第3章

「それで、リハーサルはどうだった?」ハイリーが尋ねた。「みんなの足を引っ張った?」

 ハイリーがジョナサンの部屋のベッドに横たわり、いつものようにベッドの端にあるボードに足をかけていた。ハイリーの髪は頭の上で広がり、ジョナサンの枕を覆っていた。ジョナサンはベッドの足元の床に座り、膝のそばに数冊の本を積み上げ、目の前にはノートパソコンと数枚のノート用紙がある。ハイリーはノートを手にしているが、この時点ではおそらく走り書きのノートをひとまず無視することにして、ジョナサンに視線を向けた。

 ジョナサンの入団決定を聞いて、毎週火曜の夜、歴史の宿題についての話し合いは水曜夜に変更された。ジョナサンはハイリーがそのことについて苦言を呈さなかったことに感謝したが、彼女も実は何も文句はなかった――ジョナサンは一週間、彼女のランチをおごらなければならなくなったからだ。

 毎回ハイリーがジョナサンの家に来るとき、今そうしているよう、まるで自分の家にいるようにジョナサンのベッドに横たわる。これは二人が小学校に上がる前に身につけた習慣である。小さい頃はジョナサンが彼女と一緒にベッドに座って、二人でボートに乗っているよう、まるでピーター・パンの仲間たちのように冒険の準備をしているような印象をいつもジョナサンに与えていた。二人が大きくなると、ジョナサンは自分のベッドを彼女に譲った。ハイリーが自然とベッドを丸ごと譲り受けた――これも彼らの間における暗黙の了解の一つだ。

 ジョナサンがノートパソコンのディスプレイから目を離すと、ちょうどハイリーと目が合った。彼の脳裏に浮かんでいるのは先ほどウェブサイトで見た「レーガン大統領」と「ギッパーのために一勝するんだWin just one for the Gipper!」という言葉だった。ジョナサンは瞬きをしながら、「え、何?」と訊いた。

 ハイリーがぎょろりとした。「リハーサルはどうだった、劇団に人たちはどう、って聞いたのよ」

「うん、そうだね。みんないい人だし、劇団も最高だった――」ジョナサンの頭の中はレーガン大統領の生涯から昨夜の劇団のリハーサルにシフトし、頭の中で歯車がガタつく音が聞こえてきそうだった。「劇団の顧問先生はとてもエネルギッシュなんだ。素晴らしい公演になると思うよ」

 実際、「エネルギッシュ」という言葉はウェスに対してまだ控えめな表現だ。なぜなら、彼はただじっと座っていることも、その場でずっと立っていることもできないからだ。一人一人が順番にセリフを読み上げているとき、ウェスはまるで獲物を狙うハンターのように、試すような視線で団員を見つめ、両足を前後に踏み出し、腕はセリフの雰囲気に合わせて前後左右に振った。誰かが十分な感情を込めてセリフを読み上げると、ウェスはその人を指さし、興奮気味に頷きながら「そう、これだ!もっとやれ、ベイベー!」と絶賛する。

 ジョナサンのような経験の浅い新人が棒読みでセリフを読み上げると、ウェスはいっそ手本として自ら読み上げるセリフを聞かせた。ジョナサンは、ウェスの表現力豊かな演技力にすっかり圧倒され、最後には「顧問であるウェスが舞台に参加できないのは本当に残念だ」と思わずにはいられなかった。

 そしてウェスは、ジョナサンの質問を止めなかった。

 ジョナサンは好奇心旺盛な性格なので、劇団のみんなとセリフの練習をしているとき、物語の展開の速さに追いつけないと感じる度に質問をした。ジョナサンは物語のひねりや象徴を全て理解したかったからだ。アダムが要求したように、各部品の位置とその存在目的を理解したかった。ウェスは辛抱強くジョナサンに対応したが、ほとんどの質問にはアダムが答えてくれた。

 脚本はアダムが書いたから、当然物語に関する質問にはアダムが答えるべきだろう。

「うん、おめでとう」ハイリーがジョナサンに微笑んだ。「本当に気に入ったみたいね」

「みんな最高だよ」ジョナサンは認めた。

 練習が終わってみんなが家に帰るまで、ジョナサンに対するアンソニーの態度は冷たいままだったけれど、ジョナサンは昨日がいい経験になったと感じていた。彼はアンソニーがなぜ自分を好きじゃないように見えるのかわからなかった。ウィルも初めて会った時から皮肉ばかりを言っていた。だけどアダムは自分に対してまだフレンドリーと言えて、そして慶浩もそこにいた。だから、そうだな。ジョナサンは昨日のリハーサル、自己評価はB+にしようと思った。

