第二夜:神民(1)あの時、お前は寝小便をしたな

 井千陽がバスに乗り込んでから、二十分ほどでバスは目的地に到着した。

「今日もお疲れ様です」バスを降りた井千陽は、運転手に心の底からお礼を言った。

「君もね、今夜は人狼が少ないといいんだけどね」運転手は、井千陽のことをまるで顔見知りのように、笑顔で応えた。

 実は、この運転手は教会のバックアップスタッフの一人で、普通のバスに偽装した車で神の民をミラーズシティ市内各地に移動させる役割を担っていた。

 午後七時、空はすっかり暗くなり、大地に影を落としている。

 井千陽がバスを降りた場所は、人の腰まで届く高さの草が生い茂る荒れ地だったが、微かな月の光を頼りに遠くにある墓地に向かって歩いていった。

 井千陽はこの道を幾度もなく来たことがあるから、目をつぶっても問題にならなかった。

 墓地に着くと、霧に包まれた広大な敷地での気温は他の場所よりも数度低いように感じられた。

 井千陽は墓地の奥へと進み、巨大な墓石の前で立ち止まった。

 墓石には何も書かれていないが、その上には悲しい表情をした墓守の像があった。その顔には酸性雨で浸食された跡があって、まるで涙を流しているように見えた。

 井千陽は墓石の前にしばらく立ち尽くした後、濃い霧に呑まれるように墓地の中に消えていった。


*****


 墓守の像には入場管理システムが隠されていて、井千陽が本人であることが確認された後、重い墓石がゆっくりと動き、地下への入り口が姿を現した。

 井千陽は地底に続く長い階段を下り、複雑な墓道を進んでいった。

 そこは軍事要塞に匹敵するほど厳重な警備が敷かれており、特定の人しか通れないようなゲートが多数存在する。

 井千陽は難関を幾度と乗り越え、目的地である礼拝堂にようやくたどり着いた。

 この礼拝堂は、美しい模様の床タイルとステンドグラスが並ぶ壁で構成された古典的な建物である。肋骨を彷彿させる整然としたアーチが、地下深くにあるとは思えないほどとてつもなく高いドームを支えている。

 礼拝堂には長椅子がなく、代わりに精密な電子機器が並んでいる。ドーム天井にはミラーズシティの首都圏地図が映し出され、蛍光ブルーの光の点で覆われている。その一部は時折点滅し、街中の人狼の動きを示している。

 ここが『神民』の拠点――『教会』である。

 西の大陸を発祥とする教会は長い歴史を持ち、中世の時代から人狼や吸血鬼と戦ってきた。

 これら人外が全世界に広まるにつれ、教会は彼らを追跡、退治するようになった。そして、人狼や吸血鬼がミラーズシティに棲み着いたとき、教会もまたここを拠点とした。

 教会の本部がミラーズシティの首都圏地下深くにあるほか、その他の地域にも支部があり、闇夜の中で人々の安全を守るために互いに協力している。

 今、礼拝堂では百人以上の職員が働いている。服装は黒か白で、修道士や修道女は白い服を着ていて、黒服たちはスーツを着ている。

「千陽、お帰り」

「ああ、ただいま」

 井千陽を見た何人かの職員が笑顔で挨拶し、彼もその全員に挨拶を返した。

 顔はまだ無表情だが、彼はまるで家にいるように肩の力は抜けていた。

 その後、井千陽は礼拝堂を通り抜け、曲がりくねった墓道へと入っていった。

 そこには数多くの廊下や階段があり、医療室、武器庫、書庫、食堂など、用途の異なる大小の部屋につながっていた。

 井千陽はその中の一室の前に来て、扉を開けて中に入った。中にはバスルーム付きの個人寮、つまりの彼が住む寮があった。

 初めて訪れた人は、自分が小さな温室の中にいると思うだろう。

 ここでは至るところに鉢植えがおいてある。机の上には多肉植物の鉢植えが並び、壁には数鉢のつる植物がぶら下がっていて、隅には小さなシダ植物の鉢植えがある。どれも室内栽培に適している。

