第9章

 翌日、ジョナサンが劇場のドアの前に立っている時、逃げ出したくて仕方なかった。

 この昼、彼は全ての人を避けて、慶浩と劇団のメンバーが食堂に現れる前に一番隅のテーブルを探して座った。昼食時間に、彼は視線を目の前にあるトレイに固定して、誰とも目線を合わせようとしなかった。彼はわざと食堂の壁に沿って歩き、中央のテーブルからできるだけ遠くに離れた。彼には慶浩もしくは劇団のメンバーが彼を見たのかどうかわからなかった──今日劇団のメンバーたちは一緒のテーブルに座るかどうかすらわからなかった。昨日慶浩とアダムの責め合いを経験した後、まだ一緒のテーブルに座って昼食を食べられるかとジョナサンは強く疑った。

 彼は食堂でハイリーと顔を合わせることもなかった。彼には彼女が依然としてクラスの友達と一緒に座っているのか分からないが、劇団のメンバーと目線を合わせるリスクを冒すまで、人の群れの中で彼女を探す勇気がなかった。彼はただ一人、リュックを背負って、自分のトレイを持って、人の声に満ちた学生食堂の中から消えそうになった。

 彼はずっと一人で、どのグループにも属したことがなかった。しかし、これまでにこんな孤独を感じたことはなかった。

 あと少しで放課後に劇場に行かないと決めそうになった。彼はショーの時間に近づくことを知り、今週は劇団のほうで毎日に練習があるが、彼らはまだ彼を必要としているかどうかわからなかった──もしこのショーはまだ続く気があるのなら。最後、彼は劇場に行くことに決めた。例え彼らは彼がやらかした後に離れてほしいと願ったとしても、せめて彼は自分の責任を果たした。

 しかし今、劇場のドアの前に立ち、ジョナサンは自分がもっと勇気を出さないと、ドアを開けることができないことに気づいた。彼はポケットに差し込んでいる手を拳に握り締め、心の中で十まで数えたが、まだ中に入ることができなかった。彼はアダムが中にいないと思った。でも、もし彼がいたら、ジョナサンのことを見て、どんな反応をするのだろうか?ジョナサンは彼の大切な劇を壊してしまったから、アダムの表情を想像する勇気がなかった。

 それと慶浩。昨日彼にあんなことを言った後、彼と慶浩の間はどうなる?

 そんな思いでジョナサンは思わず大きくため息をついた。彼は頭を振って、その場でぐるっと回った。そんな時、彼は芝生の石畳の道を歩く慶浩の姿を見た。ジョナサンは歯を食いしばって、振り返って劇場のドアと面と向かった。

「ジョナサン?」慶浩の声は彼の後ろから伝わった。「そこに立って、何をしている?」

 慶浩の口調は何事も起きていないようだった。ジョナサンは少し戸惑って振り向いて彼をチラッと見た。慶浩は無表情のまま彼に近づいた。

 ジョナサンは肩をすくめた。「入るべきかどうかわからない」

「うん、そうだな」と慶浩は言った。「例え今日、大統領が暗殺されたとしても、地球は相変わらず回っている、そうだろう?」

「えっ?」

「だから日々は続いていく」慶浩は片手を彼の肩に乗せ、前に強く推した。「劇も続けなければならない。入ろう」

 肩から伝わった触感が確実で、ジョナサンは少し安心した。大統領と劇団のことに何の繋がりがあるのか分からないけど、彼は大人しく慶浩と一緒に劇場に入った。

 パッと見て、劇団は殆ど変わらなかった。全ての物は元の場所に置かれて、全員はここに居る──アンソニーを除いて。でもジョナサンが近づくと、些細な違いを知ることができた。ここに居る全員の表情はジョナサンが向き合えないある事実を示していた。

 慶浩の言う通りだ。全員はアンソニーが戻らないことを知っていた。

 ジョナサンと慶浩はステージに這い登った。ウェスは鉄の椅子に座っているアダムと話し、彼らを見た途端、彼は安堵した笑顔を見せた。

「ジョナサン、会えてうれしいよ」と彼は言った。「これ以上、役者を欠けるわけにはいかない」

「えっと」ジョナサンは少し気まずそうに言った。「うん、ここに居る」

「ハロー、ジョナサン」アダムは椅子から顔を上げて、ジョナサンに言った。

 彼の悲惨な笑顔を見て、ジョナサンは思わず唾をのんだ。彼は必死に自分が視線を逸らすことを阻止したが、最後に彼はアダムの肩に視線を落とした。彼はアダムの表情を見ることができない──空っぽで砕けたような、目の下にクマができ、昨晩に全く寝ていなかったようだ。

