第10章

 翌日の昼時間、ジョナサンはロッカーの前でハイリーと待ち合わせをしていた。彼らはいつものように一緒に学生食堂に向かったが、そのドアをくぐる前に、ハイリーは急にジョナサンの肩を叩いた。

「私は私の友達と一緒に座る」ハイリーは横に指さした。「だから他の人を探して」

「なん──どうしたのか、ハイリー?」

 ジョナサンの緊張した様子でハイリーを笑わせた。「そんなに心配しないで、ジョナサン」彼女は狡猾に瞬きをした。「誰かがあなたを探すことを知っている」

「うん、でも……」

「幸運を祈るよ、兄弟」ハイリーは彼を押した。「また後で」

 ジョナサンは彼女の顔にある狡猾な笑顔を見て、急に自分がはめられたように感じた。ハイリーと他の生徒たちは順番を守って食堂に入っていき、焦っている彼をドアの傍に残した。彼は自分が先に食堂に入るかどうか迷っていたが、慶浩、チャド、スーリーの存在がすぐに彼を気まずい窮地から救った。

「ハロー、ジョナサン」スーリーは彼に向けて言った。「誰かを待っているのか?」

「うん、実は君たちを待っていた」ジョナサンは肩をすくめて、さり気ないふりをしていた。

「ハイリーはどうする?」慶浩は嘲笑っているように言った。「彼女は怒らないのか?」

「彼女はそんな──」ジョナサンは止まって、頭を振った。「僕と彼女はもう大丈夫だ」

 彼は慶浩の視線に向き合った。慶浩は眉を上げて彼に問いかけているようだが、ジョナサンは彼の眼差しを決して逸らすことがなかった。この前、彼、ハイリーと慶浩の間にある気まずさは、彼がもじもじしているせいだとしたら、今はもうそのような問題が存在してなかった。彼は自分の心を裏切らないような態度で慶浩と接したい。何せ元はと言うと、これは恥ずかしがるようなことではなかった。

 何秒か経った後、慶浩はようやく満足な答えを得たように、ジョナサンに向けて燦然とした笑顔を見せ、目を細めた。「わかった!」と彼は言った。「じゃあ行こう」彼はジョナサンの肩に手を回して、彼を連れて食堂に入った。

 彼らが自分のトレイを持って席に座った後、ある考えがゆっくりとジョナサンの頭に浮かべた。

「慶浩、」と彼は言った。「アダムは?」

 さっき食堂のドアで会ってから、ずっとアダムを見かけてなかった。ジョナサンの心のどこかはほっとしたが、こんな異様な感覚は好きじゃない。アダムはこのグループの最も核心の人物の一人、彼が消えたことで、このグループも瞬時に重心を失ったように感じた。

「わからない」と慶浩は言った。「さっきから見かけてなかった」

「授業の時は?」とジョナサンは尋ねた。彼は何で自分がそう聞いたのかわからない、アダムが食堂に来てないことと、彼が学校に来て授業を受けているかどうかは関係ない。でも彼の感によるとこれは一つの問題、そして彼は答えを知りたい。

「俺は彼と共通の授業がない」慶浩は肩をすくめて、チャドに振り向いた。「お前が彼と一緒になった……社会と人間関係?彼を見かけたのか?」

 チャドは頭を振った。「いや。彼は今日、授業に出ていない」

「何で君が心配している?」と慶浩は尋ねた。

「昨日彼の様子で少し心配になった。そうは思わないのか?」とジョナサンは言った。

「うん……」慶浩は一本のフライドポテトを手に取り、トマトソースを混ぜた。「俺が言えるのは、アダムは自分が何をしているのか知っている。彼はウェスと約束したのだろう?彼はきっと劇団の練習を間に合わせるために、学校を休めて台本を修正しているに違いない」

「恐らくね」

「きっとそうだよ」と慶浩は揺るぎなくそう言った。「今日の劇団の練習時間で彼に会えるはずだ。間違いない」

 ジョナサンは慶浩とその点について論争することができなかった。何せ彼らは四年も知り合って、慶浩は当然ながら彼よりもアダムのスタイルを知っている、そうだろう?

