#14 おやすみ

 何となく林又夏の機嫌が悪そうに見えた。


 陳晞は階段口に立って、客室の扉が閉まるのを見ていた。聞きたいことはあるが、どう聞けばいいのかわからない。彼女は暫く考え込んで、今日は特別な出来事が起きなかったから、林又夏を不快にさせるようなことはないはずだ。


 唯一特別な話といえば、許浩瑜に会ったことぐらいだろう。


 陳晞は危うくその存在を忘れるところだった。彼女が林又夏と話している様子を見ても、かなり迷ってから、ようやくその名前を出せた。それが合ってるかすらも確信を持ていなかった。多分あの時からだろう。林又夏の口数がかなり減っていて、普段の彼女と大違いだ。


 陳晞の印象では、林又夏は比較的にコミュニケーションが得意だ。まるで人の話を聞いていないように見えても、初めて会った制服メーカーのおばさんや、部品を買いに行ったときの金物屋の店主に対して、彼女の言動が気まずさをもたらすものではなかった。相手も常に娘に接しているような笑顔を彼女に見せていた。


 多分その外見にも関係しているだろうけど。


 学校から持って帰った書類をフォルダーに仕舞って、陳晞は着替えを準備して風呂に入ろうとしたが、暫く考えた後、やはり林又夏の様子を見に行くと決めた。


 普段、夜になったら彼女はいつもこの部屋に入り浸っていて、飽きることなく機械の組み立ての練習に忙しい陳晞に一緒に風呂入るようしつこく迫る。


 傍でうるさくする人がいないことに、陳晞は少し慣れなかった。前は自分一人でものんびりできたのに、これもきっと何かに憑かれたに違いない。


 彼女はドアをノックして「あの」と言った。


 部屋の中からの返事はなかった。陳晞は首を振って『こいつまさか風呂も入らずに寝てたんじゃ?』と考え、再び指でドアを二回ノックした。


「なに?」不機嫌そうな声が中から聞こえた。陳晞は前回林又夏のこのような声を聴いたのが何時なのかよく覚えていない。恐らくはあの山にいた頃、彼女が自分に向かってもっと素直になれって言った時だろう。


「中に入れても良い?」


 言った傍に、木製のドアは突如開かれた。陳晞はびっくりして一歩下がった。その目に映ったのは依然として不満そうな林又夏の顔だった。


 彼女は眉をひそめ、自分が一体何のことをしてそこまで相手の機嫌を損なったか心当たりがまったくない。


「私の名前を呼んで」


「……は?」


「もういい」バタンっと、ドアは陳晞の目の前で閉められた。


 ん?んん?


 目の前に見えるのは、廊下の薄暗い黄色い明かりしか残ってない。陳晞は訳も分からないままその場に立っていた。自分はさっき怒られていたと感じたが、その理由がわからない。意味不明の感覚の他、突然面倒くさい気がしてきた。


 陳晞は別に怒ってはいない、ただちょっと困惑しているだけ。さっき林又夏の言った言葉をよく考えても、答えは出なかった。


 名前を呼ぶことなら、前もしたことはあったような気がして、それも山に行った日の事らしい。あの時はどう呼んでも、疲れ切った林又夏を起こせなかったので、最終的に手を出して肩を揺らしてから、やっと起こせた。


 名前を呼ぶって何かの儀式か?陳晞にはわからない。その理由は多分彼女の名前が一文字だということにあるだろう。小さい頃も、大きくなってからも、親しい年長者が彼女の事を『小晞』と呼ぶ以外、他の人は皆彼女をフルネームで呼んでいる。小学校以降のクラスメイトは男子ばっかりで尚更、まともなあだ名を付けるわけがない。


 うんざりした感覚を我慢して、足を踏み出して部屋に戻らないように自分への説得もした。そして陳晞再びノックをした。


「又夏」


 ほぼ一瞬の間にドアは思いっきり開かれた、まるで中にいる人がこの時を待ち望んでいたかのように。光に背を向けている林又夏は一息を吸って、そして吐いた。口を開けて、そして閉じた。


 最終的に彼女の口から出たのは「こんなことぐらいで喜んだりしないからな」という言葉だった。


 確かにこれが別に喜ぶようなことでもない。陳晞は目をパチパチして「お、おう?」と言った。


「嘘、すごく嬉しい」


 やはり彼女には林又夏の嬉しいと不機嫌の境界線がわからない。


「そうか」


「そうだよ。どうしたか?」


「風呂に入るよう呼びに来た」


 林又夏はため息をした。陳晞はこういう人だとわかっている。自分が不機嫌なのを感じてわざわざ話しかけてくるわけがない。そのまま自分を放置しないだけまだマシだ。


「先に入ってね。後で入るから」


 相手は大人しく頷き、振り向いて離れようとした時、林又夏は何を思い出したかのように、彼女を呼び止めた。その相手は振り向いて、困惑の表情をして「どうしたの?」と聞いた。


「これからも名前で呼んでね」


 二人は数秒間何も話さなかった。陳晞の顔は自分が林又夏の要求に応えるか考えているように見えた。結局、彼女は不本意ながらも頷いた。ちゃんと要求に応えるかどうか自信がないのが目に見えている。


「できる限りそうするよ」


 ただこんな幼稚な問題のせいで一人っきりになりたいわけでもなかった。まあ、二十パーセント、いや、十パーセントぐらいはあるかもしれない。


 本当に少しだけ不機嫌なだけなのだ。林又夏は陳晞が部屋に戻るのを見送ってから、ドアを閉めた。


 久しく使われていないベッドの上には開かれたノートが何冊か置いてあった。そのページには少し子供っぽい林又夏の字がびっしり書かれている。記憶の欠片に対する推測と、それから以前の時空で遭遇した奇妙な出来事、及び彼女が周囲の人々に対する観察という内容が含まれている。


