第4章

 その夜、ジョナサンは遂にアダムの家を出た時、まるで防空壕から逃げ出すような感覚だった。最後にアンソニーと慶浩の間に張り詰めた空気も消えたようで、慶浩は帰る前に冗談気味でアンソニーの肩を押した。しかし、ジョナサンはまだ喉を詰まらせたような息苦しさを感じた。まるでさっきまでアダムの家の空気が何時しか薄くになり、街に戻った途端、ようやく息ができるようになった。

 慶浩とジョナサンは一緒に帰り道に着き、ジョナサンはどんな思いをすればいいのか分からなかった。今晩まではこんな風に慶浩と二人きりでいられるのなら、間違いなく彼の心拍数が上がるはずだった。でも今になってあまり確信が持てなくなった。慶浩との間は相変わらず気まずさが残っているけど、今までとは違う感じになったことを彼は知っていた。

 さっきの喧嘩に近い対話は未だにジョナサンの頭に残って消えなかった。だから歩き始めた数分間、ジョナサンは何も喋らなかった。ただ手をポケットに入れて、地面を眺めているだけだった。

 最初にこの沈黙を破ったのは慶浩だった。

「驚いただろう。うん?」と慶浩が問い掛けた。

 ジョナサンには慶浩の声に込められた笑いは彼を嘲笑うものなのか、それとも彼を心配しているものなのか分からなかった。だから彼は肩をすくめ、はっきりとしない返事をした。

「だから口を閉じてくれって」と慶浩は言った。「見たか?今なら俺の言葉を理解できた?」

「慶浩、あれはどういうことだ?」ジョナサンは横目で慶浩を見た。「君たちはずっとあんな感じなのか?」

「あんな感じって?」

「どういう意味なのか分かってるだろう」

 慶浩はジョナサンを見つめ、眉を上げた。「言ったはずだ。この劇団は君が想像したようなものじゃないって」

「でも理解できない」とジョナサンは言った。「そんな風に争い事になるなら、どうやって協力関係を築いているだろう──」

「それは君が習うべきところだ」と慶浩が話した。「どうやって協力関係を築いている?ただの協力関係で、特別な所なんて何もない」

「でも──」

「彼らのことを好きにならなくても一緒にステージに立てるし、そう驚くことではないだろう?ウィルのことを思い出してみろ」慶浩は白目をむいた。「俺はあいつのことを死ぬほど嫌っているのを、他に説明する必要ないだろう?だけど俺らは四年もの間に協力関係を築いていた。劇団は未だに活動しているんだ」

 ジョナサンは挫けそうに鼻から息を吐き出した。「こんな気分は嫌だ」

「そうだろうな。君は理想主義者だからね。」慶浩はクスッと笑った。「早く大人になれよ、ルーキー。いつか分かるはずだ。この社会は嫌なくらいに現実的だ」

 自分の家に着くまで、ジョナサンは何も言わなかった──何も話したくなかった。

 二人はジョナサンの家の前庭に着いた。ガレージ前の坂に立ち、ジョナサンは自分の部屋の窓を見上げ、中には灯りが付いていなかった。彼は視線を隣の家の二階に送った。ハイリーの部屋のカーテンは閉まっているけど、灯りが付いていた。ハイリーはもう家に帰っただろう。ジョナサンは突然心に穴が空いた感じになり、虚しさに襲われた。今晩は特にハイリーと話したかった。この息苦しい集まりの後、ジョナサンはハイリーの冷たさとほんの笑い声を含む口調、そして彼女の急所を突く批判が恋しかった。