 地底には日光が当たらないことを考慮して、井千陽は植物を照らすため専用の昼光色の育成ライトを購入し、定期的に鉢植えを地上で日光を当てることで、それぞれの植物が緑を保ちながら生き生きと育っている。

 たくさんの植物以外にこの部屋で目を引くのは、ドア脇に掛けられた鳥のクチバシがついたマスクと三着の黒いスーツ、そして壁に掛けられた数丁の猟銃である。

 リュックを置いた井千陽は、お気に入りの鉢植えの様子をチェックし、そのうちの一つに新しく購入した栄養剤を注入した。

 植物の世話をした後、壁からショートバレルの猟銃を手に取った。

 教会の紋章が刻まれたこの猟銃は、博物館の収蔵品のように洗練されているが、現代の最新技術を搭載している。その銃床は極限まで削られ、全長は半メートル以下であり、一般的な猟銃よりもはるかに軽量で、簡単に隠し持つことができる。

 教会は人狼退治のための特殊な銃を数多く開発しており、この猟銃もその一つで、特殊な銀の弾丸を使う必要がある。

 井千陽は敬虔じみた丁寧な態度で愛銃の各部を点検して、既にピカピカの銃身を磨き、各部に保護剤を丁寧に塗って、最後に銀の弾丸を一発ずつ薬室に充填した。

 一通り作業を終えると、井千陽は制服から黒いスーツに着替えた。マスクと猟銃を手に、部屋を出ようとしたとき、ふと何かを思い出し、リュックからある物を取り出してポケットに入れた。


*****


「千陽、放課後、なんで俺を置いてったんだ?」

 部屋から一歩出た途端、井千陽はドアの横にもたれている背の高い少年の恨めしそうな声を聞いた。

 南宮樹だった。彼も黒いスーツに着替えていたが、まだマスクをしていなかったので、そのハンサムな顔には、まるで主人に置いていかれた子犬のように、明らかに不満そうな表情が見て取れた。

「君が女の子たちから延々と告白されてたから、待てないと決めた」井千陽は関心なさそうに答えた。

「そのことか……短時間で対応したよ」南宮樹は顔を赤らめながら質問を続けた。「あの後、お前に何度もメッセージを送ったのに返信が来なかったけど、一体どこ行ってたんだ?」

「僕への尾行以外にやることがないのか?」井千陽が聞き返した。

「ない!」南宮樹はなぜか堂々とした態度で即答した。

 二人はおしゃべりしながら食堂に向かって歩いた。

「小さい頃はこんなんじゃなかったのにな……」

 夕食の席に着くと、南宮樹は相変わらず不機嫌そうにぶつぶつ言いながら、面白くない表情をしてフォークでミートボールを分けていた。

「あの頃、お前は口も悪かったかもしれないけど、本当は俺のことを心配してくれることを知ってるよ。俺が悪い夢を見たときも一晩中そばにいてくれてたよな」

「あの時、お前は寝小便をしたな」井千陽が容赦なくツッコミを入れた。

「うっ、うるさい!」

 井千陽と南宮樹は教会で一緒に育った幼なじみである。

 井千陽は七歳の頃、両親が人狼に殺された。彼らはどのようにオッドアイを持つ灰色の人狼に無残に引き裂かれたのを今でも覚えている。

 その後、神民に助けられ、教会に引き取られた井千陽は、優秀なハンターを目標に奮闘し、仇を討つため両親を殺した人狼を探している。

 南宮樹は井千陽とは経緯が異なった。父親は神民の職種の一つ――魔女だった。彼も同じく七歳の頃、両親が人狼に殺され、教会に引き取られた。そして、父の後を継いで魔女になった。