「みんな確かにすごいよ」ハイリーの笑顔が広がり、ジョナサンにおどけた顔をした。「でも、歴史の宿題を時間内に終わらせなきゃね。何分間ディスプレイを見つめてた?」

 ジョナサンはディスプレイに視線を戻した。レーガン大統領のウィキペディアのページを二十分以上見ていたが、まだ俳優時代のレーガンはギッパーを演じたという内容までしか見ていなかった。

「うーん、そうだね」ジョナサンは曖昧な返事をした。

「ぼーっとしないで、オッケー?」ハイリーが言った。「情報を探しているようには見えないし、むしろ白昼夢を見ているように見えるわ」

 ジョナサンはそれに反論することができなかった。実際、彼の頭の中は昨夜のリハーサルを参加した後の出来事でまだ揺れ動いていた。

 ウェスが「今日はここまで」と告げると、アンソニーとアダムは荷物をまとめて劇場を後にした。ジョナサンとすれ違うとき、何人かの女の子が挨拶をしてきた。どの子がソニアでどの子がレイチェルなのかはわからなかったが、少なくとも色黒の女の子がハリエットであることは覚えていた。

「いいじゃん、ジョナサン」慶浩が背後から言った。「あの子ら、俺の時より早く君に良くしてくれてるじゃん」

「驚くことじゃないよ」ジョナサンは慶浩のからかうような口調を真似て答えた。

 慶浩は冗談半分に肩を押してやった。「クソ新人が」ジョナサンはどう答えていいのかわからなかったが、慶浩はあまり悩む時間を与えてくれなかった。「それで、最初のリハーサルだけど。気分はどうだ?ついていけていそうか? 脳はまだ回っているか?」慶浩は自分のこめかみに指差して円を描き、目を細めて微笑みを浮かべた。

「あなたのおかげで、順調だよ」ジョナサンが答えた。冗談っぽく言うつもりだったのに、なぜか慶浩の過大な自信を満足させる言葉として出てきてしまった。ジョナサンはどうしようもなく自分自身に首を横に振った。

 慶浩は大満足でジョナサンの肩をポンポンと叩いた。「君ならもっとうまくなれるよ。もっと俺たちと一緒にいてくれ。それが暗黙の了解を共有する方法なんだ」彼はジョナサンの耳元に寄り添い、こうささやいた。「そうじゃなかったら、俺は何のために多くの時間を費やし、彼らとだらだら過ごしていると思った?」

「え?」

 ジョナサンは信じられない思いで慶浩の顔を見ようとした。しかし、慶浩はまだ笑っていたので、ジョナサンはその言葉を冗談として受け止めることにした。もう一つの理由は、ちょうどその時、後ろからウィルがリュックを掴んでやってきていたからだ。スーリーは彼と一緒に歩いた。ジョナサンを追い越すと、スーリーは大きな手で彼の肩を叩いた。

「ようこそ、ジョナサン」スーリーは心からの笑みを浮かべた。

「ああ、歓迎するよ」ウィルはそう言った。「おめでとう。アンソニーの奴は、あまり君をよく思っていないようだな、新人」

「俺たちから離れろよ、ウィル」慶浩が言った。「ジョナサンが自分より早くセリフを覚えていることに嫉妬しているだけだろ。お前の記憶力は悲惨だからな……」

「もう一言でも言ったら、首をへし折るぞ」ウィルは言った。

 慶浩の目を見て、スーリーがウィルの肩を掴むのが間に合わなかったり、ウェスがこの時点で二人の会話に介入してこなかったりしたら、首をへし折られたのは絶対慶浩ではなかっただろうとジョナサンは確信した。

「ヘイ!ヘイ!」ウェスは自分のリュックを肩にかけ、肩ひもは鋭い肩甲骨の上にゆるくぶら下げている。手には台本と水筒を持ち、頭には野球帽を被っていた。その外見から、ウェスは自分たちよりそんなに年上に見えなかった。「どうしたんだ?」

「ウィルはジョナサンに挨拶に来ただけだよ」慶浩の声が歯の間から出た。

「そうそう」ウィルも同意した。「挨拶だよ」ウィルはジョナサンに向き直った。 「ようこそ、俺たちのチームへ」

 なぜかわからなかったが、ウィルのこの言葉にジョナサンを不快にさせた。今でも思い出してみると、ウィルの言葉には明らかな敵意が込められたことが感じられる。

 ウィルがなぜ自分を嫌っているのかわからない――彼とはほとんど交流することはなかった。何の理由で自分を嫌っているのだろうか?