「それじゃあ」ジョナサンは振り返り、まだ後ろに立っていて、両手をポケットに入れている慶浩を見た。彼は手を広げて、「おやすみ、慶浩」と言った。

「ジョナサン」

「はい?」

「誤解しないでくれ」慶浩(チンハオ)は顔を上げた。辺りの薄暗い光のせいか、ジョナサンは慶浩(チンハオ)が彼らしくない、酷く深刻な顔をしていることに非常に驚いた。彼の目尻と口角からいつものチャラそうな感じが消え、その目は真っ直ぐにジョナサンを見つめた。その様子を見て、ジョナサンの心拍数が上がっていった。「俺らの間は家族のようなもの、わかるか?君は家族と喧嘩したり、また仲直りしたりして、どんな些細なことでも喧嘩になるだろう。だからと言って、彼らを嫌いなわけじゃない」

「分かった」ジョナサンは唾を飲み込んだ。何でこんな話をしてくれたのかはわからないし、どんな返事を期待しているのかも分からない。でも慶浩の顔が非常に真剣だったので、ジョナサンも真面目に向き合わなければならなかった。「分かったよ」と彼はもう一度答えた。

「俺の言葉を忘れないでよ」慶浩の口角が上がった。「黙ってついて来い。君なら大丈夫だ」彼は肩をすくめ、一歩後ずさりした。「おやすみ、ジョナサン」そして彼は振り返って街に出た。

 ジョナサンは慶浩の姿が曲がり角に消えていくのを見てから、家のドアを開けて中に入った。

 彼の両親はもう戻ってきたが、どうやら二人が家に着く前に、ハイリーはもう離れた。二人はハイリーのことについて何も聞いてこなかったから、ジョナサンはただ友達の家に行ったとしか教えなかった。自分の部屋に戻ると、彼のノートパソコンも歴史の教科書、ノートも彼が離れた時と同じように全部床に残ったままだった。ジョナサンはパソコンをスリープモードから復帰させたら、ハイリーが既にファイルを整理し終えて、デスクトップに残ってくれたことを見つけた。ジョナサンは宿題を印刷してバッグにしまった。

 彼のベッドはハイリーが離れた時のまま、布団が隅に追いやられ、枕が壁にもたれた。

 ジョナサンは今すぐにでもハイリーに電話をかけたいけど、でもこの時間帯だとハイリーが話してくれるかどうか分からなかった。

 明日学校で彼女と会ってからでもいいかもしれない。その時まで、もしかしたら少し楽になったのかもしれない。




 翌朝、ハイリーとはいつも通りに家の前の歩道で合流してから、一緒に自転車に乗って登校した。

「宿題持ってきたよね?」自分の自転車に乗る前にハイリーがそう問いかけた。

「もちろん」ジョナサンはリュックのストラップを軽く叩いた。「あと、ありがとうね。宿題を手伝ってくれてありがとう」

「別に」とハイリーは言った。「大したことじゃないよ」

 ジョナサンが話を続ける前に、ハイリーはもう出発した。ジョナサンは瞬きをし、急いでハイリーの後についていった。

 昼食の時間、ジョナサンとハイリーは相変わらずロッカーの前で待ち合わせをしてから、一緒に学生食堂へ向かった。二人の歴史の宿題は無事に提出できて、ジョナサンは心の中でハイリーに昼食を奢るようにと気を配っていた。ジョナサンは自分の代わりに宿題を終わらせてくれたハイリーに、この方法以外でどうやってお礼をすればいいのか分からなかった。

 彼らはトレイを持って、列に並んで昼食を受け取った。いつもの席に向けて歩いて行く時に、後ろの方から彼を呼ぶ声が聞こえた。それは奇妙な感覚だった。まるで自分が声を聴く前に、もう既に振り返るつもりだった。振り返れば、劇団のメンバーたちが彼らのテーブルに囲んでいた。慶浩の手は頭上まで高く伸ばしていた。

「ヘイ!ジョナサン!」と慶浩が呼んだ。「こっちに来て一緒に座ろう!」

「ええと、でも──」とジョナサンは言ったが、彼の声の音量はハイリーしか聞こえなかった。

 彼とハイリーはトレイの縁を掴んで、通路に立っていた。辺りに行き来する学生が沢山いて、ジョナサンには今どうすればいいのか分からなかった。

 慶浩は彼とハイリーが一緒にいることを見落とすはずもないけど、明らかにハイリーを一緒に入れたくないようだった。ジョナサンはハイリーが自分と一緒に行くほうがいいと思っていたけど、何か両立できる方法はないかと考えつく前に、ハイリーは自分で解決策を見つけたようだった。