 教会のメンバーは「神職を有する市民」、すなわち神民と呼ばれている。

 神民には様々な職種があり、予言者、ハンター、魔女、騎士の四種類に大別されている。

 予言者は情報収集担当で、毎晩、人狼の出現場所、時間、数を「確認」するために情報の収集と分析を行い、神民にとって最強のサポート要員だ。

 ハンターは、猟銃と銀の弾丸を武器に、最前線で狼を退治する戦闘員で、厳しい訓練を乗り越えた者だけが就くことができる。

 魔女は特異体質を持つ戦闘員であり、神民の中では最も数が少ない。魔女の力は天性のもので、自分の血液から刃物を作ることができる。

 彼らの血液は人狼にとっては猛毒であるが、一方で一般人にとっては霊薬である。但し、その用途は人狼による傷の治療に限定される。

 なお、魔女とは総称であり、女性だけが魔女になれるわけではなく、男性の魔女も普通に存在する。

 また、騎士は剣を武器とする戦闘員であり、人狼との接近戦を得意とする。

 この四種類の神民の他に、教会には各部門に分かれた後方支援要員が存在し、教会の運営全般を支えている。


*****


 夕食を取った後、井千陽と南宮樹が礼拝堂に入ると、一人の修道女が近づいてくるのが見えた。

 彼女の名はアンジェラ、その名の通り天使に祝福されたような美しさ誇っている。

 頭巾を被ってはいるが、淡い金髪が見え隠れし、群青色のアーモンドの瞳は、聖画に描いた聖母マリアを思わせる。

 小柄で華奢な体型だが、外見だけで彼女がか弱い女性と判断するのは大きな間違いだ。

 アンジェラは、後方支援要員に転属する前に多くの人狼を恐れさせたハンターであり、次期長老候補として最も注目されていた一人であった。

 アンジェラは井千陽と南宮樹を人狼から救い、井千陽にハンターのスキルを教えた張本人である。

 また、南宮樹の師匠はアドリアン神父という魔女だったが、現在は神民を引退し、教会を離れて修道院に入っている。

 井千陽と南宮樹は二人ともにアンジェラに育てられた。彼女はまだ三十代前半だが、二人にとっては本当の母親のような存在だ。

「千陽、阿樹アーシュウ、また任務があるの?」アンジェラが尋ねた。

「まあ、青松里の駐車場まで行くだけなんだけどね」井千陽が答えた。

「昼は学校、夜は任務、本当に大変だね」アンジェラは軽くため息をついた。「まだ十六歳なんだから、普通の子供と同じように学校生活を楽しんで、平和な日々を過すべきだわ……時々、後悔することがあるわ。あなたたちがこんなに早く神民になることを許可してしまって良かったのか、って」

「神民になるのは俺たちが選んだことだよ。自分を責めないで、シスターアンジェラ」南宮樹が慰めた。「俺たち二人はミラーズシティの平和に貢献したいんだよ」

「人狼を退治するときは不用意な行動をしないで、自分の安全が最優先よ」アンジェラが忠告した。「特にあなたよ、千陽。阿樹を置いて先行かないでよ。あなたたちはパートナーであり、神に祝福された兄弟なのだから。いいわね?」

 井千陽は素直に頷いたが、南宮樹は彼が一言も聞いていないだろうと思っていた。

「それじゃ出発ね。気をつけてね」アンジェラは言った。

 二人が出発しようとするとき、井千陽が突然「シスターアンジェラ、プレゼントがあるんだ」と言った。

 そして、ポケットから小さな立方体の黒い箱を取り出すと、大事そうにアンジェラに手渡した。

 このプレゼントは数か月前に注文していたのだが、今日にショッピングモールに行って受け取った。

「お誕生日おめでとう」井千陽は耳を少し赤くしながら、ボソッと呟いた。

 アンジェラは、めったに恥ずかしがらない井千陽を少し可笑しいと思った。彼をからかうように、わざとゆっくりと、そして丁寧に箱を受け取った。

 開けると、羽を広げた天使のペンダントがついたシルバーのネックレスが入っていた。

「ずるいぞ、千陽!抜け駆けしてプレゼントを贈るなんて!」南宮樹は憤然と抗議し、慌ててポケットの中を探った。「俺もプレゼントを用意したんだ!ちょっと待てよ、プレゼントはどこにやったっけ……」

 アンジェラが急に歩み寄り、身長が既に彼女より高くなった二人の子供を抱きしめて、涙を浮かべながら微笑んだ。

「ありがとう……千陽と阿樹。あなたたち二人の子供に出会えたことは、神様が私に与えて下さった最高の贈り物よ」アンジェラは涙をこらえながら言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る