 放課後の劇場で、アンソニーとアダム以外に他の人は時間通りに現れた。アンソニーが居なくなったことはジョナサンの予想通り、彼が台本を投げ捨てることで彼の退出を宣言していたが、アダムがなかなか現れないことは彼の気を引き締めさせた。

 メンバーたちは並べられた椅子に座るか、または適当に床に座った。ウェスは腕を組んでステージの縁に立って、何かを考え込むように劇場の入口を見つめた。

「もう何分かを待とう」とウェスは言った。「後何分できっと彼は現れると信じている」

「誰か彼に電話を掛けたのか?」とジョナサンは尋ねた。

「かけた」とウェスは答えた。「携帯電話も家の電話も掛けた。でも誰も出なかった」

 ジョナサンの鼓動が早くなった。傍の慶浩はぎゅっと彼の肩を掴めた。

「パニックになるな」と慶浩は言った。「何も心配することはない、ね?」

 そんなことを言われても、彼自身の目もじっと劇場のドアを見つめていた。女の子たちのひそひそ話がジョナサンの耳元で騒めき、彼をよりイライラさせた。

 また暫くの時間を過ぎて、ジョナサンには何時間を過ぎたように思えたが、実際はたった五分しか経ってなかった。劇場のドアは急に押し開けられ、ステージにある声は瞬時に止まり、十数人の眼差しは全部赤い絨毯の向こう側に向けた。

 アダムはそこに立って、そして彼の姿はゆっくりと劇場に入った。彼が近づくにつれて、ジョナサンは彼の顔の表情がようやく見え、でも彼の様子はジョナサンをかなり驚かされた。アダムは肩を落として、ぼさぼさとした金髪はいつもより乱れており、そして彼の顔は──ジョナサンは自分が彼の顔をじっと見つめることを止められなかった。アダムの目の下には前日よりもひどいクマがあり、彼の青白い顔に二つの深い色の痕跡を残し、まるでアイシャドウを間違った場所につけたようだ。彼の目は深く眼窩に入り込み、目の中は充血していた。

「アダム」慶浩の手はジョナサンの肩に強く力を込めて、次の瞬間にジョナサンは跳ね上がりそうになったが、先に動き出したのはウェスだった。

 ウェスはステージを飛び降りて、アダムのほうに向けて走った。彼は途中でアダムを止めて、二人でそこに話し合って、そしてステージに居る人は微かな話し声しか聞こえなかった。慶浩は舌打ちをして、後ろに倒れて背もたれに寄りかかり、強く息を吐いた。傍のウィルは立ち上がり、ステージの上で歩き回った。イライラとした雰囲気でジョナサンは居ても立っても居られないが、彼は無理して自分を椅子に座った。

 アダムとウェスの話し声は時に大きくて、時に小さく、暫くの間に続いた。ジョナサンはウェスがアダムの肩に手を置いているのを見て、彼を慰めているようだが、アダムは唇を噛んで、固執に頭を振った。ウェスは諦めずに話を続けたが、これから彼が何を言おうと、アダムは返事を返さなかった。最後にウェスはしょげたように肩を落として、アダムの耳元で一言を話した。今回アダムはようやくゆっくりと頷いた。ウェスは彼の肩をつねって、彼の背中を叩いた。そしてアダムは振り返って劇場のドアに向けて歩いた。

「へい!」慶浩は椅子から飛び上がった。「ウェス!何なんだ?アダムは何をしている?何で彼はまた帰った?」

 ウィルはステージの縁に走り、飛び降りようとしていた。ウェスは手を上げて、みんなに落ち着かせようとしていた。彼はまたステージに戻り、直ちに全員が投げた質問に囲まれた。ウェスは困ったように両手を上げて、みんなが静かになってから口を開いた。

「アダムは俺たちにもう一日の時間を与えてほしい」とウェスは言った。

 その言葉にまた全員は騒めいた。もう一日?もうすぐ本番なのに、台本が時間通りに完成できない?ショーはどうする?