「えっと、ハイ、アダム」ジョナサンは恐る恐る言った。「大丈夫?」

「どう思う?」とアダムは聞き返した。

 ジョナサンは唇を噛んで、後ろに下がった。

「それでアダム、何か考えがあるのか?」とウェスは尋ねた。

「役割は変えない」アダムは小声で揺るぎないように言った。

「役割を変える?」ジョナサンは慶浩に振り向いた。

 慶浩は肩をすくめた。「アンソニーが消えた以上、彼の役は他人に任せないと」と彼は言った。

「役割は変えない」アダムはもう一回言った。彼は唇を噛んで、そして深呼吸をした。「俺が台本を変更する」

 ウェスは眉をひそめた。「それは無理だ。アンソニーは主人公の一人、出番が多すぎ──」

「俺と彼の部分を俺の一人芝居にして、告白する方法で、もしくは始まりとエンディングの部分に内容を追加して、もっと抽象的な表現方法で表せる。例えば彼は俺の記憶の中に生きているから、彼の部分は真っ白でもいい──」とアダムは迫るように言い放った。彼は自分の目に指で押しあて、そして真っ直ぐにウェスを見つめた。「どっちでもいい。一日だけ時間を頂戴、台本を変更し終えるから」

「でも……」とウェスは言った。「アダム、わからない」

「ウェス、お願い」とアダムは言った。「役割を変えないで。俺にはそれができない」

「なんてこった、アダム、正気か?」傍のウィルは不満そうに叫んだ。「アンソニーが離れた時はお前の理性まで一緒に連れて帰った?もう何日しか残らないのに、今更台本を変更する?お前は──」

「俺に変更させて、でないと全員やめてしまえ」とアダムは荒い声で彼に言った。「台本は俺の物だ。俺は変更できる。俺は変更する。」

 ウェスは何秒間を考え込んだ。ウィルは傍に立ち、腕を組んで、イライラしながら舌打ちをした。最後、ウェスは頷いた。「一日だけ。アダム、本当にできる?」

「できるだけ頑張るよ」とアダムは呟いて言った。「できるだけ頑張るよ」

 ジョナサンは信じられないように彼らを見つめた。台本を変更する?アダムはどうした?ジョナサンは彼が誰よりも台本の完全性を重視し、劇が時間通りに演出できるかどうかを誰よりも気にするかと思った。でも現在のアダムの決断はジョナサンの予想と真逆だった。こんな風に変更された台本はバラバラになることは誰もが知っていた──バラバラになると言い方は保守的な方だ。主人公が一人減った状態で、元のロジックを保ったまま、怪しくて不条理にならないようにどう変更すればいいのか、ジョナサンには想像できなかった。

「彼は何をしている?」ジョナサンは慶浩に振り向いた。「それは本当に大丈夫?」

「彼は自分が何をしているのか知っている」慶浩は肩をすくめた。「多分」

「でも──」

「ジョナサン」慶浩は彼を一目見た。「この二日間で何か学んだ?」

 ジョナサンは唇を噛んだ。慶浩が言っている意味を知っていた──彼は黙ることを学ぶべきだ。彼は口を閉じて、黙ってそこに立ち、頭痛がしたようにこめかみを強く押しているアダムを見た。ステージでは、時折聞こえた何人かの女の子の囁き声以外に、殆ど他の声が聞こえなかった。

 この日では何の稽古もしてなかった。元々の台本にはもう存在する意味がないので、彼らも稽古する意味がなくなった。だからウェスは早めに全員を帰らせて、明日に全員が出席して、アダムが変更した台本の議論をすると言いつけた。

 ジョナサンと慶浩は一緒に自転車に乗って学校を離れた。校門を離れて数分、彼らの間に誰も喋らなかった。慶浩はただジョナサンと並行して、静かにペダルを踏んでいた。最後、ジョナサンが先に沈黙を破った。

