#15 えっ?

 実はたい焼き屋を開くのはそう難しくない。林又夏は店番をする度にそう思っている。


 たい焼き屋の店長は背の高い男性で、洪さんと近い歳で、そしてこの町で育っていた。洪さんとは子供の頃は親しい関係のようだが、どれぐらい親しい関係なのか、林又夏はそれほど興味がなかったし、聞き出すのも面倒臭かった。何せ彼はどの時空にも現れる訳じゃない。過去のノートではいつも小さいブロックしか占めていない。


 林又夏の性格は別に冷たいとは言えない。路上でお婆さんを見かけたら自分から道を渡るのを手伝い、迷子を見つけたらなるべく一緒に保護者を探す――それを思い出したら不愉快になる。


 生地を型に入れて、スプーン半分のあんこを入れる。うん、普段はスプーン一杯と半分だ。林又夏はカウンターの向こうから見てきた鋭い視線を無視し、ただ機械のように仕事をこなしていた。


 生地が足りない部分を生地で足して、蓋を閉める。後は焼き上がるのを待つだけ。それだけ簡単な手順だ。だから林又夏も自分がもし本当にどうしようもなくなったら、遠いところに行って別のたい焼き屋を開くことも考えたことがある。


「私のことが嫌いなの?」


 子供っぽい声は林又夏の注意を引いた。返事として、彼女はただ首を振ったが、腕を組んでるその姿は本音を暴いた。相手もこれ以上聞くつもりはなく、ただ手に持ったシャーベットをもう一口飲んだ。かき氷屋を寄ってから来ていることを考えなくてもわかる。


 壁に掛けた時計は林又夏がすでに六時間も陳晞に会ってないことを示した。しかし、許浩瑜が手に持ったそのドリンクは明らかに彼女が会いたがってる相手から受け取ったものだ。


 客に対する態度じゃないとわかっても、林又夏には本心からの笑顔を出せなかった。ただぎりぎり口角の角度を維持しているだけ。


 彼女はこの感覚をよく知っている。陳晞と恋人になれたあの時も、この状況は良く起きていた。自分はもう十分大人になったつもりだが、陳晞に関わることになると、彼女は永遠に子供なんだろう。


「もしこれがあなたの未来が見えないって言ったせいなら、謝るから」


「ああ、道端のペテン師のように私を見るなりに死人のような顔って言ったあれか?全然気にしてないよ」


 鉄製の蓋を開けて、飛び出った蒸気は林又夏の視界の一部を遮った。彼女は隣に置いてあったトングでたい焼きが出来たのか確認して、そして用意した紙袋に入れた。


 陳晞がそばにいる時、林又夏はまだ少し煩わしさを我慢できる。何せ相手は彼女の幼馴染だ。いくら好感が持てないとはいえ、わかりやすく振舞うこともできない。


 ただ二人きりの時も良い子振る必要はないでしょ?林又夏の口は歪んで、紙袋の隅っこをつまんでカウンターよりそう高くない許浩瑜に渡した。


 人と人の間に適切な距離を保つのは美徳だ。彼女はその言葉がとても好きだ。


 孤児院の関係者と陳晞以外の人に対して、林又夏は常に遠すぎず近寄り過ぎない距離を保っている。どうせひょんなことから、自分はまた次の時空に行かなければならなくなる。


 陳晞は彼女にとっての例外だ。そして許浩瑜も――悪いほうの例外だ。できれば、林又夏はなるべく彼女から遠く離れたい。


「私はペテン師ではない。あれは私の能力が見せたものだ」許浩瑜は紙袋を受け取り、「すごく気にしているようだね」と言った。


「ごめん」


 許浩瑜の性格自体は嫌な奴じゃない。これは林又夏にもわかっている。それに陳晞にもよくしている。それだけでも嫌う理由はない。しかし、もしかしたらそれが林又夏がこの人を好きになれない理由なのかもしれない。


 そうだ。そうだね。陳晞の傍には彼女を好きになる人しかいないでしょ。今夜は絶対彼女から布団を奪い、冷房の中でガクブルさせなきゃ。


 小さい女の子が手を振って、林又夏が謝る必要はないと示した。「結構心配しているよ」


「何かを?」


「遠くは見えないけど、数年以内の未来は簡単のはず。何も見えないのは初めてだ。なんだか危ない気がする」


 林又夏の顔を見て、浩瑜は「あなたの状況が危険なの」と付け加えた。


 相手が何を言っているのか、林又夏にはわかっているつもりだ。彼女が持っている情報は目の前の人が知っていることより多いとも言える。ただその息苦しい行為だけは受け入れがたい。それは林又夏を自分の敵意に対して罪悪感を感じさせる。


