第2章

 ジョナサンは劇場前の階段で待機している間、大きく深呼吸した。劇場に向かう時のように、もう一度自分言い聞かせた。「あまり深刻になるな。世間を知らないようなバカみたくなるな。落ち着け、もっとクールになれ。誰も僕を馬鹿にしたりしない」

 拳を握ると、手のひらがもう汗ばんでいることにジョナサンは気づいた。ジョナサンは自分に対してため息をついた。劇場の扉が完全に閉め切ってはいなかったから、中の話し声や笑い声が聞こえてきた。突然、扉を開けて、中に入ると、全く違った世界に入り込んでしまうという奇妙な感覚を覚えた──その世界とは、ずっと憧れていた、でも全く触れたことのない世界のことだった。

 ああ、神様。ジョナサンはどう入ればいいかわからなかった。ノック?ノックすべきだろうか?それとも直接入ればいいのだろうか?

 慶浩からのオファーを受けた後、ジョナサンは学校で彼と話をしていなかった。先に劇団のルールを確認しておくべきだった。ジョナサンはどのサークルにも自分達のルールがあることを知っている。しかし、ジョナサンは慶浩の電話番号を知らなかった。電話しようと思っても、ジョナサンはそんなことで慶浩に電話したくなかった。

 ジョナサンは首を横に振って、歯を食いしばると、手を伸ばして完全に閉まっていない重たい木の扉を開けた。

 この高校に入学してから数か月の間で、ジョナサンが劇場に入ったことは二回あった。

 一回目は彼が入学したその週に、劇団による新入部員募集を目的とした新入生向けの特別公演だった。ジョナサンは当時、演劇に対して特別な情熱はなかったが、高校生の劇団がどれほど表現できるかに興味があった。そのため、ジョナサンとハイリーは全く知らない新入生たちに囲まれて、彼らの舞台を鑑賞した。三十分の短い演劇だったが、ジョナサンは彼らの表現の素晴らしさに驚いた。演劇のテーマは、入学したばかり一人の新入生が──観客の新入生たちと一緒、ストーリーを通じて学校で初めての友達の作り方を体験するというものだった(入学初日、主人公は漫画とボードゲームが好きのため、学校のいじめっ子のターゲットになっていた)。

 経費がそんなに多くないからか、小道具やステージの飾りは特筆すべき点がなかったが、各劇団員の流れるような動作、正確な台詞回し、生徒には身近なテーマなど、深くジョナサンの印象に残ったのだ。そのとき、役者一人一人が誰か区別がつかなかったが、ジョナサンにとって劇団は、一つの有機体であり、各役者の演技で、有機体が化学変化を起こすのだ。

 二回目にこの劇場に入ったのは、学校の依頼で非常に有名な劇作家が講演を行った時だった。ほとんどの生徒がここに集められ、劇団の団員たちはキープされた最前列の席に座っていた。ジョナサンとハイリーは入口付近の席に座っていたが、マイクを通じて聞こえる話者の声が平べったいに聞こえた。ミキサーのようなものを使ってるのかもしれない。

 一回目は演劇鑑賞、二回目は授業の一環だった。そして、三回目は役者としてここに足を踏み入れている。それはある種の進歩を表しているようだった。ジョナサンもこれが進歩であってほしいと思った。

 もしかしたら、せめて自分の居場所を見つけたらいいなと思っている。たとえ二週間の短期間でもいい。同級生の間では十年目立たない存在だったのだ。今は自分を変えるチャンスかもしれない。

 ジョナサンは座席中間の赤いカーペットを歩いた。劇場内は広く、座席は四区画に仕切られて、中央は通路で区切られていた。そのとき、座席の天井のライトは消えていて、光源はステージからの光線のみだった。赤いカーペットに沿って進むと、ステージに向かって床が傾斜していて、ジョナサンは思わずリュックのショルダーベルトを握った。

 カーペットの半分も歩かないうちに、ジョナサンはステージ上にいる一人が指で彼を指していることに気づいた。

「来たぞ!」誰かが叫んだ。

 すると、話し声が突然小さくなった。ステージとはまだ距離があるが、ジョナサンは全員が振り返って自分を見ているのに気が付いた。きまりが悪くなったので、早足でステージ前までやってきた。

 ステージの端にしゃがんでいた慶浩は、ジョナサンの身長より数インチ高かった。「よう、ジョナサン。劇団へようこそ」

 慶浩がジョナサンへ手を伸ばしたが、ジョナサンは数秒間固まってから、これが「ステージに上がって」という意味だとわかった。そして、ジョナサンは慶浩の手を握って、手足を動かしステージに登った。