 その後数分間、ジョナサンはできるだけ歴史の宿題に集中した。ウェブサイトにある文字を目で追って黙読しながら、そのテキストに対して無理矢理自分を思考させるようにした。

 ジョナサンの思考は、玄関チャイムに中断された。最初、それは家のチャイムだと気づかなかったが、一秒経った後、彼は突然夢から覚めたように地面から跳びはね、危うくノートパソコンを蹴り倒すところだった。

「それ、火災警報じゃないからね、ジョナサン」とハイリーがからかうように言った。「そんなに急がなくても大丈夫よ」

 ジョナサンの両親は今夜、父の会社のパーティに出席しているから、この時間、下の階には誰もいないのだ。ジョナサンは階段手前の電気スイッチを入れた後、階段を降り、真っ暗な廊下を通り過ぎて、玄関に着いた。

 外にいるのはアフリカ児童教育基金の会への寄付を呼び掛けている女の子か、手作りクッキーを販売している子供だと推察したが、戸を開くとポケットに両手を入れている慶浩の姿が見えた。

 不思議なことに、ジョナサンは少しも意外だとは思わなかった。

「慶浩?」ジョナサンが聞いた。「こんなところで何をしているの?」

「水道管の修理に来た」そう言う慶浩は白目で見てきた。「何しに来たと思う?昨日話したことを忘れたのか?」

「えっ……」

 一緒にぶらぶらすること。それが暗黙の了解を共有する方法なんだ。ジョナサンの耳には慶浩の声が再生された。ジョナサンは瞬いて、慶浩の顔をじっと見た。慶浩は顔に微笑みを浮かべていた。その笑みは一緒に遊びに行くという誘いではなく、どちらかといえば喧嘩を吹っかけてきているようだった。

「みんな、アダムの家に集まってるぞ」慶浩が言った。「残念だけどパーティじゃないから、アルコールはないぞ。気にしてたかもしれないが、ギャルだっていない。みんなはただゲームや漫画、雑談を楽しむだけなんだけどさ。来るか?」

「うーん……」

 ジョナサンはハイリーがまだ自分の部屋のベッドで横になっていることを知られたくないと急に思った。。しかし、慶浩の表情を見て、そして口調からして、ジョナサンはハイリーが自分の家にいることを慶浩に知られたくなかった。彼は自分の足元に目を向けた。数秒後、慶浩の誘いに応じることにした。「実は今、歴史の宿題をやっているから、待っててほしい。すぐ終わらせて来るから」

「早くしろ、ジョナサン、ダッシュだ」慶浩が言った。「宿題は後でも出来るだろ、俺は人を待つことが一番嫌いなんだよ」

 ジョナサンは慶浩を白目で見てから、踵を返して二階に上がった。

 部屋に戻ると、ハイリーは既に起きていた。背中で壁に寄りかかり、ノートを膝の上に載せて、ペンを手に持っていた。

「どうしたの、ジョナサン?」ハイリーが訊いた。「まるでオオカミさんがドアをノックしてきたみたいな表情をしているよ」

「うん、実は……」ジョナサンが髪に手を伸ばした。「慶浩から誘われたんだ」

「へえ」ハイリーがきょとんと瞬きをした。「でも、宿題まだ終わってないじゃない」

「うん、だから……帰ったら続きをやるから。頼む。宿題はあと少しだけだからさ」ジョナサンが言った。「資料はもう集めててデスクトップに置いてあるから、『レーガン』のフォルダを開いてみるといいよ」ジョナサンはそう言うとドアのそばに置いてあったリュックを取り出し、肩にかけた。

「私に残りの資料を整理させるの?」ハイリーがわずかに口角を上げた。その声はまるで笑うのを我慢しているようだった。

「帰るときは、直接ドアに鍵をかけてくれたらいいよ。いいかい?」ジョナサンが言った。「父さんと母さんがそろそろ帰ってくるから」ポケットの中を調べて、鍵があることを確認してから、向きを変えて部屋を出る準備をした。