「そのようだね」


 あの日かき氷屋での雑談を思い出すと、許浩瑜は未来のことについてほとんど話さなかった。


 それが制約以外に、こういう能力を持つ者が備える道徳心なのかもしれない。林又夏の子供の頃も、たかが試験の点数のために無闇に能力を使ったりはしなかった、たとえ使っても誰も気づかないのに。


 最後には別の理由で使ったとはいえ、自分のために使ったことではない……まあ、ほんのちょっとだけはあるかもしれないが、それも不可抗力だ。


 能力を持つ者がそれを使用する、ある意味では当たり前のことかもしれない。ただ不幸を招く可能性があるかもしれないということを、林又夏は重々承知している。


 多分これが償わないといけない罪だろう。彼女はそこまで気にしてはいないし、やったことに満足さえした。


 林又夏は暫く考え込んで、口にすると決めた。「『闇』の能力を聞いたことはあるのか?」


「それはなにかのくだらない冗談か?」


 自分を馬鹿にしているようなその言い方を聞いて、林又夏はこの人を好きになれない理由をようやく思い出した。


 未来が見えるからって、自分が物知りだと思っている。それに関して林又夏が言ってみたい言葉が『あたしが食べた米はあんたが食べた塩より多いのだぞ』という古典的なセリフだ。古臭いがこれ以上ない適切だ。


 ただ、米のほうが多いのか?それとも塩のほうが多いのか?自分がくだらない問題を考えていることに気付き、林又夏は首を振った。


「それを覚えておけば、損はないはずだ」林又夏は一つ深呼吸をして、ようやく自分を落ち着かせた。


 前回は何もわからなかったが、今回はこの機会を見逃すわけにはいかない。許浩瑜の能力をちゃんと利用しないと。緊急時であれば、許浩瑜は彼女と同じように陳晞の前に立つと、林又夏には自信がある。


 ただこの人に自分のことを信じさせるには、至難の業と言える。何せこいつの疑い深さは想像を超えているのだ。


 適当に手を振って招かれざる客を送り出した。許浩瑜の信頼を頑張って勝ち取らないといけないと思うと、林又夏は思わず身震いした。


 だが彼女と仲良くならないと、陳晞の短時間内の状態を確認する術がない。利用できる能力を手元に一つ置いとくのは、弊害よりも利益のほうが勝ってる。


 一番直接の連想で予想すると、もしかすると今の『闇』はすでに他のモードに変わっていて、違う姿で現し、運用されているのかもしれない。これも誰もそれを目撃したことない原因だ。


 林又夏はノートを取り出し、新しい推測を書き込んだ。そして横で何本の線も引いて、自分の予想をすべて書き込んだ。


 銀行に行っていた店長が戻ってきて扉を開くと、林又夏が何かを書き込むのに夢中で、自分が通ったことすら気付かないことに気付いた。邪魔をしないつもりだったが、壁に掛けた時計を見て、その動きを中断させると決めた。


「又夏、もう上がっていいぞ」


 *


 陳晞はどう考えても、自分がこのようなミスを犯すとは思わない。事前にロビーを綺麗に掃除したけど、二人同時にその真っ黒焦げの壁をスルーしているなんて。


 かき氷屋の店長に店内の古い新聞紙を全部もらって、それらを一つ一つこの前完成した家電の上に被せた。指に付けたインクは陳晞にとって不愉快だったが、他人のせいにもできない。


 ガサガサの音と共に、林又夏の声がリビングの向こう側から聞こえた。「陳晞、こっちはもう終わったよ!」


「うん、こっちもそろそろだ」


 数歩下がって、リビング全体を見渡した。壁以外のものが全て新聞紙に包まれている。おかしいと自分でも思うが、それでも陳晞には達成感を感じた。


「よっと、ペンキ缶はここに置いとくよ」林又夏が鉄缶を彼女の足元に置いて、少しウキウキした表情をしていた。


 機械使いの陳晞にとって、こういう荒仕事は慣れているどころか、上手にこなせているとも言える。ペンキはそんなに触らないけど、部屋も自分で塗り直したから、経験がない訳じゃない。ただあの時は張哲瀚に手伝ってもらったけど。


「記憶を遡り――分解する――」


 赤い光は彼女の両手から現れ、そして鉄缶に付けると、はめられた蓋を簡単に外した。傍で見ていた林又夏は感心な声を出して、陳晞にはそれが少し気まずかった。


 こんな簡単なことは鍵一本で処理できるかもしれないが、朝から林又夏に能力を使うところが見たいってせがまれた。


 すでに何度も見たのに。彼女はそう思いながら、冷静な振りをして工具箱のほうに行ってブラシを取り出した。


 孤児院に戻る前、警察に相談したほかに、陳晞も校内の建築に精通した教師にこの家の安全性を確認してもらった。結論として当時の火の勢いは強かったが、早い段階で消せたので、構造自体には大したダメージを受けていない。そのまま使っても問題はない。