 ジョナサンは両膝と叩いてまっすぐ立つと、自分の服を伸ばしながら周りの様子を見た。ステージには折り畳みの椅子が何脚か並んでいて、知っている劇団員が椅子に座っていたが、そばに演劇で見たことはあったが、全く知らない女性団員たちが座っていた。

 団員の一人の黒人男性が椅子に座らずアダムの後ろに立ちながら、台本を丸めて手に持っていた。ジョナサンがステージに上がる前、彼らは台本の内容について打ち合わせを行っていたそうだった。そのとき、黒人男性とジョナサンの目が合った。どうやら会話を邪魔されたことをよく思っていないようだ。ジョナサンは彼の名前がアンソニーだと知っていた。慶浩が他の劇団員と一緒に時間つぶししている時も見かけたことがあるが、話したことはなかった。ジョナサンは、アンソニーの目つきが今にも怒り出しそうで不安な気持ちになるから、神経がピリピリしてしまい、いつも無意識で彼を避けていた。


 ジョナサンは視線を移すと、そばに立っているすらっとした男性団員が見えた。彼はジョナサンに近づいて、手を伸ばしてきた。ジョナサンが無意識のうちに握手の準備をしたが、男はジョナサンの肩をポンポン叩いた。

「やあ、ジョナサン」と男性団員が言った。「来てくれてよかった」

「だろ」アダムはジョナサンに向けて顎を上げて、ニヤリと微笑んだ。「だいぶ面倒が省けたよ。頼むから、もうこの脚本を直したくないよ」

「この世の終わりみたいな言い方するなよ」慶浩はジョナサンの右側に立ち、目を回した。「ベンの奴のセリフなんて三行しかないだろ」

「三行しかセリフがないからといって、重要性はないとは限らない」とアダムが答えた。「この脚本はお前が書いたんじゃない、だろ?脚本を直すということがどれだけ大変かわからないのだ」

「はいはい」慶浩が顔を振った。「勝手に言ってろ」と言うと、ジョナサンを見て、ある男性を指しながら「ジョナサン、この人はウェスだ。俺たちの演技講師だ」

「舞台監督とプロデューサーも掛け持ちしながら、それ以外に役者がやらない他の仕事もやっているよ」ウェスが白い歯を見せて笑った。「でも誤解するなよ。メガホンを持って叩いたり罵倒したりしないからな。俺は皆の仲間、他の奴に聞けばわかるよ」

 そう言うとステージにいる他の団員がウェスに対して大声で叫んだ。その中には悪口も含まれていたが、その声がみんな笑っていたように聞こえた。

 これにはジョナサンも思わず笑みを浮かべた。この劇団に加わって数分で、ここのことが好きになったのだ。ここの雰囲気は和気藹々としていて、顧問の先生と生徒たちとの間にほとんど距離がなかった。ジョナサンはここに二週間しかいない予定だが、一瞬、次の学期もこの劇団を続けたいと思った。

「うん、よし。俺が他のメンバーを紹介するよ」と慶浩が言った。ジョナサンは慶浩に押されてパイプ椅子のところまで行った。「こちらからアンソニー、アダム、チャド、スーリーだ。彼らをもう知っているだろ?」

 アンソニーとアダム以外では、チャドとスーリーはジョナサンと接する機会が比較的多かった。二人はいつも慶浩と共に行動していたが、彼らはアダムやアンソニーと違ってリーダーのような印象を受けなかった──ジョナサンはアダムがなぜあのような態度で喋るのかようやくわかった。彼はこの劇団の脚本家だからだ。

 チャドは背の高い白人男性だ。巻き毛のようなカールした髪が特徴で、いつも人懐っこい笑顔を見せていた──人懐っこすぎて、時折バカに見えることもあったが、ジョナサンは彼のことが好きだ。スーリーは黒人男性で、同じく背が高いが喋る速度がチャドよりも遅かったので、笑顔が言葉の代わりになることもあった。ジョナサンは彼があの新入生向けの公演で校内のいじめっ子の一人を演じていたことが覚えている。知り合いになってからスーリー本人は全く正反対であることがわかった。実際、彼はいじめられっ子の方に似てる。

 アンソニーがアダムの背後から手を伸ばし、ジョナサンの前で止まった。「よう」と声をかけてきた。「歓迎する」

 ジョナサンは、アンソニーの口調が自分を歓迎していない様子だったから握手を拒絶しようと思った。しかし、慶浩がそばに立っていたから、彼に恥をかかせたなくなかった。そこで、ジョナサンは手を伸ばしてアンソニーと握手した。アンソニーの手は力強いが、わざと力を入れてるんじゃないかってジョナサンは疑った。