「行って、ジョナサン」ハイリーは彼に歪な微笑みを見せた。「あなたを呼んでいるだろう?あまり待たせないほうがいい」

「でも、それは……」

「行ってよ」ハイリーは彼に目配せをし、眉を上げた。「あなたがいないと生きていけないほど弱くないわ」

「ハイリー」

 ジョナサンはハイリーが去っていくのを止めたかった。でもハイリーはもう振り返って食堂の向こう側に向けて歩いて行く。あるテーブルに座った子達がハイリーに手を振り、騒ぎ立てながら彼女のために一つの席を開けた。彼女がその子達に何か話し、それから高らかな笑い声が伝わってきた。彼女の後ろ姿を見て、急に心がちょっと落ち着けなくなった。誰かが彼の腕に肩をぶつかけるまでに、ジョナサンは自分がどれだけ邪魔なのかを意識できなかった。彼は急いで劇団のメンバーたちがいるテーブルへ移動した。

 昨晩アダムの家にいた人全員がここに居る。慶浩はジョナサンのために、自分の隣に席を取っておいた。そのことに気付いたジョナサンは眉をひそめた。明らかに、慶浩はハイリーが自分と共にここに来てほしくないようだった。それに、慶浩はこのような手配に問題があると思ったことがないようだった。彼は椅子を軽く叩き、「座って、ジョナサン」と言った。「今日放課後に練習があるから、家に帰らないでね」

「分かったよ」ジョナサンは自棄になって答えた。トレイを慶浩の隣まで滑らせ、素直に座った。

「ハロー、ジョナサン。彼女さんは?」とアダムが尋ねた。

 ジョナサンは何秒もかけて、ようやくアダムが自分に声をかけていることに気付いた。彼は瞬きをして、どう答えればいいのか分からなかった。

「ワオ」とチャドが野次馬のようにほざいていた。「彼女だ。劇団の中で初めての彼女持ちだ」その言葉にスーリーは大笑いをした。

「えーと、彼女は──」ジョナサンは振り返って彼女の姿を探そうとしたが、ハイリーは彼の視界内にいなかった。「彼女は他の友達と座っている。それと、僕の彼女じゃない」とジョナサンは答えた。

「ふーん」アダムは顎を上げて慶浩に向けた。「どうやら誰かさんの情報は間違っているようだ」

 それに対して、慶浩はただふーんと答えた。「悪いけど、一度も深く知ろうと思ったことがないんだ」

「悪いけど」ジョナサンは彼に視線を送った。「彼女のこともよく知らないくせに」

「どうでもいい」慶浩はフライドポテトを掴んで口に入れた。「知ろうなんて考えてなかった」

「言っとくけど、彼女は僕の友人だ」ジョナサンはかっとなって答えた。

「それはどうも。友人であることはもう十分に認識した」何故か知らないけど、ジョナサンがかっとなるのを面白く思っているように、慶浩はくすくすと笑い出した。「俺と出掛けた後に、部屋に残せるほど仲のいいことは分かっている」

「なっ?」ジョナサンは自分の顔が過熱した電球のように熱くなるのを感じた。「どうやってそれを──」

「俺には目がある」慶浩は見下すように鼻で笑った。「俺と出掛けた時に玄関の鍵も閉めてないし、部屋の灯りだってついていた。他に誰がいる?別の女の子が君の部屋に入るとは思わない」

 その言葉でジョナサンは恥ずかしくてテーブルの下に隠れたいと同時に、彼を殴りたくてしょうがなかった。反論しようにも、どこから始めればいいのか分からなかった。本当のことを言うと、他の女の子を部屋に入れるつもりは毛頭ない。ハイリーは「ただの女の子」じゃなくて、「あの女の子」だ。彼女は彼の生活の一部で、誰と比べられるような人ではない。