「何を話した?」慶浩は問いかけた。「彼は何と言う?」

 ウェスはため息をついた。「彼は満足できる台本に修正できないと言った。俺は役割を変えた方が楽だと言ったが、彼はどうしてもしたくなかった」

「くそ」慶浩は罵りの言葉を吐いた。

「彼は一体何を考えている?」とウィルは言った。「だから彼は何をするつもり?夜更かしし続けて、自分を急死させるのか?」

「俺は彼が自分に重いプレッシャーをかけ、そして俺たちが見たくないことをしてしまうことを心配していた」とウェスは言った。彼は視線を床に落とした。「だから、俺は彼にもし本当に台本を修正できないなら、ショーを取り消すこともできると教えた」

 その言葉に、他のメンバーは息を呑んだ。慶浩はジョナサンを一目見て、そしてまたウィルと視線を交えた。

「ではショーの経費はどうする?」と慶浩は言った。「学校側が提供した資金、そして俺たちが器材を借りた賃貸料──」

「もしかしたら暫く活動を禁止される」とウェスは認めた。「もしかしたら暫くの間に資金不足になるだろう。暫くの間に何のショーもできなくなる」彼は頭を振って、はっきりと言った。「でもこのことは一番にいい方法で幕を閉じたい。一人もの子供がこのことの中で傷付きたくない」

「わかった」ウィルは肩をすくめた。「少なくともこれで誰も劇団から離れることにはならない」

 ジョナサンはチラッと慶浩を見つめた。慶浩の表情は解読しづらいが、ジョナサンは彼の眼差しの中に、ある種の破壊力を持つ主張が見えた。

 台本がないせいで、全員がここに残っても意味がない。ウェスは全員に早く家に帰るように言った。ジョナサンがカバンを持って劇団を離れようとした時、慶浩は後ろから彼の腕を掴めた。

「今晩、俺はアダムの家に行くつもりだ」と慶浩は言った。「夕食を食べた後、一緒に行く?」

「もちろん」とジョナサンは答えた。

 正直に言うと、例え慶浩が言い出さなくとも、彼もそうするつもりだ。この二日間で見たアダムは彼に不安を感じさせ、彼はアダムと話し合いたい。でも彼は自分の存在がアダムをより嫌がらせるかわからない──何せジョナサンこそが劇団をバラバラにさせた主な原因だ。でも彼は自らアダムを見に行くべきだ。

「わかった」と慶浩は言った。「夜八時に君の家で会おう」


.


 ジョナサンは慶浩が非常に時間を守る人だと気づいた。約束した八時になった途端、ジョナサンの家のベルが鳴った。彼はいつでも出発できるように準備したので、ベルが鳴った次第、彼はすぐに出かけて慶浩と合流した。

 慶浩は自転車に乗って来たから、ジョナサンも自転車の鍵を開けて、慶浩と一緒にアダムの住処に向かった。

 初めてアダムの家に行った時、ジョナサンは彼の家からオレンジの光が見えたことを覚えていた。でも今回、慶浩が自転車を止めるまで、ジョナサンは彼らが到着したことに気づかなかった──アダムの家は道路側にあり、何の光もなく、二階の部屋も灯りをついてなかった。ジョナサンは殆どその真っ黒な部屋がわからなかった。彼は前回アダムの家に劇団のメンバーたち以外に他の誰もいないことを思い出し、だから彼は今回もアダムの両親が家にいないことを予想した。でもアダムは?まさか彼もいないのか?

 ジョナサンは慶浩が小声で罵ったのが聞こえた。

 慶浩は自転車から飛び降りて、自転車を適当にフェンスの前に捨て、前庭の小道を数歩、大股で横切った。ジョナサンは急いで彼を追い付いた。二人は閉ざされたドアの前に立ったが、でも二人してどうすればいいのかわからないようだ。慶浩はジョナサンを一目見て、最後はようやく強くベルを鳴らした。彼の指はボタンの上に三秒ほど残り、ベルを暫く鳴り続けさせた。いつもなら、このようなベルの鳴らし方は必ず住戸に抗議されるが、今日に限って彼らには強引な手段が必要かもしれない。