 チャドとスーリーがジョナサンに挨拶すると、慶浩が振り返り、彼に次の団員を紹介しようとしたが、椅子に座っている人物に、慶浩は顔をしかめ、急に白目をむいた。その男の子は国王が王座に座っているかのように足を組んで、隣の空いている席の背もたれを片手で押さえていた。

「なに?」椅子に座っている男の子はそう言いながら起き上がった。「どうした、慶浩?なんで俺を紹介してくれないの?」

「彼はお前を知らなくても、この劇団でやっていけるんだから」と慶浩が答えた。

「それ、失礼じゃん」男の子は歪んだ微笑みを浮かべて、眉を上げてジョナサンの前まで来て、自分の両腕を組んだ。「はじめまして、俺はウィル」

 ジョナサンは思わず眉をしかめた。慶浩からこの子のことを聞いていなかったし、この子も慶浩のグループにはなかった。握手することをためらったが、それは彼が心配する問題ではなかった。なぜなら、ウィルは全く手を伸ばすことなく──まるでレスラーのような鋭い目つきでジョナサンの全身を観察しただけ。そして、もっと口角を上げた。

「あんたは慶浩の要望でサポートに来たんだね」ウィルが言った。「いやー、偉いよね」

「僕は手伝いたいだけだ」ジョナサンが思わず反論した。ウィルの態度をジョナサンは侮辱ととらえたが、考えすぎだかと思った。ウィルとはまだ会ったばかりだ。

「そうそう、ヒーローさん」ウィルが言った。「待ち焦がれていたよ」

「もういい、黙れ」慶浩が口を挟んだ。「もうあっち行ってろ。聞こえなかったか?もういい──」

「何もできないんだね」ウィルが言った。「この件の話は終わった」

 慶浩が白目で彼を見ながら言った。「今この場所にウェスがいることを感謝するんだな」

「じゃないと?」ウィルが反論した。「俺を殴りたいか?」

 慶浩がジョナサンの体を押した。「あっちに行って。こいつと話すことはもうない」

 ジョナサンは踵を返す前に、ウィルをちらっと見た。ウィルはただ顎を上げて、眉も吊り上げていた。

 しかし、奇妙なことに、劇団の中でウィルのことに関心を持つ人間が誰もいなかったように見えたことだ。ウェスでさえただ彼らの方向を見て微かに顔を振っただけで、ウィルと話そうとするつもりすらなかった。慶浩はジョナサンをステージの向こう側に押して、女の子たちを紹介した。劇団の男女比に偏りがありすぎることにジョナサンは困惑した。演劇は女の子が興味を持つものだとずっと思っていたのだ。

 ウェスはジョナサンに脚本を手渡たすと、パイプ椅子に座るように言った。ジョナサンはわざとウィルから一番離れた椅子に座り、台本から自分が演じる役の名前を探すと、慶浩が先ほど言っていた三行のセリフを見つけた。

「その三行のセリフだけ見てりゃいいってわけじゃないぞ」アンソニーの声がそばから聞こえた。

 彼の発言は唐突過ぎる上、ジョナサンを名指ししていなかったから、振り向いてアンソニーを見たジョナサンは一秒後に彼は自分に話しかけたことに気づき、「何?」と返事した。

「アンソニーの言いたいことは、役者として、常に自分のセリフ以外も見なきゃだめだよ、ってこと」とアダムが説明した。彼はアンソニーに視線を向けて、その目はジョナサンに怒るなと言っているように見えたが、口元には笑みを浮かべていた。「演劇は全体が一つの機械なら、役者一人一人とセリフは全て部品なんだ。その『機械』がどのように動くかを理解するには、『部品』一つ一つをセットする場所とその存在目的を知る必要があるのだ」

「アダムの言いたいことは、アンソニーが書いた脚本が素晴らしいから、最初から最後まで読んで、全部覚えるなら尚良いだよ、ってことだ」慶浩は自分の台本を持ちながら、いつの間にかジョナサンのそばに座っていた。慶浩の台本の表紙が皺だらけだったから、彼が何度も台本を読んだことは明らかだった。