「彼女は僕の兄弟みたいなもんだよ」とジョナサンは言った。「僕らは隣人で、小さい頃からお互いの家を行き来した」

 アダムはこの言葉に反応して微笑んだ。「うん、慶浩。次からことの真実を確認してからものを申してくれ」

 アダムはふーんとこぼし、笑っているように聞こえた。慶浩は白目をむき、昼食を食べ続けた。

 午後の授業で、ジョナサンはハイリーと会わない。最後の授業が終わった後、ジョナサンは廊下を通り抜け、いつも通りにロッカーの前でハイリーの姿が見えるのを期待していた。でもハイリーのロッカーの前には別の生徒が立っていて、ハイリーの姿は相変わらず見てなかった。多分彼が放課後に劇団の練習がある事を知ったから、彼女が先に帰った。それでも、ジョナサンには何かが違う気がした。こんな感じは嫌だ。多分彼はハイリー以外の生徒と長いこと一緒に居るのを慣れていないかもしれない。

 ジョナサンは教室棟を通り抜け、学校の劇場に向かった。

 劇場の扉を開けると、ステージの上には一人がいた。ステージの真上に灯りが二個しかつかず、劇場全体が暗くてオペラ座の怪人のシーンのように見えた。赤い絨毯を沿って前へ行くと、半分まで来た時にようやくステージの上にいるのは演技指導担当者のウェスであることが分かった。ウェスは折り畳み椅子を一つずつ移動し、前のような半円形に並び替えた。瘦せた体のお陰で学生のように見えて、ジョナサンにはウェスがどれだけ若そうに見えたのか分かった。

 多分足音が聞こえたのか、ウェスは腰を上げ、手足を伸ばしてから振り返った。ジョナサンを見た途端、楽しそうに手を伸ばし、体操をやっているように振舞っていた。

「ハロー、ウェス」ジョナサンは早足でステージの前まで来た。

「こんにちは、ジョナサン」とウェスが話した。「ほら、これこそ俺がルーキーを気に入っている理由だ。彼らは何時でも情熱に溢れている」

 その言葉にジョナサンはつい微笑んでしまった。実のところを言うと、彼は情熱に溢れている訳ではなく、ただハイリーがいないから、劇場以外に行く処がないのだ。だが、彼はこのことをウェスに教えないことにした。

「上がって」ウェスが手を伸ばした。ジョナサンは少し躊躇してから、彼の手を掴んでステージに上がった。ジョナサンはステージ上に並んでいる一つの椅子に座って、数分後にウェスが台本を持って彼の傍までやって来た。

「あと一週間とちょっとで本番だね」とウェスは言った。「君がいたお陰で本当に助かったよ。慶浩からこの話は聞いたのか?」

 ジョナサンは頷いた。「アダムが台本を変えたくないって言ってました。ですが、少し質問していいですか?」

「もちろん」

「ベンのセリフ──僕のセリフは三行しかありません。直接セリフを削除するのも、もしくはそのセリフを別のキャラに任せるのも、新しい役者を探すよりも楽じゃないでしょうか?」

 それに対して、ウェスは目配せをしてから微笑んだ。「アダムはアーティストだ。アーティストにはそれなりの意地がある」

 ジョナサンは少し考え込んだ。

「俺たちのステージを見たことがあるだろう?」とウェスが尋ねた。

「はい、二回も」

「なら分かるはずだ。アダムは台本を書けるだけでなく、演技もできる」とウェスが話した。「彼は生まれた時から劇場に向いているんだよ。学校の劇団でステージを披露するだけでなく、中学校の時にJoseph Gravesが主催した少年劇団にも参加したことがあった」