 陳晞は何度の確認を経てから、その情報を林又夏に伝えた。相手の表情を見た時、その結果がポジティブであったことに喜んだ。何せ孤児院こそ子供たちと林又夏の家で、どこでも代わりにはできないのだ。


「本当にペンキを塗るだけでいいの?」


「そうだよ。この手で塗っていく感じは素晴らしいのよ」


 陳晞ははしごの脚部を支えていた。最上端に立っていた林又夏がふらふらしていて、彼女が振り向いて話すとき、ブラシに付けた白いペンキが危うく彼女の頭に命中したところだった。幸い素早く反応してそれを避けれた。でないと帰ったら何百回頭を洗えば、鳩のフンに当たったように見えなくなるのやら。


 例え構造上にダメージが受けていなくても、内装の大半は燃やされた。陳晞は林又夏のために大工でも頼んで綺麗にするか考えたけど、それが丁重に断られた。今のほうが家の感じがするっていう理由で。


 彼女にはよく理解できていないが、家主がそう言うのなら受け入れるしかない。その代わりに得たのは、自分がもう一日休みを取って手伝いに来る結果だけど。


「陳晞もやってみないか?」林又夏は壁に純白のペンキを塗りながら、「これ結構癒されるのよ」と言った。


「そこまで癒しの需要はないな」


 下から見ると、林又夏の表情はまるでゲームでも遊んでいる子供の表情のようだ。ズボンがペンキに汚されることを一切気にする様子がなくて、その顔に笑顔がいっぱいだ。


 一層ずつペンキを塗ることで、恐らく自分が家具に新聞紙を包んだように、達成感を感じるだろう。これで林又夏が喜んでくれるのなら、今日の給料がなくなったぐらいはどうってことない。


 もうしばらくすれば、この家は人に住ませられるようになる。その時になれば林又夏も子供たちをここに連れ戻せる。


 陳晞は手に持っているペンキ缶を上げて、林又夏はペンキをブラシに付け直した。


 彼女は自分が少し寂しいと感じたのを認めたくない。まだ作業は半分も終わっていないのに、すでに感傷に浸っていると、卒業式が始まったらボロ泣きした男子たちと同じではないか。陳晞は何でもかんでもあんなに過剰に反応したくない。


 林又夏がブラシを持ち上げると、それに付けている純白の液体も零れ落ちた。下にいる人が声出して教えた時にはすでに間に合わなかった。


 白いペンキが林又夏の茶髪に付いていてかなり目立ってる。陳晞がそれを見て、慌てて鉄缶を置いてティッシュを取りに行った。暫く奮闘してから、最終的に林又夏の指示で彼女のバッグの中で見つけた。


 ペンキが目に入るのを心配して、林又夏は目を細めて手を伸ばし、陳晞にティッシュを渡すように合図をしたが、中々待っていた触感を感じなかった。少しだけ目を開けて状況を確認したら、視界のほとんどが一人の顔に占められていたことに気付いた。


「えっ?」彼女は危うくバランスを崩れそうなぐらい大きく揺らいだ。向かいの人が自分の肩を掴んだことでやっとバランスが取れた。


「目を閉じて」


 陳晞は片手で林又夏の肩を支えながら、少しずつと片手に持つティッシュで彼女の髪に付着したペンキを拭いていた。完全にぬぐえないけど、少なくともそんなに目立たなくなって、家に帰った後も処理しやすくなる。


「陳晞」


「ん?」


「前も同じことがあったの。覚えてる?」


「あっ、エアコンの時のことか」


 少し屈んで、林又夏の顔にペンキが付いていないことを確認した後、陳晞は彼女の肩を軽く叩き、はしごを降りようとした。自分と同じボディソープの香りの他、かなり濃い有機溶剤の匂いもしたので、少し頭が痛くなった。


 あの時だったら今のようにはならないだろう。陳晞は少し想像した。自分の性格じゃ、よく知らない相手に自分から近付こうとはしないはず。手伝うぐらいでも難しいはずだ。例えその気はあっても、結局心の中で考えているだけだろう。


 あと一段で陳晞は床に戻れたが、彼女の思い通りにならなかった。上にいる人が彼女の手を引っ張った。彼女は困惑して頭を上げ、そしてその綺麗な瞳と視線が合った。


「陳晞、」


 その人は何かを言いたそうに考え込んで、結局投げ出したように、こう言った。


「あなたが好きです」


「えっ?」


 えっ?

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