 何秒、何十秒が経っても、ドアの中に何の動きもなかった。

「くそ」と慶浩は呟いた。「アダム、早くドアを開けて」

 彼はまたベルを鳴らし、今回はもっと長く押した。でも相変わらず誰も答えなかった。

 ジョナサンは拳でドアを叩いた。「アダム、中にいるのか?僕らの声が聞こえるのか?」

 沈黙が続いた。ジョナサンは心配そうに慶浩を一目見つめた。慶浩は唇を噛んで、そして強く目の前のドアを蹴った。

「くそたれ」彼は小声で言った。「この時間帯に彼の両親はどこに行った?彼らは一体自分の息子が──」

「シ!」ジョナサンは急に慶浩の腕を掴んだ。「何か音がする」

 慶浩は言葉を飲み込んだ。彼はジョナサンと一緒に目の前の鉄のドアをじっと見つめて、中から金属のぶつけ合う音を出しているのを聞いた。でも外のドアが開く前に、彼らは中からはっきりとしない「誰がそこにいる?」と尋ねる声が聞こえた。

「アダム?」慶浩は強くドアを叩いた。「何をしている?早くドアを開けて!」

「誰がそこにいる?」アダムはまた尋ねた。

 ジョナサンは慶浩を一目見て、慶浩は彼に向けて頷いた。そしたらジョナサンは「僕だ、ジョナサン、あと慶浩だ」と答えた。

 中からは何の音もなかった。ジョナサンの心臓が一瞬収縮した。彼はアダムがもうドアの傍を離れたのか心配したが、彼は未だに諦めずに「僕らはただ君を心配しているだけ、アダム。大丈夫なのか?中に入れてくれない?」と言葉を続けた。

 アダムは答えなかった。慶浩は舌打ちをして、強く鉄のドアを叩いた。「アダム──」と彼は大声で言った。

 中から微かな話し声が伝わってきた。慶浩は手の動きを止めて、ピッチを上げた。「何?」

「あっち行けと言った」とアダムは言った。

 ほんの一瞬、ジョナサンはアダムが何を言っているのか理解できないと感じた。彼は慶浩を見つめて、慶浩が眉を死ぬほどひそめて、鉄のドアを二つの穴を焼き開けそうな視線をしているように見えた。

「アダム!嫌な奴になるな」と慶浩は叫んだ。「ドアを開けろ!」

「ここで何をしている?」アダムの声は鉄のドアの隙間から聞こえてきて、さっきと比べて意外とはっきりとしていた。「失せろと言った!家に帰れ!」

「くそたれ!」慶浩は吠え返した。「俺らは善意を持ってお前を会いに来たというのに、何という態度だ!」

「来てほしいとは言っていない」とアダムは答えた。「お前らを見たくない。特にジョナサン、お前だ」

 この言葉はパンチのように、ジョナサンの腹に重く殴った。彼は急に息苦しくなった。彼は俯いて、自分の唇を噛んだ。だからアダムは彼が劇団を壊してしまったことに非常に気にしていた。ジョナサンは驚くべきではないが、この言葉によって自分が傷つくことに驚いた。

「アダム、ドアを開けて」慶浩はできるだけ冷静に言った。「ちゃんと話し合おう」

「今は全然大丈夫じゃない」とアダムは答えた。「俺は誰とも会いたくなない」

「せめて君が無事であることを確認させて」ジョナサンは必死に口を開いた。「僕は本当に心配だ──」

「心配?」とアダムは言った。「君の衝動的な口が全てを台無しにする前に、なぜ心配しなかった?」

「ジョナサンのせいにするな」と慶浩は言った。「彼が現れる前に、もう既に色々な問題が存在していることを知っているはずだ。全部が彼のせいじゃない、お前はそれをよく知っている」

 中にいるアダムは少し黙り込んだ。そして彼の声は微かに響いた。「だから何でお前らと会う?もう変えられない。もうどうしようもない!どうやってこの状況をよくするつもり?アンソニーはもう戻らない──」