「なら何で直接役者にならないのですか?」ジョナサンが尋ねた。「大学に通う必要はないでしょうね」

「アダムは役者になると同時に、劇作家にもなれるように自分を訓練している」とウェスは言った。そして彼は狡猾にジョナサンに向けてウィンクをした。「俺がそう言ったのをアダムに教えないでくれ。でもたまに彼が少し強欲なところがあると思うのだ。彼にはパフォーマンスの素質があり、創作の才能もあって、その上非常にかっこいい顔をしている。だけど彼はチャンスを他人に譲る気がないんだよ。このことを知ってる?」

 ジョナサンは頭の中でアダムの口振りと表情を思い浮かべた。何となくウェスの話を理解できた。特定な面から言うと、アダムは確かにこの方面で神から寵愛を授かった。彼の動きやいつもの喋り方、彼の目からこぼれ落ちてくる中身のない感情のすべてが、芸術家そのものだった。

「アダムの創作能力は非常に高い。まだ鍛錬すべきところもあるけど、彼はこの領域においては非常に優秀な人材だ」とウェスが言葉を続けた。「君が入学する前に、俺たちの劇団も何回かサンフランシスコ大学、南カリフォルニア大学とカリフォルニア大学ロサンゼルス校演劇学部が共同開催した試合に参加したことがある。四回のショーの中で、アダムは三回も台本創作の最優秀賞を取った。残りの一回で、彼の作品は審査員特別賞を取った」

「ワオ」ジョナサンにはこれ以外にどんな反応すればいいのか分からなかった。アダムがすごいのを知っていた。でないと、慶浩が彼の言うことを聞くはずがなかった。でもまさかこんなにもいい成績を持っているとは思いついてなかった。

 ジョナサンは頭の中でアダムが書いたこの劇の台本を思い返した。アダムはこの作品を通して、色々なものを伝えようとしたことが分かった。同性愛に関する議題や種族の差別問題以外にも、他の何かを伝えようとした。多くのセリフとキャラの出現には特別な意味があった。だけど彼自身はそれを理解できるかどうかを分からなかった。

 この劇には二人の主人公がある。一人はアダムが演じ、もう一人はアンソニーが演じる。アンソニーが演じる黒人男性の主人公は重苦しくて静かなキャラだ。彼のキャラは大量の動き、ステージでの移動と光影で表現する必要がある。感情をこもってセリフを読むより、アンソニーを演じるには「表現力」が求められる。

 何でアダムはアンソニーにこのキャラを演じさせるのか、ジョナサンには分からない。ジョナサンから見ると、アンソニーは最も才能がある役者の一人ではないようだ。

「ではアンソニーは?」とジョナサンは尋ねた。「アダムは……彼の言葉を気にしているようです」

 アダムは多分この劇団の中で一番影響力のある人物のはずであり、彼もそうしているように振舞っていた。しかし、それが事実ではないことを、ジョナサンには分かっていた──例え彼の話に耳を傾ける機会があまりないけど、アンソニーは無視できない存在だった。

 昨晩の争いに近い対話の中、アンソニーの意見は対話の進行を左右していた。慶浩は鋭くて賢い。アンソニーは彼と口喧嘩するのを向いていないけど、明らかにアダムはアンソニーの味方についている。この劇団の中で、アンソニーがどんな役を演じていたのも、チームの中で最もセンスを持っている人が彼の味方になった理由も、ジョナサンには知らなかった。

「君はまだ彼のことをよく知らない」とウェスは言った。「アンソニーは分かりやすい子ではない。彼はアダムのように生まれつきで演劇に向いていたわけではなく、だけど劇団にとって重要な存在だ。それに、このことは俺が決められるようなことじゃない。あなたが彼と仲良くなって、どんな魅力があるのか自分で確かめてみるといい」

「センスと言ったら」とジョナサンは言った。一秒くらい迷って、ジョナサンは聞くことにした。「慶浩は?彼はセンスがありますか?」

 ウェスが笑い出した。「もちろん。彼の反応速度が高い上、凄い記憶力を持っている。俺が見てきた中で、かなりの表現力を持っている役者の一人だ。だけど彼はアダムと違うタイプの人間だ。あの二人、ある程度似ているかもね。ただアダムがすべてのことをやり遂げたい態度に反して、慶浩は最初からお芝居しかやり遂げる気がない。お芝居は彼の長所、彼はそれを一番よく理解している。だから全てのエネルギーをお芝居に注いでいる」