 偶にこんな自分のことを変態だと思うが、こうして書き込まないと、多くの情報が混同になって、かえっていらない迷惑を引き起こす。それにこれは彼女の犯人捜しにも多少役に立っている。


 ただ、未だ手がかりを掴めていない。どの時空でも放火の時間は異なっていた。このことは林又夏を困らせている。それに彼女がしたいことは、ただ子供たちの無事を確保するだけではない。


 放火に関しても陳晞殺しに関しても、犯人は高い確率で同一人物だ。林又夏の計画は孤児院が放火される時点で犯人が逮捕されることを確定させたいということで、そうすれば後の憂いも断たれる。だがいくら綿密に計画を立てても、成功したことはない。


 洪姉さんが早めに脅迫電話を受けたことを知らせても、どうにもならなかった。放火の時間は常に不定で、防ぎようがないからだ。


 いくつかの時空を渡っても、どの子供が持ちこたえなかったのか、あるいは陳晞の身に何かあったのか、または自分が襲われたのかのどっちだった。これらのことが起きなかったことは一度もない。


 何人かの陳晞がなぜ死亡したのかは知ってる。それは多分全て自分のせいだろう。同じ時空の時間を巻き戻せば陳晞を助けることができるから、林又夏もそうしていた。そしてその時空から離れる。


 無事に陳晞を助けた後にまたそこに戻れば、彼女は元気な陳晞に会える。ただ気を付けないといけない。何せその時空の自分は、すでに人々の認識から消えたからだ。


 消えることは、実は死亡と同じ意味だ。


 陳晞に近付かないことが、彼女の安全を守れる一番確実な方法だ。でもそれが自分にはできないと林又夏はわかっている。それが心を開いてくれた彼女から離れるよりも、さらに難しいのだ。


 ベッドの縁に寄りかかっている林又夏は手を挙げた後、目の前に無数の青い光の粒が浮いている。青い光は彼女の色白の顔を照らしている。それは記憶の欠片だ。


 彼女はそれほど多くない魔力でそれらを組み立てられて発動できる。これは検査の時、彼女がわざと魔力を隠す理由でもある。


 林又夏は他の時空で自分に出会ったことがなく、同時に他の時空にいた頃の記憶をすべて保っている。その推測によれば、この『世界』に存在する林又夏は、想定外のことがなければ、この一人だけだ。だから記憶の欠片が分散することもないのだ。多分これも彼女が膨大な魔力を保有できる理由だ。


 無事成長できて、政府に『徴収』されなかったことに、林又夏はすべての時空でこのことを隠してくれた院長に感謝している。彼女は林又夏に自分の能力が治癒であると偽るよう要求した。そして先生の前で枯れた花を少し元気にするのが、時間能力の使い手にとっては難しいことではない。


 無能力者と認定されれば、大人からも困らせはしないし、それ以上の期待もしない。


 やはり人間は欲張ってはいけない。


 彼女はノートに書いてあったちょっと乱雑な字を見ていた。もし予晴が回復するのを確認できれば、孤児院の項目を削除できる。人差し指で陳晞の名前を撫でていて、自分がその字を書いた時に使った力が感じられて、林又夏は目を閉じた。


 今回が最後だ。これは祈りなどではない。


 もし自分が記載されていない能力を持てるというのなら、他の人もきっと持てる。神様は公平なんだから。


 時間、闇と光、林又夏は自分が『闇』に遭遇したことを確信している。そして許浩瑜が見た未来の光景から推測すれば、他の時空で会った出来事も、きっと再び繰り返す。それが同時に犯人は闇の能力を持つ者と証明できる。


 あるいはこれが『現象』であるかもしれない。しかし、どんな視点から見ても、林又夏には危険な気配しか感じない。


 ごめんなさい。でも今はただ、あなたの安全を守りたい。


 かつて自分が離れた時に恋人が涙をする姿を思い出して、胸は何かに掴まれていたような感じがした。もう一度それを体験すれば、自分は耐えられなくなるかもしれない。


 風呂を済ませて、林又夏はいつものように陳晞の布団に潜り込んだ。


「あの、林……ん、ごっほん、又夏」


 相手がまた自分のフルネームを呼びそうになったのを察して、林又夏は思わず笑った。「どうしたの?」


 大人しく従うその姿も、彼女には可愛く感じた。多分自分が正気じゃないだろう。でも自分の人生は元から狂っているから、林又夏もそんな些細なことを一々気にしていない。でないと自分の気がとっくに狂っていたかもしれない。


 あるいはすでに狂っていたのかもしれない。


「明日のアルバイトに行くの?」


「そうだよ。あなたはかき氷屋に行くでしょ?」


「じゃ」陳晞は少し躊躇って「たい焼きを買ってくれない?」と言った。


「いいよ。何個欲しいの?」


「一個で十分」


「わかった。十一個ね」


 暗闇の中で一つの青い常夜灯しかないから、林又夏の表情を陳晞はよく見えなかった。ただ何となく相手がこの全然面白くない冗談で笑顔になっていたのを感じた。


 林又夏がまた自分をからかうことで機嫌よくなったのはそれほど気にしていない。たださっきよりはマシだと思った。その顔を見れないことに少し残念がってもいた。もしできれば、林又夏はやはり笑顔でいた方がいい。


「陳晞」


「ん?」


「もう一回私の名前を呼んで」


「なんで?」


「もう一回呼んでよ」


「……又夏」


「うん、おやすみ、」林又夏は陳晞のベッドの上で好きな位置を見つけた。そこでは陳晞の体温すら感じられる。「私の晞」

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