「アンソニー、アンソニー、アンソニー」慶浩は大声で叫んだ。「こんな時にアンソニーを出してどうする?そう、彼はもう離れた。俺らの混乱したサークルは彼にとっては手に負えなかった!神の面に免じて、何でお前は現実に向き合えないのか?」

「お前らには何もわからない!」とアダムは吠え返した。「お前らは完璧な解決方法があると思い込んでいるが、実際ではお前らには何もわからない!」

「おう、そうだよ!」慶浩は鉄のドアを強く蹴った。「俺らは馬鹿で、何もわからない。お前はいつまでも一番偉い方だろう?お前だけは全部を知っていて、全部をうまくやっている。くそたれ、アダム。くそたれ」

「慶浩、そんな風にしないで」ジョナサンは彼の手を掴んだ。彼は自分がそうしたことに驚いたが、この時においては正しいことのようだ。

 慶浩は彼を振りほどくことはないが、口を閉じることもなかった。「劇団の最大な問題は何か知っているのか?」と彼は言った。「お前はいつまでも自分のことが核心だと思っているからだ!劇団はお前に合わせて動かし、俺ら全員はお前の指示通りに動かないといけないことと思っているからだ。でも忘れるな、俺らはお前が書き出したシナリオじゃない!」

「慶浩!」とジョナサンは叫んだ。

 ドアの内側にいるアダムはある濁った呼吸音を出して、何か飲み込みづらいものを飲み込んだようだ。そして彼はゆっくりと「あっち行け」と言った。

「もう一回言う必要はない」と慶浩は冷たく答えた。

 そして彼は振り返って行った。まだ彼を掴んでいるジョナサンも連れられて一緒に階段を下りた。

「慶浩」とジョナサンは言った。「本当に──」

 彼らは庭を横切って、自転車の傍に来た。慶浩は道路に倒れている自転車を片手で掴んだが、ステムが傾き、自転車は傾いて慶浩の太ももにぶつかった。彼はイラっとして罵った。そして彼はジョナサンと何も話さずに、ただ自転車に乗って通りを走った。

「待って、慶浩!」

 ジョナサンは急いで自分の自転車に乗り、慶浩の後に付いて行った。

 彼は慶浩がどこに行きたいのかわからず、慶浩が盲目的に前に向けて走り、市区の中へ行って通りを走ったセダンに轢かれるじゃないかと心配していた。だから彼はできるだけ慶浩のスピードに合わせ、そうすれば何があってもすぐに助けることができる。アダムのことでかなり心配していたから、怒った慶浩が心臓のもう一つのストレスの源になってほしくなかった。

 彼らは黙ったまま進んだが、周りの景色が徐々に見慣れたものになり、慶浩が公園に向かったことを知り、ジョナサンはほっとした。もし慶浩はストレス発散のためにバスケをするつもりなら、また何時間も付き合ってもいいとジョナサンは自分に言い聞かせた。

 でも慶浩は公園の中に入ってもバスケットコートの前に止めなかった。彼は自転車に乗って歩道を横切って、彼らが止まるまでジョナサンは彼らがあるコースの横にいることに気づかなかった。慶浩は自転車から飛び降りて、自転車を横に押して、そして大股でコースに向かって走った。ジョナサンは彼の後に付いた。

 慶浩はあるスタートラインに近寄った。彼はその場で何歩か踏んで、そして走り出した。彼のスピードは驚くほどに早かった。それは誰でも簡単に追い付くようなスピードではなく、どうやら慶浩はジョナサンがここに居ないふりをするつもりだ。ジョナサンは歯を食いしばった。

 走ることになれば、必ずしも彼に負けるとは限らない。

 だからジョナサンは彼の後に付いて走り出した。初めに彼は殆ど追い付けなかった。ジョナサンは殆ど子供の頃にハイリーと競走したことを忘れた。ジョナサンが慶浩の背中を見て自分のペースを上げた時、その体を引き締めて、気分を高ぶる感覚は徐々に彼の身に戻った。まるでもっと早くなれなければ、彼と慶浩のコースでの距離は二人の間にある本当の距離になりそうな奇妙な感覚を感じた。ジョナサンは、今の慶浩の内心では自分と同じように苛立ち、怒っていることを知っているから、彼は自分のペースと呼吸に集中することに決めた。