 ジョナサンは考え込んで、ゆっくりと頷いた。

「どうしたのか?」とウェスは言った。「何かされたのか?」

「いえ、そうじゃないですけど」とジョナサンが答えた。

 ただ彼らの関係性に戸惑っていた。ああいう敵ではないけど、完全な友好関係でもない関係性。慶浩が言ったように、彼らは家族のような存在だ。彼とハイリーも家族のようなものだけど、彼らとはまた違った感じがした。でも彼はその関係性について、根に持っているのをやめることにした。

「彼らはただ完璧を求めているよ。特にアダムが」とウェスが言いながら、手を伸ばしてジョナサンの肩を軽く叩いた。「彼らは全員素晴らしい子でいい仲間だ。いつか分かるはずだ。ウィルだって間違いなくいい役者だ」

「でもあいつはクソ野郎です」とジョナサンは言った。そして、自分の失言に気づき、息を吞んだ。

 ウェスと一緒にいる雰囲気が楽すぎて、ウェスは指導者であることを完全に忘れた。彼の表情にウェスは大笑いをした。

「大丈夫だよ、ジョナサン」とウェスは言った。「信頼してくれてありがとう」

 劇場の扉が開かれ、何人か入口から湧いてきた。

「何がそんなに面白い?」慶浩は大股に通路を歩いて、ステージにいるジョナサンを見かけた瞬間に口笛を吹いた。「何、行く処がないのか?ジョナサン?それは残念だ。外の天気があんなにいいのに」彼はジョナサンに向けて、目を逸らさずにはいられない微笑みを見せた。

 ジョナサンは人混みに視線を送り、意外なことにウィルが中にいるのを見つけた。彼は列の最後にいて、何人の女の子の後方に立っていた。劇場の扉は再び開き、アダムとアンソニーが絨毯の末端に踏んで、ウェスは椅子から立ち上がった。

「さぁ、みんな」両腕を上げて、手を叩いた。「直接始めようか?」

「もちろん、ボス」慶浩はあっさりとステージに上がり、リュックをジョナサンの足元に投げ捨てた。ジョナサンは彼に向けて笑顔を送ろうとしたが、慶浩はただ眉を上げ、「何?」と聞くばかりの顔を見せた。居ても立っても居られなくなったジョナサンは振り返って、リュックから台本を取り出し、何事もないように振舞っていた。

 ウェスは皆に第二幕最初のシーンから始めるように促した。椅子で囲んだ半円形の中に立ち、対話の中に動きを加え、ついでにリハーサルする時の舞台移動もシミュレーションした。最初のシーンはジョナサンの出番がなく、台本のセリフを確認しながら、ただ座ってお芝居を鑑賞するしかやることがなかった。この幕の最終シーンまではお芝居の進行がかなり順調だった。

 最終のシーンに登場するメイン役者はウィルとアダムだ。ある原因によって、アダムが演じるキャラはここでウィルが演じるキャラとある協定を結ぶ。ウィルが自分のセリフを言い終えた後、残る部分はアダムのモノローグだ。そのモノローグはまるでウィルと会話しているようで、また自分に言い聞かせているようだ。

「そうしなければならない、例えそうしたくなくとも」とアダムは言った。「これはある種の革命──偉大なる目標のために」彼は視線を観客席に向け、存在するはずもない何かを見つめた。

