#8 手を繋ごうか?

『山紫水明』。左側にあるのは緑の山で、右側にあるのは広大な海。陳晞がどう考えても、その古臭い四字熟語でしか目の前の光景を語れない。


 林又夏について赤レンガで舗装された歩道を踏み歩いてきた。眩しい日差しの元で、陳晞の背中が汗でびしょびしょで、ちょっと気持ち悪い。この坂道を上るのは結構大変だ。自分の普段着がカジュアルスタイルであることにひそかに喜んだ。足に履いてるのも丁度スポーツシューズだ。そうでなければ山へ向かって進み続ける気はとっくに失せていたのだろう。


 陳晞は不満そうに前方で同じような速度を維持して進めている姿を見ていた。だがその不快感は林又夏が足を止め、振り向いてきた瞬間、あっさり消えてなくなった。もし彼女がいつものような思慮の欠けた様子だったら、陳晞も一つや二つの文句を言っていたのかもしれない。なにせ外に出て遊ぶよりは、家で部品をいじったほうが性に合っている。


 淡泊とでも言うべきか?今の林又夏の表情を陳晞にはそう見えていた。


「疲れた?」


 よく見ると、林又夏の今日の服装もカジュアルスタイルで、ポニーテールまで結んでいる。多分自分が了承しなくても、一人でこんな人気のない場所へやって来たのだろうな。


 陳晞は首を振った。『ついてきて良かった』なんて考えを頭から追い出そうと試みた。良かったなんかじゃない、家にいた方が良いだろう。


「少しだけ」


「じゃどうして首を振るの?」


「そういうものなんだよ」


「手を繋ごうか?」


「はぁ?」


 陳晞の顔のまるで気持ち悪い虫でも見たような歪んだ表情を見て、林又夏はやっと笑った。彼女が嬉しくなれるのは良いことだが、その嬉しくなった原因が自分に起因するのを陳晞は好まなかった。


 林又夏は手を伸ばした。「こうすれば少し歩きやすくなるかも?」


 そうか?陳晞はその宙に浮いたままの手をじっと見つめる。どれぐらい経っていれば、林又夏の手が疲れてくるのだろう?ずっと疲れ知らずだったら、その手に取る選択肢しかなさそうだ。


 自分より細いその腕がゆらゆらと、早く決めてと促した。陳晞はため息をして、いやいや手を伸ばしたら、その手はすぐに繋がれた。


「陳晞は、もっと素直になればよかったのに」林又夏は文句を言ってるような口調で言った。


 相手の手のひらにある少量の汗を感じ、陳晞は自分の境遇もそこまで悪くないように思えた、少なくとも林又夏もこの坂道で疲れていたのを知ったから、ちょっとだけお相子な気分でした。


 この子も何でもそんなに余裕があるわけじゃないな。


 手を繋いでいるゆえ、彼女たちはお互いの歩くペースを合わすよう工夫して、そのまま山へ向かって歩き続けた。


「普通の女の子は皆こんなことをするのか?」


「どんなこと?」林又夏は陳晞の視線の先を見てる。「手を繋ぐことか?」


「うん」


「え~多分そうなんじゃないかな?」


「わからないのか?」


「自分が普通の女の子なんて思ってないのよ」


「それはそうだね」


 遠くの海面上には航行中の船が一隻あった。白い帆は風と共に揺れて、後ろには長い跡を残している。それと同時に、隣の木々にもさわさわの音が聞こえてくる。気のせいかもしれないが、こんな暑い中でも、微かな涼しさを陳晞には感じた。


 陳晞はたまに林又夏にも過去があるということを忘れてしまう。それは彼女たちが知り合った時間がそれぞれの生命の中でも、極一部にも遠く及ばないものだから。


 林又夏が他の人と接する時はどんな感じなんだろう?陳晞は記憶をたどっても、孤児院の子供たちと店長さんとのやり取りしか見つかっていない。他はすべて空白。


 一番気になるやつと言えば、おそらくは『林又夏は友達とどう過ごしていたのか』ということだ。だが自分と林又夏とは一体どんな関係なのかも確かな答えがないため、その問題を考えるのはまだ早いだろう。