 バスケが特効薬のように、ランニングもそうかもしれない。

 ジョナサンは鼻で呼吸をし、口で息を吐いた。彼は自分の呼吸頻度と足音を数え、早い心拍の間に走るリズムを見つけようとした。

 そして彼は見つけた。彼が第二周に入った時、彼のペースと呼吸はあるリズム感を見つけた。血液が耳の中に脈打つ音はメトロノームのようだ。ジョナサンは、自分の足がまるでコントロールから外れたように、ごく自然と前に踏み出していることに驚きながら気づいた。

 彼の視線は終始に慶浩の背中に止まっていた。彼らの間にある距離は縮まらないが、増え続けることもなかった。ジョナサンは自分と慶浩はまるで惑星の軌道上で回っており、彼らの間は引力によって前進しているように感じた。

 走っては呼吸をした。走っては呼吸をした。

 ジョナサンにはどれくらい時間が経ったのかわからず、彼の呼吸とペースの循環はかなり機械化になった。そして彼は前方の慶浩がスピードを落としてジョギングになったのを見たから、ジョナサンは歯を食いしばって無理やりペースを上げて、二人の間にある距離はようやく縮んだ。慶浩のペースが歩行のスピードになった時、ジョナサンは彼に追いついた。彼もペースを落として、慶浩の一歩後ろに早足で歩いでいた。

 彼らはまた一周に近いコースを歩き、そして慶浩はコースの中央の芝生に身を任せた。彼の倒れ込んだ動きはまるで気絶したように、ジョナサンは叫び出しそうになった。慶浩は横に転がり、両腕を広げて胸元を上下させ、最後は地面に仰向けた。ジョナサンは何秒かを迷って、そして芝生に踏み込んで、慶浩の傍に座った。

 辺りは非常に静かで、偶に何回かの叫び声がコートのほうから伝わってくる。ジョナサンの耳元は彼と慶浩の呼吸音に満ちていた。彼は目を閉じて、アダムのことはまるで終わったばかりの夢のように、彼の意識の端に残っていることに気づいた。彼は未だに緊張と心配しているが、その感覚は遠くに感じて、まるでドラマでも見ているようで、そして彼はその中のキャラクターの未来を心配しているようだった。その感覚はあまりにも現実味を帯びておらず、ジョナサンにはそれが良いことかどうかはわからなかった。

 彼の心の中では、ここに唯一現実味を帯びているのは太ももの下にある短い芝生と、彼の目の前に横たわっている慶浩だけ。

「まさか付いて来られるとは思わなかった」慶浩の声は少し嗄れて低かった。彼は微かに頭を振り向いてジョナサンを見つめ、傾いた笑顔を出して。「悪くないじゃん、ジョナサン」

 ジョナサンは他に返す言葉を思いつかなかった。「そうだね」と彼は言った。

「その点に免じて、ずっと君を俺の傍に置くことを考えておく」と慶浩は小声で言った。

「なに?」

「何でもない」慶浩は彼をチラッと見て、そして汗ばむ手のひらを伸ばしてジョナサンの腕を引っ張った。「本当のことを言うと、俺は誰かの視線が俺より高いことを嫌っていた。横になってよ」

 だからジョナサンは慶浩の指示通りに横たわった。

 初めに少し気まずそうに思えた。彼と慶浩は肩を並べて芝生に横たわって、彼の左肩は明らかに慶浩から発した熱気を感じた。ジョナサンは空を見つめていた。彼の瞳孔が徐々にくらい夜空に慣れた頃、彼は漆黒の中に煌めく白い星に気づき始めた。いや、漆黒じゃない。あれは純粋な黒ではなく、インジゴ、濃き紫と深緑によって混ざり合った色、よく見れば彼は殆ど全ての色の変化する分界を見分けることができる。