「本気なの?あんたの家に私一人を置いて大丈夫なの?」

「何かまずいのか?」

 ジョナサンが足を止めて、ハイリーの方向を向いた。ハイリーは彼をじっと見ながら眉を上げた。まるで解けない数学問題の解き方を考えているみたいだった。ジョナサンは眉をひそめた。ハイリーが自分の家にいることを少しも心配していなかった。ハイリーはもはや家族同然であり、たとえ家の鍵を預けても問題はないと思った。最後に、ハイリーは肩をすくめた。

「わかったわ」ハイリーは軽快な返事をした。

 しかし、ジョナサンは彼女からそう言われると、突然焦り出した。「大丈夫なのね?わからないんだけど──」

 ハイリーはジョナサンに手を横に振った。「大丈夫さ。キッチンのどこに何があるかわかっているから、自分でコーラ探して飲めるよ」

「了解、でも──」

「じゃあね、ジョナサン」ハイリーが言った。

 ジョナサンが一階に降りると、慶浩はまだ入口の階段で待っていた。「なんでそんなに遅いんだよ?」慶浩が冗談半分で言った。「そろそろ置いて行こうかと思ってたぜ」

「宿題片付けるのにちょっとだけ時間かかった」ジョナサンが答えた。この時、自分からハイリーのことを口に出さなくてよかったと思った。

 慶浩はジョナサンを連れてアダムの家に向かった。アダムの家はジョナサンの家から一本隣りの通りにあり、わずか数ブロックしか離れていなかった。車庫の前のスロープから、ジョナサンは窓の奥に人が動いているのが見えた。

「大丈夫さ、劇団の若い連中数人がここでだべってるだけだから」慶浩がニヤリと笑った。「緊張する必要がない」

 慶浩が玄関チャイムを二回押して、数秒後にドアの内側から金属がぶつかる音が聞こえた。鉄のドアが内側に開き、玄関に立つアダムの姿が浮かび上がった。

「よう」アダムは顔を歪ませながら微笑みを浮かべた。「他の場所に遊びに行ったと思ったぜ」

「ハロー、アダム」ジョナサンが挨拶した。

 アダムは肩をすくめながら、後ろに一歩下がり、ジョナサンと慶浩を中に入らせた。

 三段の階段を降りると、ジョナサンの目の前にゆったりとしたリビングが広がっていた。ソファが両側の壁に置かれて、L字型を形成していた。ソファで二人分の座席を占めていたのはアントニーだった。彼は両手で漫画本を持っていたが、その姿が非常に穏やかなので寝ているようにも見えた。スーリーとチャドはソファ前のカーペットに座っていた。二人の手にはXboxのコントローラーが握られていて、七十インチの大型テレビに向かって大声で叫んでいた。ジョナサンと慶浩が室内に入ると、全員の視線が二人に向けられた。

「よっ、ジョナサン」チャドはすぐさま視線を画面に戻した。「ごめんな、忙しくてさ。だからあまり話してあげられないんだよ。うわっ、やられた、チクショー!」最後の二語はテレビ画面の中のゾンビに対して言っていた。ジョナサンはそれを見て、理解したという意味で頷いた。スーリーもジョナサンにちょっと手を振った後、チャドと一緒にゾンビ相手に奮闘を続けた。

「おう、自由にくつろいでくれ」アダムが言った。「キッチンはあっちで、冷蔵庫にはコーラとお水が入ってるから。自由に飲んでくれ。どうせ金出すのは俺じゃないし」

 ジョナサンは迷った表情で慶浩をちらっと見たが、彼は肩をすくめただけ。「あいつがそう言うなら、そうすりゃいいんだよ。あいつがこの家を管理してるんだからさ」

 それから、ジョナサンはキッチンに入って、壁を手探りしてから電灯のスイッチを入れ、冷蔵庫の中から缶コーラを二缶取り出した。リビングに戻ると、慶浩は廊下とリビングの境目で壁に寄りかかって、両手で腕組みしながら、チャドとスーリーがBIO HAZARD6をプレイしている様子を見ていた。

 ジョナサンは缶コーラの底で慶浩の肩を軽く叩いた。「これ、あげる」ジョナサンは頑張って自分がくつろいでいるような声を出したが、慶浩に今、普段よりも心臓がどきどきしていることがばれないか心配だった。