「そこでライトを暗くして」とウェスは言った。「そしてこの幕が終わった。よくできた、アダム。結構好きだよ」

 アダムはウェスに向けて微笑んで、まるで「分かっている」と言わんばかりの顔だった。

「えっと、少しいいですか」ジョナサンは手を挙げた。

 アダムとウェスは振り返ってジョナサンを見つめた。「何、ジョナサン?」とアダムが問いかけた。「何か問題でも?」

「このセリフ」ジョナサンは二人に目配せをし、台本を二人の前に広げた。

「セリフがどうしたのか?」とウェスが尋ねた。

「思ったけど……」とジョナサンは言った。「もしかしたら、ここを少し変更できるかもしれない」

「何かいい案でもあると思てんのか?」と傍にいるウィルは言った。

 ジョナサンはウィルの挑発的な口振りを無視するようにと自分に言い聞かせ、ウェスをじっと見た。前回のセリフ合わせの時、ジョナサンはまだこのシーンに違和感を感じなかった。でも実際に役者たちがステージに立ち、動きや立ち位置を加えた今、急に何処かおかしい気がした。この数秒は少し微妙ですっきりしない感覚だった。どのようにこの考えを表わせばいいのか分からず、頭の中で相応しい言葉を探すようにもがいていた。

「本気で言ってるのか?」とアダムが問いかけた。

「僕はただ自分の考えを言って、話し合いたいと思っているだけ」とジョナサンは言った。

「遅すぎたとは思わない?」アダムの口角が少し歪んだ。「いいか、君を入れたのは、この台本をこれ以上に変更したくないと思ったからだ。もう台本を変更する余裕がないんだ」

「ここの変更はそんなに難しくない」とジョナサンがアドバイスした。「一つのセリフだけだから、後にくる物語に影響はない」

 アダムは瞬きをしてから顔を逸らし、誰かに視線を送ろうとした。彼が探している相手は多分アンソニーだとジョナサンは思ったが、アンソニーはその時ジョナサンの視線範囲内にいなかった。

 慶浩は隣で咳払いをした。「ジョナサン、君がアドバイスする必要はないってわかってる?」と慶浩は言った。「君はただ手伝いに来た」

「今、手伝おうとした」とジョナサンが答えた。

 ウェスの話によると、アダムは完璧を追求するアーティストだから、参考すべき如何なる意見でも拒否しないよね?

「まったくだ」慶浩は白目をむいた。「神に免じて、この幕を終わらせよう、ね?」

「でもこの劇をもっと完璧に出来るように期待しているのだろう?」とジョナサンが主張した。「このセリフはいらないと思う。演劇のセリフはもっとシンプルではっきりしている必要があると思っている」

「うん、ジョナサンの言うことにも一理ある」ウェスは考えながら言った。「もしかしたら、ここを変更してもいいかも」

「このセリフをシンプルに『取引成立だ』に変えるか、もしくはただ頷くことに変えるのもいいと思う」ジョナサンは一語一句、ゆっくりと話した。「そこまで言う必要はない、特にこのシーンの最後に」

「悪いけど、そのいらないセリフを書いた脚本家はここに居る」とアダムは言った。「このセリフを書いたのは、そこに意味があるということだ」

 ウィルはふーんとして、皮肉な笑顔を見せた。「どうやら我らのルーキーはそう思わない」

「ごめん、アダム」とジョナサンは言った。「でも別の可能性がないか考えてみよう。ウェスもそう言っているし」

「お前はアシスタントディレクターにでもなったのか?」ウィルは嘲笑うように言った。「いつから昇格した?僕の知らない間に何があった?」

「黙れ、ウィル」と慶浩が罵った。「お前はただ世の中が争いに満ちてほしかっただけだ」

「そこまでだ」ウェスは両手を上げた。「これはコミュニケーションの一環、違うか?相手に悪意をぶつける必要がない。アダム、俺と横に行って、この部分について話し合おう?」

 今のアダムの表情にどんな意味があるのか、ジョナサンには分からなかった。ジョナサンに向けられた目はかなり複雑で、どういう意味が含まれているのかを解読できなかった。あの目は怒っているようで、面白がっているようだった。ジョナサンはアダムがウェスに連れ込まれる前に目を逸らした。その動きで、アンソニーと向き合うようになり、その様子に心臓がドキッとした。アンソニーはジョナサンを睨んでいた。彼の表情はアダム程複雑なわけではなく、ウィルのように挑発的でもないが──それは単なる怒り、もしくは嫌悪を表すものだった。