 二人揃って憂鬱な気分でなければ、ジョナサンは慶浩と一緒に芝生に横たわって星を眺めるのが好きだと思った。

「へい、慶浩」とジョナサンは言った。

「なんだ?」

「さっきはアダムの両親について何か言ったか?」

 慶浩は何秒かを黙った。「何も言っていない。聞き間違いだ」

「それは違うだろう」ジョナサンは振り向いて彼を見つめた。「彼の両親はあまり家に居なかったのか?」

 慶浩はそっと笑い声を出した。「おう、そうだ。それはただのベタな話だ」と彼は言った。「両親は仕事に忙しくて、自分の息子と過ごす時間がないから、彼は時間も精力も別のことに費やして、そして性格が曲がっている狂人を作り上げた──アダムの場合、それは劇団だ。彼は本当に全ての時間と頭を劇団に使った」

「君と彼はどうやら……」ジョナサンは少し言葉を選んだ。「少し衝突している」

「そうだ」と慶浩は言った。「アダムは全員に言うことに従わせることに慣れていた。見てわかるだろう?劇団の中で、いつも俺とウィルだけ自分の意見がある。多分彼は、俺らをどうしたらいいのか見当もつかないだろう」

「それが君たちが互いに争う理由なのか?」

「それはほんの一部だ」と慶浩は言った。「アダムは俺の喋り方が嫌いだ。彼は俺が心をこもっていないと思っている、わかるか?彼は俺の冗談を言っているような口ぶりをうるさがっていた。劇団でしっかりと協力し合えるために、俺は話す態度を改めたほうがいいと彼に言われた」

「じゃあなんて答えた?」ジョナサンの心の中で、慶浩は決して誰かに言われたからと言って変わるような人ではなかった。

「尻にキスしろと言った」慶浩は大笑いを出した。

「何でそんなのが嫌なのか理解できる」とジョナサンは正直に言った。

「そうなのか?」と慶浩は言った。「でも君は嫌いじゃない」

 その言葉を聞いてジョナサンはもう少しで自分の唾でむせた。彼は今の彼らが暗い光の下にいることでほっとした。そうすれば慶浩は彼の頬が赤く染まっていくのが見えない。

「君とウィルは?」

「俺ら?」慶浩ははっと言った。「おう、俺らはただの典型的な犬猿の仲だ。彼は俺を嫌って、俺も彼を嫌っていた。それだけ。でもウィルと嫌い合っている感覚は偶にいいものだと認めざるを得なかった。時々俺らはもう友達になった気分になりそうだ」

 ジョナサンは黙々と彼の言葉をかみしめた。

 劇団のメンバーの間に色々な矛盾があり、彼は自分が本当の意味でわかる日が来るかどうかもわからなかった。しかしジョナサンは生まれて初めて、答えを得る必要はないと思った。

「で、君はなんだ?」と慶浩は尋ねた。

「何か?」

 慶浩は振り向いて彼を見つめた。「俺が言いたいのは──君はどうしてここに居る?」

 この質問に、ジョナサンは興味津々で慶浩の視線に合わせた。

 なんでここに居る?ジョナサンは自分に問い詰めた。一番最初に出た答えは慶浩が心配だからだ。彼は慶浩が怒りのあまりに自分を傷つくようなことをして、もし彼が慶浩を見ていないと、物事が手に負えなくなるのを怖がっていた。

 しかし心の奥底にはもう一つの答えがあり、慶浩に知られるのが怖くて、でも思わず彼が知ったらどんな結果になるのかを想像してしまうような答えがあった。

 慶浩が聞きたいのはどっち?

 慶浩の眼差しに、ジョナサンは心臓の鼓動を狂ったように早くした。それはよくない、こんな雰囲気でこんな会話するのは非常によくないとジョナサンの心の中にある声がそう告げた。もし本当のことを言ったら?またはもし彼が本当のことを言わなかったら──

「ジョナサン」と慶浩は言った。

 ジョナサンは急に二人の間の距離が近いことに気づき、彼と慶浩の鼻の間には拳一つの距離しかなかった。

「な──」

 そして慶浩の手のひらは急に彼の頬に覆って、慶浩の唇は彼の唇に押し付けた。そしてジョナサンは急に息の仕方を忘れた。グラウンド、芝生と星空は一瞬にして全てが消え去り、彼の目の前にはおかしくなるほどに大きい慶浩の目しかなかった。彼の頭には一つの考えしかない。慶浩の唇は思ったよりも柔らかい。