「知ってるよね」彼は小声で言った。「もし僕に我慢が出来なくなったら、そのまま立ち去ればいい」

「何が?」慶浩は眉を上げた。「どうしてそう思った?」

「何をしたのか知っている」とジョナサンは言った。「もし僕に不満があるなら、全然理解できる」

「バカみたいになるな」と慶浩は言った。

 これは彼らがジョナサンの家の前に着く前に話した唯一の会話だった。ジョナサンには何で慶浩が一緒についてきて帰ったのに、何も話さないのかわからなかった。その行動はジョナサンをより困らせたが、慶浩は何も言わないと決めたようだ。彼はただジョナサンが自転車の鍵をかけた時にまた明日と言って、そして離れた。

 正直なところ、そのすべてにジョナサンはハイリーが恋しいという気持ちをより積もらせた。もしかしたら彼と慶浩のことを彼女に教えてもいいという考えが湧き上がった。ハイリーは、女の子がいつもそうであるように、そのような感情がどのように働くのか、彼より知っているに違いない。例え違っても、彼女なら実質的な助けを提供してくれるはず。彼らは何でもいいから、別のことをして気を紛らわす。

 何でハイリーに教えなかったのか?

 ジョナサンは試しに何で最初から慶浩に対する感情をハイリーに隠したのか思い出そうとしたが、彼には何も思い出せなかった。何で彼はこの感情が存在していないようなふりをしたのかわからなかった。まるでそのことを口にすれば誰かに笑われる、もしくは異様な眼差しを向き合うと思い、またはハイリーとの関係が変わってしまって、もしくは──

 もしくは何なのか、彼には本当にわからなかった。

 ジョナサンはそのままハイリーの家に駆け込んで、突然気づいたことを彼女に教えたかった。でも彼はハイリーに追い出されないのかと心配していた。

 この夜、ジョナサンが部屋に戻った後、彼はハイリーの部屋に面した側のカーテンを開いた。もしかしたら時間が早いのか、ハイリーの部屋のカーテンはまだ閉じてなかった。ハイリーはデスクの前に座って、俯いて何かを書いているようだ。彼女の濃い色の長い髪は半分の顔を覆い隠し、それはジョナサンが一番馴染みのある様子だった。彼は唾を一口呑んで、心の中に逃げたいという衝動を無理やり抑えて、彼女のほうに手を振った。

 彼にはハイリーがいつ見かけるのかわからないが、携帯電話で彼女に連絡することをやめることにした──ジョナサンはもうハイリーに電話を切られたくなかった。

 暫くした後、ハイリーは顔を上げて首を動かした。そして彼女はようやくジョナサンの手を振っている動きが見えた。彼女はまず何秒間をポカンとして、それから眉をひそめ、身を乗り出してカーテンを閉めようとした。

 ジョナサンは急いでデスクからスケッチブックを手に取った。彼は映画やミュージックビデオの中でしかそういう行動を見たことがなく、実際にしたことがなかった。しかしそのおかげで、ハイリーは彼と話し合う気になるかもと彼は思った。

 スケッチブックの上に大きな「待って」と書いた。彼はその本を自分の前に掲げ、ハイリーのほうに向けた。彼はびくびくして彼女の反応を待っていた。

 ハイリーは眉をひそめながら彼の本を見つめ、それからジョナサンに向けて「バカじゃないの」という視線を送った。

 ジョナサンはスケッチブックを次のページにめぐって、そしてもう一度彼女に向けた。


 ちょっと話し合えない?


 ハイリーは眉を上げた。彼女は口を尖らせたまま、数秒間をためらった。そして彼女は傍の棚から白紙の山を取り出し、マーカーを掴んで強く何回か書いた。彼女が紙を掲げた時、上には「嫌だ」と書いた。


 ジョナサンはもう一度ページをめぐった。彼はマーカーを取って、「お願い。教えたい秘密がある」と書いた。


 それに対して、ハイリーは白目をむいた。彼女は白紙を裏返し、強く何文字かを書いた。


 興味ない。


 ジョナサンは唇を噛んだ。彼には自分がいつまで続けられるのかわからなかった。自分のイメージのためにも、ハイリーが快く話してくれることを願っていた。もしくは筆談だ。彼は少し考え、最後に彼はスケッチブックに「慶浩と関係がある」と書いた。