「俺は、新人のあるべき姿を教えただけさ」アダムがそう言った。「お前の意見は聞いてなかったけど、補足サンキューな」

「どうでもいいんだ」慶浩がぎょろっとした。

「僕は台本全部を読むよ。約束する」とジョナサンが言った。

「いいね」とアダムが答えた。

「そうだな。少なくとも本番間近に逃げたりはしないよね」慶浩が言った。「冗談抜きでベンのケツを百回でも蹴ってやりたい」

「誰もお前を止めないよ」アダムが返事した。

 なぜかわからなかったが、この会話のやり取りを見ていてジョナサンは笑ってしまった。先ほどのウィルとの衝突を除けば、ここにいる他の人たちのやりとりは一つの家族のように見えた。

 ジョナサンはハイリーと初めてカフェで慶浩と彼の劇団の仲間たちを見かけたとき、見て見ぬ振りしようとしたことをまだ覚えていた。メッシカフェは彼が通う高校の生徒たちのたまり場の一つであり、一列に並んだカウンター席の他に、団体客用のテーブル席も多数ある。そこはジョナサンとハイリーが一番よく行く場所だが、他の生徒も一緒だった。あの日、ハイリーと彼は宿題がなかったが、いつものように店にいて、ミルクセーキとジュースを注文した。ジョナサンはその時の会話の内容をもう忘れていた──実際、ハイリーとの話の大半は取るに足らないことであり、脳内に浮かんだことばを拾って、相手に投げただけだった。ところが、カフェのドアが再び開くと、中に入ってきたのは慶浩と劇団のメンバーたちだった。ジョナサンは振り返らず、慶浩の笑い声とアンソニーの低い声を聞こえた。

 ジョナサンはなぜ自分が慶浩に気づかれないように、衝動的に椅子の背もたれに隠れようとしたかわからなかった。慶浩との二回目の対話の準備をしていなかったか、それともハイリーがそばにいたからかもしれない。しかし、ハイリーがいたから、ジョナサンは努めて冷静にならざるをえなくなり、ミルクセーキのグラスの外側についた水滴をじっと眺めていた。

「おっ、ヘイ、これはジョナサンじゃないか?」慶浩の声がそばの通路から聞こえてきた。ジョナサンは自分の鼓動が速くなることに気づき、焦って俯いてミルクセーキを一口飲むと、冷たい飲み物によって彼の頬の温度が下がった。

 ジョナサンは顔を上げて、あたかも今気づいたかのように振舞った。

「おっ、わお」ジョナサンが挨拶した。「こんにちは、慶浩。」

「ここで何してるの?」慶浩が聞いた。「宿題?それともデート?」とニヤリと笑った。慶浩の友達が彼の後ろに立ち、通路の中央に集まっていた。

「僕たちは付き合ってないよ。ただ、ここで時間をつぶしているだけなんだ」ジョナサンがすぐに反応した。

「そう、俺たちがそれを信じてくれるように言ったな」慶浩はジョナサンの話を全く気にする素振りを見せず、顔を上げて店内を見渡すと、ジョナサンに手を振った。「デートじゃないなら俺らも混ざっていいか?他の席が埋まってるんだよ」

「うん、もちろん。どうぞ」

 ジョナサンは無意識にハイリーのそばに移動した。ハイリーはほとんど何も言わず、ジョナサンに合わせて空いてる席へ移動した。しかし、ジョナサンは慶浩がハイリーの意見を聞かなかったことに気づいた。

 その日の午後、慶浩と劇団の友達はどうやらジョナサンと一緒にいることに早速慣れていたらしい。彼らはわざとジョナサンを話題から外すことがなかった。ジョナサンは劇団内輪のジョークにはついていけなかったが、ジョナサンはこの状況が本当であって欲しい──劇団のメンバーになる必要はないが、自分がこのような集団に所属して、自分が帰属する場所があることを願った。それは決してハイリーを遠ざけたいことではない。そうではないのだ。ただ、周りが人でいっぱいなのに、自分にはハイリーしかいないとき、少し寂しさを感じる。そして、狭苦しさを感じる。

 それが、ジョナサンが初めて自分で集団に加わりたいと思ったことだった。全て慶浩と劇団の仲間たちのおかげだ。

 そして今、劇団のステージに座ると──自分と他の劇団員がいて、ハイリーがいない──ジョナサンは自分が他の誰かになったように感じていた。ハイリーは自分と普段の人生をつなぐ架け橋であり、ハイリーがいなくなった後、ジョナサンは突如、この完全に孤独な自分に他の可能性があることに気づいた。

 この二週間で劇団に溶け込めないかもしれない。しかし、少なくとも挑戦するチャンスがあるのだ。

「よし、みんないいか」ウェスが手を叩いた。「今、台本の読み合わせをするよ。第一幕第一場からスタートだ。ジョナサン、俺たちをついてみて、オッケー?」

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