 慶浩は片手で身を起こし、もう片手でジョナサンの顔に当てた。ジョナサンはそれが本当に起こっていることなのか信じられないほどに、二人の唇はぴったりと重なっていた──彼と慶浩、彼らはキスをしていた。ジョナサンの体内にまるで火が燃えているように、慶浩の体が彼の体に押し付けられ、慶浩の鼓動が彼の胸元に重く打っているのをはっきりと感じられた。

 今は何をすればいいのか?ジョナサンの頭は混乱していた。慶浩はいつ止める?彼らは止めるべきなのか?もし彼が止まらなかったら……

 そしてキスが始まった時と同じようにキスは急に終わった。

 慶浩の頭は後ろに退けたが、彼はジョナサンの体に覆いかぶさったままだ。慶浩の目は彼の顔に探りを入れたが、ジョナサンには彼が一体何を見つけたいのかわからなかった。

「これは君が欲しかったもの?」と慶浩は尋ねた。

 ジョナサンは瞬きをして、何秒間に彼は慶浩の声は自分が想像したものかどうかわからなかった。

「そんなに答えにくい質問なのか?」慶浩は小声でニヤニヤと笑った。

 ジョナサンは口を開いては閉じた。彼の唇の上には慶浩の唇の感触が残り、喋ることさえも困難になった気がした。彼は唾を一口飲み込み、自分の視線を無理やり慶浩の唇から逸らした。

「僕、僕にもわからない」とジョナサンは答えた。

 そして慶浩はジョナサンの体から下がった。慶浩の体温が離れた途端、例え五月の夜でも、ジョナサンは急に周囲の気温が下がったのを感じた。

「まあ、そういうことにするよ」慶浩は身を起こし、振り向いて彼を見つめた。彼の顔にはいつものような悪戯っぽい笑顔を見せた。「そろそろ行こうか?」と彼は尋ねた。

「いいよ」とジョナサンは答えた。

 そして彼らは自転車に乗って、慶浩は相変わらずジョナサンに付き合って家の前に戻った。この道のりに、ジョナサンは自分のことを気球のように思えて、車輪の下にある地面はまるで雲のように、彼は最初から最後まで、自分がアスファルトの上から漂っていくのを感じた。

 慶浩は彼にキスをした。彼の頭の中には走馬灯のように繰り返す言葉があった。慶浩は彼にキスをした

 彼らは家の前に止まり、慶浩は自転車を飛び降りて、ジョナサンと一緒に階段を上った。ジョナサンはドアを開ける前に振り向いて慶浩に向き合えようとした。彼にはそうした目的が何なのかわからないが、何となく何か言いたいことがあるように感じていた。彼は慶浩の顔を見つめたが、頭の中には使えそうな言葉が一つも見つからなかった。

「それで」慶浩の手はポケットの中に入れて、彼とジョナサンの間には一歩の距離しかなかった。「なんだ?」

「わからない」ジョナサンは彼が何を聞いているのかさえもわからなかった。彼は慶浩の様子を真似して手をポケットに入れて、肩をすくめたが、自分の顔の熱さを振り払うことができなかった。

 慶浩は彼に向けて笑った。そして彼は手を伸ばして、人差し指でジョナサンの顔に触れた。「それじゃ、おやすみ」と彼は小声で言った。「いい夢を」最後にこの言葉を言った後、彼は何か言いたげのように瞬きをした。

 ジョナサンは魔法をかけられたように、慶浩が自転車に乗っている姿が視界の範囲から消えるまで、彼はその場に立ち尽くして動けなかった。

 今晩の残り時間はジョナサンにとって嘘のように感じた。しかし彼が灯りを消してベッドに横たわって目を閉じる時、彼の想像の中に生まれて初めて本当の相手が現れた。彼は慶浩の唇、体温と体の重さ、そして指の感触を想像した。

 ジョナサンは顔を枕に埋めた。彼は自分の両親に彼の喘ぎ声を聞かれたくなかった。

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