんとか喉から声を出した。「ミラーズホロウは……お前のものではない……」

 市長は狼王に首を踏みつけられているにもかかわらず彼に歯向かった。本来、市長がただの政治家に過ぎないと思っていた者は、彼を見直さずにはいられなかった。

「よかろう」狼王が厳めしい口調で話を続ける。「それが貴様の決意ならば、我も意志表示せねばなるまい」

 狼王が市長の首を噛みちぎろうとしたそのとき、一発の銀の弾丸が狼王の頭部に向けて発射されたが、うまく躱されてしまった。

「シーフォース!」ベテランの神民がすぐ弾丸を放った若い神民を制止した。

「言ったはずだぞ。逆らう者はそれ相応の代償を払うことになると」狼王は恐ろしい目つきでシーフォースという名の神民を凝視してる。「我が宣言に、二言はない」

 シーフォースは体の震えを抑えて、強がって言い放とうとした。「ほざくなこの畜──」

 シーフォースの話がまだ終わらないうちに、狼王は電光石火の速さでシーフォースに向かって突撃し、首からの大きな肉塊を噛みちぎると、破裂した頸動脈から血しぶきが迸った。

 シーフォースは首に開けられた穴を抑えたまま、体を少し揺らしたあと、ゆっくりと地面に倒れた。

 今回の人狼退治任務はフィリポというハンターがリーダーを務める。シーフォースは彼にとって息子同様の弟子だったから、シーフォースを失った悲しみは計り知れなかった。

 しかし、歴戦の猛者であるフィリポは自暴自棄になることはなく、引き続き冷静に現場の状況を分析した。

 ホールの炎の勢いは激しさを増した。天井のスプリンクラーが放水しているものの、炎の勢いを止めることは難しく、下のフロアへの通路も既に倒れたガラクタと炎で塞がれていた。

 ここは摩天楼の最上階であり、窓から飛び降りるのは明らかに自殺行為だったので、残された唯一の逃げ道は屋上への通路だった。

 フィリポは声を抑えながら、井千陽と南宮樹、最年少の二人の神民に指示した。

「ここは私たちに任せろ。お前たちはチャンスを見計らって市長を屋上まで護送してくれ。直に迎えのヘリコプターがやってくる」

 二人は頷くと、フィリポは他の神民を率いて、トラバサミに似た形の陣形を形成し、狼王を中央に包囲して、猛烈な攻勢を仕掛けた。

 狼王がけん制されている間、井千陽と南宮樹は急いで市長の救出任務にあたった。

 二人は協力していた。南宮樹は市長を背負い、井千陽は前方の道を開いて、道を塞ぐ人狼を一匹ずつ射殺した。

 二人が市長を連れてなんとか包囲網を突破し、ヘリポートにたどり着いたがヘリコプターはまだ来ていなかった。

 下の階層から聞こえる戦闘の音が激しさを増しているから、井千陽と南宮樹は心中穏やかではなく、今すぐ下に降りて仲間を助けに行きたかったが、市長を放っておくことができなかった。

 ダダダダダッ……

 しばらく経つと、ようやく遠くから回転したプロペラの音が聞こえてきた。市長を迎えに来たヘリコプターがようやく到着した。

 ヘリコプターがヘリポートに着陸すると、救援隊員が昏睡状態の市長を急いで運び、井千陽と南宮樹に、他の消火と救助の任務にあたるヘリコプターが向かっている途中だと告げた。

 市長がヘリコプターの中に運ばれると、井千陽と南宮樹は急いで戦場に戻ろうとすると、一匹の巨大な黒狼が屋上に出現していた。

 黒狼は全身が血まみれだったが、その血には彼自身の血が一滴もなかった。

 ヘリコプターは既に地面を離れ、上昇していたが、井千陽と南宮樹は狼王の阻止に間に合わなかった。狼王が怒号を発し、後ろ足を地面に蹴ると、猛然とキャビンに飛び掛かった。

 ドアは既に閉じられていたが、狼王の突撃によって大きな凹みができた。その後、狼王は必死で着陸脚を噛みつき、ヘリコプターを引きずり込まれただ。

 ヘリコプターは既に上空を飛行していた。操縦士は何度も狼王を下に落とそうとしたが、いずれも失敗に終わった。

 機体が激しく揺れていた。井千陽は一か八か狼王に目がけて撃ったが、危うくエンジンに命中するところだったので、それから彼は撃つことをやめた。

 次の瞬間、キャビンにいた武装した隊員がドアを開き、銃を構えて狼王に射撃したが、通常の銃弾では彼にダメージを与えることができなかった。

 そして、ドアを開いたのは致命的なミスだった。狼王はすぐさまキャビンへ乗り込み、市長を強奪しようとした。

 キャビン内から凄惨な悲鳴が聞こえると、ヘリコプターは大きく揺れて、飛行高度が安定せず、最後はコントロールを失って落下し始めた。

 ヘリコプターがそろそろ三十階の高さに達すると、操縦士はヘリコプターを安定させて再び高度を上げようとしたが、遂にはミラーズ川に墜落してしまった——

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