 慶浩はジョナサンを見ると、眉をひそめながら微笑んだ。「他人の物を人に贈るなんて、やるじゃないか」と言いながら缶コーラを受け取って、ポッという音を鳴らしながら缶を開けた。

「違う──」

「冗談さ」慶浩と顔を振った。「やれやれ。俺たちの喋り方に慣れる必要がある。俺たちみんながそう喋っているよ。そうそう、劇団で練習したあの日だ。もう見たことあったよな?」

「あの終わらなかった口喧嘩のことかい?」ジョナサンがシニカルな口調で言ってみた。

「それも一つさ。だけど、それだけだと思っているなら、大間違いだぜ」と慶浩が言った。

「それは、どういう意味?」

「こう言えばわかるかな」そう言う慶浩がジョナサンに向いた。「この劇団は君が見た外見とは違うところがある。だから、まずは黙って、そして頑張って俺について来い。ここで生き残りたいなら、俺が言ったことを忘れるなよ」

「何言っているかわからない」ジョナサンが眉をひそめた。

「冷静さを保て。そして言われた通りやるんだ」慶浩が言った。「わかったか、新人?」

 慶浩の口調はどこかジョナサンを少し不快にさせた。特に、「新人」、この言葉には本来の意味よりも皮肉の意味が込めれられていた。ジョナサンは慶浩のこのような自分を見下す態度が嫌いだった。まるで自分が他のメンバーよりバカであるかのように、もしくは自分が任さられる仕事ができないと言っているようだった。

 ちょうどそのとき、慶浩と一緒にいるときに現れる気が詰まるような感覚が全て消え去った。そして、ジョナサンはその感覚が以前のように戻ることがないと心の底から理解していた。慶浩の周りに漂うあの重苦しい雰囲気が消えた。このとき、ジョナサンに慶浩と議論を交わしたいという強烈な衝動に駆られた。自分が新人の立場として名誉を回復したいのか、それとも、慶浩に自分は頭がお花畑な新人ではないことを証明したいのかはわからなかった。

「何もわからなかったら、どうやって追いかけたらいいんだよ?」ジョナサンは抗議するようにそう答えた。「あなたが劇団に入ったばかりの頃も、すべてわかっていなかったはず」

 慶浩が大声で笑い出した。「質問せずにはいられない、だよね?」

 ジョナサンはまだ言い返したかったが、アダムの声が二人の話を中断させた。

「俺たち、今日は『ウォールフラワー』をやる予定はないぞ」アダムはソファでアントニーのそばに座っていて、アントニーの頭はほぼアダムの太ももに届いた。彼は一冊の薄い本をその手で持っていた。ジョナサンがよく見ると、その中身のレイアウトが台本に見えた。「ジョナサンはチャーリーじゃない。慶浩、お前だってパトリックじゃない――ソファが空いてるから座んなよ」

「彼の話を聞いたんだろう」慶浩は白い目でアダムを見ながらジョナサンにそう言った。「そっち行ってろ」

 そして、ジョナサンはL字型のソファの一番端に座った。慶浩は言い返すようにわざとジョナサンの足元の床に座った。アダムが慶浩をちらっと見た後、顔を横に振って、視線を手に持っている台本に戻した。

 チャドとスーリーが何度も声を出していて、ゾンビがダメージを受けたときや攻撃するときのうめき声も聞こえた。しかし、ジョナサンは室内の沈黙がどんよりとした雲のように天井から降りてくると感じた。この感覚がどこから来たのかはわからなかった。そこで、先ほど慶浩にいちいち聞くなと言われたが、ジョナサンは話題を探してこの沈黙を破ることにした。

「で、君たち普段はこんな感じなのか?」ジョナサンが何気ない口調で聞いた。アダムと慶浩は同時に彼に視線を向けた。

「どんな感じ?」アダムは口をすぼめて、笑みを浮かべた。ジョナサンの質問に興味津々のようだ。「俺たちがだらだらしているのか?それとも、プライベートじゃ劇団員に見えないってことか?」

 アダムの口調はジョナサンを嘲笑しているようだった。ジョナサンは舌を噛みながら、アダムに対して少し怒りの感情が突然こみ上げてきた。「僕が言いたいのは、今みたいにみんなで集まってだべってるのかということだ」

