第五章 鬼神に近づかないこと(1)

 言いようのない恐怖が空気の中に流れた。

 陸子涼はその尖っていて血に染まっていた包丁の先を見つめ、頭が真っ白になった。

 凶器だ。

 現場を見る前に殺人凶器を見てしまった。

 陸子涼の回っていない頭にゆっくりと「逃げるべきだ」という考えが沸き上がった。

 彼は率先して仕掛けて、白清夙の包丁が自分に刺す前に彼を倒し、それから急いで逃げる。

 ……それとも何事もないかのように振舞って、見て見ぬふりをして、笑って白清夙におはようと挨拶する。

 そうだ。彼は無害な笑顔を出して、そしておはようと挨拶すべきだ。

 急迫な指令が一つずつ頭から発したが、でも実際のところ、陸子涼はただその場に固まって、血に染まっている包丁の先を見つめ、石化したように動けなかった。

 強いストレスが空間の酸素を圧迫していた。

 白清夙はその淡々とした視線を陸子涼の身に落とした。陸子涼のぼさぼさとした髪から、荒い呼吸によって上下する胸元、薄い綿服とズボン、それからその裸足までじっと眺めた。彼はその細長い黒い瞳を細めた。

「走らないでと言ったはずです」

 白清夙は柔らかだけど、冷たく口を開いた。

「聞いていませんね」

 そう言って、ゆったりと血がついている手袋を脱いで、力強い腕は急に陸子涼の腰に回し、そのまま片手で彼を抱き上げた!

 陸子涼のピンと張った神経はもう少しで切れそうだ!彼は自分も中に運ばれて一緒に殺されるかと思い、足掻こうとした時、裸足がざらざらとした平面に踏んだ。

 白清夙は彼を竹で編んだ椅子に置いた。

 爆発寸前の力は途中に止まり、陸子涼の目は困惑していた。

「そこに立って動かないでください」

 白清夙はこの言葉を残して、振り返って厨房を離れた。

 椅子の上に残された陸子涼は何秒間をボーっとして、猛然と振り返り厨房の奥深くを見た。竹椅子の高さのお陰で、彼の視線は冷蔵庫を通り越して、中の様子が見えた──

 死体はない。

 古めかしい深紅色のレンガ作りの地面には鶏の羽が散乱していた。

 陸子涼はきょとんとして、視線を流し台に送り、厚い木のまな板の上には殺されたばかりの鶏があった。

 鶏。

 鶏。

「……ハ」陸子涼の喉から急に笑い声がこぼれ出した。「ハハハ、ゴホゴホ、ハハハハハハ──」

 鶏だった?鶏だったのか!

 あの怖い叫び声は鶏の声だった!

 陸子涼は笑いすぎて咳が止まらなかった。彼は自分が多分正気じゃないと思った!どれだけ怖がって、人と鶏の叫び声さえ分からなくなる?

 白清夙が朝っぱらから自分の家の厨房で人を殺めていると確信しているなんて、自分は一体何を考えている?

 マジであり得ない。

 陸子涼は笑いが止まらず、咳をしているせいで身をかがめ、竹椅子は不安定に揺らぎ、上に立っている人を揺らして落ちそうになった時、また別の足にしっかりと踏まれた。

 白清夙は厚いコートを陸子涼にかけて、またマフラーで一回りずつ彼の衰弱な首につけ、「そんな風に咳をしないように耐えてください」と淡々と言った。

「ゴホゴホ、ゴホゴホゴホ、耐えられませんハハハハハ──」

 白清夙はまたコートを締め、チャックを上げた。「そんなに楽しいですか?」

「はい、俺は、ゴホゴホ……鶏が、見えましたハハハハハ、ゴホゴホ──」

「……」

 白清夙は急に手を上げて彼の口を塞いだ。「冷静になってください。鼻で呼吸してください」

 陸子涼は咳のせいで肺まで激痛になり、笑いたくても笑えない、つらい思いをした。彼のまつ毛は可哀そうに震え、足掻こうとしたが、白清夙の漆黒の瞳に触れる途端、彼はまたまつ毛を落とし、指示通りに声を殺して咳し、不用意に吸い込むことをやめた。