 彼はこの言葉がハイリーの興味を持たせたことを知っていた。だって何秒後、彼女が見せた白紙の上には「何?」と書いてあった。


 ジョナサンはホッとした。彼はまたスケッチブックをめぐって、そして「電話?」と書いた。


 ハイリーは白紙をデスクに置いて、そして軽く頷いた。

 ジョナサンはポケットから携帯電話を出して、彼女に電話を掛けた。二つの窓を隔てて、彼はハイリーが携帯電話を手に取り、応答ボタンを押したのを見た。

「何?」ハイリーは向こう側でそう尋ねた。彼女の表情は依然として冷たく見えた。

 ジョナサンは咳払いをした。「うん。昨日君は僕に誠実になれと言った。あれから長く考えて、一体何に対して誠実になるのかと考えた」

「今は思いついたのか?」

「そうであってほしいけど、」とジョナサンは言った。「でもそれは君が聞きたいものなのかわからない」

「話してみて」とハイリーは無表情のままに言った。「慶浩がどうした?」

 ジョナサンは深呼吸をした。「少し言いにくいであることだって知ってるだろ」

 ハイリーは白目をむいた。「早く言え。時間は大切だ、ジョナサン」

「わかった、わかったよ」ジョナサンは唇を噛んだ。彼がハイリーと会話を再開した理由は彼女に真実を伝えようと決めたからだ。ここで身を引くわけにはいかなかった。だから彼は簡潔で明瞭に一言で伝えることを決めた。「僕は慶浩が好きだ」

 窓越しに、電話の向こうのハイリーは数秒間静止していた。彼女はただ瞬きをし、動かずにじっとジョナサンを見つめた。そして、彼女は「おう」という単調な声を出した。

「えっと」とジョナサンは言った。「『おう』?」

 目の前のハイリーは目をこすって、髪を耳の後ろにかけた。「うん、正直に言うと、ジョナサン」と彼女は言った。「意外とは言えない」

「とっくに知っていると思った」とジョナサンは言った。

「当てただけ。でもあなたはずっと二人の間に何もないかのように、死んだふりを続けていた」とハイリーは言った。

「理論上、僕と彼の間には何もない」とジョナサンは言った。「でも君の言ったとおりだ。僕は君に教えるのが怖くて、だから君の前ではそのふりをしていた」

「そうだ」とハイリーはゆっくりと言った。

「僕は慶浩にただの友達として接しているふりをしなければならない。でも僕はただの友達のように振る舞ってはいられなかった」

「知ってる」とハイリーが皮肉っぽく言った。「彼に対してひどい拒絶障害があった。目のある人なら誰でもわかるよ」

「そう、だから──」ジョナサンは後ろに倒れて背もたれにかかった。「そうした意味はどこにあると思った。何で直接に僕は彼が好きだと君に教えられなかった?」

「私がゲイを嫌うことを恐れている?」とハイリー提案して言った。「私はあなたがゲイだと知ったら、あなたと距離を取ると思った?それとも私があなたに何十年も片思いをしていると思って、もし私はあなたがゲイだと知ったら、お互いが後悔するようなことをすると思った?」

「神よ、それは違う、ね?」とジョナサンは泣き喚いた。でも最後に彼は大笑いを出した。「おう、なんてこった。違う──」

 彼はハイリーの口角が少し上がったことを見た。「だから何で最初から教えなかったのか?親友ってそういうものだろう?恋バナを話す?どの男の子が可愛いのか話し合う?それと分かれた時、一緒に彼が卒業できないと呪ってやる?」

 この時、ジョナサンは彼とハイリーの間にもう大丈夫だと知った。彼は自分の口角が上がることを止められず、そして窓越しのハイリーが彼に向けて懐かしい笑顔を見せた時、彼は急に目頭が熱くなるのを感じた。

「君がここに居ることを本当に嬉しかった」とジョナサンは携帯電話に向けて言った。

「教えてくれたことに、私も嬉しかった」とハイリーは答えた。

「ここ数日間、凄く辛かった」とジョナサンは言った。「ここ数日間に色々があった」

「このまま電話で話すつもり?」とハイリーは言った。「電話で私と話す費用はかなり高い」

「そっちに行ってもいい?」とジョナサンは尋ねた。

 ハイリーは頷いた。「二分後に会おう」そして彼女は電話を切った。

 ジョナサンは携帯電話をポケットに戻して立ち上がった。窓越しのハイリーは彼に向けて手を振った。ジョナサンは鼻にツンとするのを感じたが、彼は笑顔を見せた。

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