 ジョナサンは慶浩に視線を送った。

「頭おかしいのか?」と慶浩が問いかけた。「黙って、と言ったはずだ。どうなっているんだ?」

 ジョナサンが答える前に、ウィルが言葉を発した。

「自分がプロだと思っているのか?」ウィルが嘲笑うように言った。「演劇に詳しいのはお前だけで、他の全員が馬鹿ってこと?」

「黙れ、ウィル。お前には関係ない」と慶浩は言った。

「お前にも関係ない」とウィルは言った。「何?全員自分が一番凄いで、皆が皆この台本にアドバイスをして、台本を好きなように変えたいわけ?じゃ何で全員まとめて脚本家にならない?」

「もういいだろう?」ソニアという女の子が割って入った。「無意味な争いことをやめてもいいかな?今ウェスとアダムが話し合っているから、何で結果が出るまで待たないの?」

「これは台本だけについての問題じゃない。わかるか?」とウィルは言った。「これは態度の問題だ」

「態度?」慶浩が鼻で笑った。「態度の話をしているのか?高貴なるウィル、何なら態度というものを教えてもらおうか」

 ウィルは声のトーンを落とした。「またこんな口振りで話すつもりなら──」

「俺はこの手で二人まとめて殴り倒す」アンソニーの低い声が横から聞こえてきた。ジョナサンはびっくりして振り返ると、アンソニーが真っ直ぐに彼らを睨んでいた。

「ったく、アンソニー」とウィルは言った。

「誰も責めるつもりはない、わかったか?」とアンソニーは言った。「これはこの劇団の目的ではない、クソ野郎共。俺が言うまでもないだろう?」

「汚い言葉を使う必要はないよ、アンソニー」慶浩は両手を上げた。「今黙る」

 ジョナサンによって引き起こした言い争いは終わった。ジョナサンは一安心して、ようやく息ができるようになった。彼が振り返り、アダムとウェスの話し合いはまだ続いていた。アダムは一つの手を肘に当てて、もう一つの手は顎に当てて、目を逸らさずに台本を見ていた。彼とウェスの声はどっちも小さい故、ジョナサンには話している内容が聞こえなかった。

 最後にウェスはアダムの肩を叩いて、励ますように微笑んだ。アダムは頷き、口の形から見れば「はい」と言ったけど、アダムの顔がほっとした表情と言えるかどうかはジョナサンには分からなかった。

 ウェスは振り返り、メンバーたちに対して、「さぁ、みんな。俺とアダムはジョナサンの意見に従って、こっちのセリフを『取引成立だ』に変えるつもりだ。そうだよね、アダム?」

「はい」アダムの手は相変わらず肘に当てていた。ジョナサンは恐る恐る彼の顔を観察し、だけどアダムの顔に笑っているように笑っていない表情を浮かべていた。

 ウェスは皆に三分の休憩を与え、それから第三幕の練習を続けるとした。周囲の子供達がそれぞれステージにある席に座った時に、ジョナサンは慶浩が小声で、「最高だな」とこぼしたのを聞こえた。声が小さくとも、直接ジョナサンに言っているわけでもないが、まるで一発殴られたような感覚だった。

 それから、ジョナサンはアダムが自分の前に立っていることに気づいた。アダムは軽く目を細めて、じっとジョナサンを見つめ、観察を行った。

「えっと、アダム。僕は──」ジョナサンは固唾を吞んだ。

「それなりの腕前があるように見えたが、それはどうかな?」とアダムは言った。

 ジョナサンは彼の言葉にどんな意味があるのか分からなかった。だけどジョナサンが答える前に、アダムは彼の傍を素通りしてステージの向こう側に行ってしまった。

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