「どうせ、俺たちは他にやることがない、だよな?」アダムが言った。

「しかも、アダムの家はだべるのにはもっていこいの場所だからな。利用しない手はないだろ?」慶浩が言った。

「黙れ、慶浩」アントニーが口を挟んだ。

「何だよ?ジョナサンに聞かれたらマズいことじゃないだろ」慶浩が反論した。「それも秘密ではない」

「ゴシップを聞くのを俺が嫌いなのは知ってるだろ」アントニーはソファから立たず、あごだけで上げながら冷静な口調で慶浩に警告した。

「はいはい」慶浩が白目をむいて言った。「仰る通りです。アントニー将軍様」

 アダムがこの会話を途中で切らなかったら、ジョナサンは自分が怒られただろうと思った。ジョナサンはわざともめ事を起こしたかった訳ではないが、まるで英語で会話していないような、それとも自分では解けない暗号を使われたりしているみたいな、他人から除け者にされているような感覚が嫌だった。

「神様のお慈悲に免じて」アダムが言った。「俺はまだ死んでねえよ?俺がいないようなこと言うな、コラ」

「誰も言ってないだろ?」慶浩がそう言ってから声を荒げた。

「おい、慶浩」アダムが制止した。「もめ事はごめんだぞ。ウィルがいないときくらいみんな休めよ」

 遂にジョナサンが加われる話題になったから、このチャンスを逃す手はなかった。「ウィルは僕のことがあまり好きじゃないみたいなんだ」ジョナサンが打ち明けた。

「あまり気にするなよ、新人」とアダムが言った。「ウィルはそういう奴さ。いい役者だけど、いいやつではないんだ」

「詳しく言うと、あのクズの頭にはゴミだらけなんだよ」慶浩が悪口を言った。「ウェスがいなかったら、間違いなくあいつのケツに百回以上蹴りをぶちかましてたぜ」

「ウェスがいなかったら、俺もお前のケツに何回も蹴りをぶちかましてたぜ」アントニーがボソッと言った。

 慶浩が笑みを浮かべて言った。「待ってるぜ」

「ああ。実はな、俺もお前のケツと蹴ってやりたいんだけど」アダムが言った。「少なくともウィルが総合リハーサルのときには自分のセリフを覚えていたよ」

「へーい、了解、お前らがやろうとしていることはわかったぜ」慶浩が両手を上げた。「では今、過去の失敗をあげつらってるんだな。だったら俺たちは──」

「誰もそんなことしてねえよ」アントニーが話を断ち切った。「もういい、黙れよ」

「でも、俺はまだ何も言ってないけど」慶浩が歌を口ずさむように言った。「それは、お前がたくさん恨みを買うようなことをしているからだと言うのはわかってるよな、アントニー。セリフ忘れなら、本番でセリフを忘れたのは確かお前だったはずだけど。俺の記憶違いか?」

「本気でそう言ってるのか?」アントニーが起き上がり、漫画をそばの席に置いた。「俺を攻撃するのか?おい、慶浩、俺はさっきからお前に黙れと言っているだけ。ゴシップを言うんじゃない」

「でも、アントニーは少なくとも演技を中断させたことはないじゃん」アダムが言った。「あのとき、チャドが舞台照明のライトを落としたことを忘れちゃダメだ……」

「この話は俺には一切関係ないだろ」チャドはこちらを見ないまま反論した。「俺を巻き込むなよ!」

「フォローが下手くそだな、アダム」慶浩が言った。

「『殺人を無罪にする方法』の規則第二条:新たな容疑者を引き込め」アダムがニヤリと笑った。

 それから、慶浩がついにこの話題に一段落をつけた。あげつらえる物がまだあるようだったが。アントニーは再び漫画を手に取ったが、その表情を見る限り、ジョナサンは彼が漫画を読んでいないだろうと思った。アダムは相変わらず平然と台本を読んでいた。ジョナサンはもう何も言いたくなかった。

 雰囲気はあるタイミングで少しずつ変わったが、ジョナサンはどの時点か明確にはわからなかった。ジョナサンは自分に対してこれが劇団員同士のおふざけだと言い聞かせたかったが、内なる声がそれに反論し、『それが事実ではないことをわかっているはずだ』と自分に告げた。

 ジョナサンは自分が他人の心を察することが得意ではないことがわかっていたが、慶浩の言う通り、この劇団は自分が想像しているものと違うと突然薄々感じた。ただ、このような状況でどう歩めばいいのか、ジョナサンにはわからなかった。

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