 呼吸を整えることはスポーツ選手にとって日常茶飯事だから、陸子涼はすぐに呼吸を整え、抑えきれないほどの咳を何回か出した。白清夙は彼が調整し終えているのを見て、手を離そうとした時、手のひらは温かい何かに舐められた。

 濡れていて柔らかい。熱い息がかかって、まるで無視できない烙印を残したようだ。

「……」白清夙は黙って彼を見つめた。

 陸子涼は竹椅子に立っており、白清夙の頭の半分より高い。彼の目には褪せていない笑みが含まれ、目を落として白清夙を見つめた。口元を覆っている手をそっと外し、身を乗り出して白清夙の肩に全身を預けた。

「言ってませんでしたけど、君の顔は俺のドタイプです」

 陸子涼の声は微かにかれており、咳による後遺症なはずなのに、異常にセクシーに聞こえた。

 白清夙の喉仏は激しく動いた。

「もし男の人が嫌じゃないのなら」陸子涼は近づき、二人の呼吸が混ざり合うような近さで、「俺と試してみませんか?」と小声で言った。

 白清夙は一瞬黙って、「昨日は『恩返しをしたい』と言ったのに、今日は『俺と試してみませんか』になりましたか?」

「昨日会ってから君と試してみたいと思ったけど、経験によると、最初に気合を入れすぎると、いつもいい結果がもらえません」陸子涼は口角を上げて笑って、「でも一晩が過ぎた今なら、もっと積極的になってもいいと思います。違いますか?」と言った。

 白清夙は何も話さなかった。

 これはほとんど黙認しているようなものだ。陸子涼の心臓の鼓動が速くなり、目的の達成が目前までに迫っているが故にテンションが上がっているか、それとも本当に距離が縮んでいるせいで急に怖くなったのかは言い難いが、とにかく彼は緊張をしていた。

 彼は少し顔を俯いて自分の目を隠し、白清夙の肩に顎を乗せ、「君に好感を持っているのは本当で、君に恩返しをしたいのも本当です。昨日言った条件もまだ有効です。ここに残って手伝うことも、君が望むことなら何でも答えます。そして俺の気持ちを受け入れるかどうかは、付き合った後で決めればいいです。だからここに一か月残させてください、うん?割に合わないなんて思わせませんから」と言った。

 白清夙は少し黙って、彼の顔を上げさせ、黒い瞳で彼を見つめた。陸子涼はかっこいい顔を持ち、さりげなく上げている唇、笑顔がまるで太陽のように眩しくて暖かい。思わず彼に近づいて、彼の温もりと憧れの優しさを求めてしまう。

 でも今回の再会を通して、白清夙ははっきりと陸子涼は実際に冷たい人であることに気づいた。

 陸子涼を置き去りにした全ての人は、きれいさっぱり彼に忘れ去られてしまう。例え嘗てどれだけの情熱を見せたとしても、あの人は彼のために残ってくれないことを知ってしまったら、彼はすぐにそれを頭の中から消し去り、相手が自分の記憶の中に空間を占めていることを許さなかった。

 容赦がなかった。

 当初の情熱が本当かどうかを疑ってしまうほど冷徹だった。

 これ以上に陸子涼に触れちゃいけないことを、白清夙は分かっていた。

 でも陸子涼の本当か嘘かの笑顔に向き合えると、白清夙はその魅力的な誘いを断ることができなかった。

 昨日果樹園の中で陸子涼を逃した時から、彼の暗く病んだ心の奥底で、もう既に陸子涼を連れ戻す方法を企んでいることを認めざるを得なかった。

 これは彼の小涼だ。

 彼のだ。

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