『援助者』?陳晞の頭にその単語が浮かんだ、確かに自分は林又夏に手を差し伸べている、だがその三文字には何となく階級差を感じて、好きにはなれない。


「どっちかというと、あなたのほうが女の子らしいね」


「え?」


 いや、それは絶対ありえないだろ。陳晞は過去の自分を思い出した。自分はいつも男子に混ざって授業を受けていた。挙句に運動系の部活は男子ばっかりなので、身を引いて次善の映画鑑賞部を選んだ。部活で毎回退屈なロボット映画を見ているので、青春のような活動の記憶は全くない。


 放課後だって遊び相手はいなかった。一番記憶に残ったのは、張哲瀚が自転車で突っ込んできて、自分がやっと溜めたお小遣いで買ったたい焼きを奪ったぐらいか。その顔は今思い出してもぶん殴りたくなる。


「たい焼き食べたいな……」陳晞は心の中で呟いた。


 二人はやっと最後の階段を登り切って、比較的に平坦な平地に踏み入れた。


 彼女たちの目の前に聳え立つのは、百歳以上ありそうな大樹である。その木陰のおかげで額から汗たらたら流した陳晞を楽にした。もしかしたらかつて、多くの人もここに立って、彼女と同じ涼しさを感じていたのかもしれない。


 陳晞が得難い涼しさを堪能しているときに、林又夏はその手を放して、真っすぐに立って、両手を合わせた。


 突然の行動はぼーとしていた陳晞を混乱させた。彼女は慌てて同じように手を合わせた。林又夏をちらっと覗いたら、その綺麗な顔が一瞬大人過ぎたような感じがした。


「おばあちゃん、ごめんなさい。お参りに来るのは久しぶりね。今日は友達を連れてきたのよ!」


 我に返った陳晞は無意識に大樹に頷いた。


「今回の火事の後、彼女の家に泊めてもらったの。だから心配はいらないよ!元気に過ごしてるの!」


「ごめんなさい。また家を守れなかった」


「でもがんばるから、子供たちを全員連れ戻すから」


「あっちでも元気に過ごしていて、私のことも待っていてね」


 その後も、林又夏は長い間話し込んでいた。子供たちの状況を報告するほかに、少しだけ瑣事なども言及した。隣で待っていた陳晞は退屈と感じなかった。むしろこの機会に乗じて、林又夏について理解を深めた。


 なんと彼女は今年からかき氷屋の近くにあるたい焼き屋でアルバイトを始めたのだ。これは陳晞にとって少し意外だった。だがよく考えると、気づかなかった原因は、単に自分が今年でまだ一個もたい焼きを食べてないからだ。


 あの店には色んな種類の中身があるんだな。陳晞が一番好きなのはアイスクリームで、店長はたまに抹茶を選んでいる。次に行く時はどんな中身のたい焼きにするのか考えていた頃、林又夏はすでに手を下ろした。


「もう終わり?」


「うんざりしてた?」


 そんなことを直接聞く人なんていないよ。


「いや、ただまだ何か言いたいことがあれば続けてもいいよ。私のことは気にせずに」


「それじゃできないね。あなたのことが気になるから」


 そんなことを言う人もいないよ。


 陳晞は密かにため息をして、「もう行くなら行こう」と言った。彼女は振り向いて、率先して歩き出したが、後ろにいるあの人に手首を掴まれた。


「もし私のことを普通の女の子と思うのなら、私が言った『普通の女の子がすること』を信じてくれる?」


「……多分」


「では、抱きしめてくれませんか?」


「はぁ?」


 光を背にしている林又夏の表情を陳晞にはよく見えなかった。それでも笑っているわけではないのはなんとなくわかる。


 手首から伝わる冷たさは、陳晞を驚かせた。天気はこんなにも暑く、二人もさっきまでは汗を流していたのに、今の林又夏はまるでスーパーの冷凍食品コーナーから出てきたように冷たい。


「もしかしたらこれが普通の女の子がすることかもしれないよ」


 本当にそれを信じたというより、今はそうしなければいけないような気がした。陳晞は軽く自分の手首を掴んでいた林又夏の手を引き離して、この自分より小柄の女の子を抱きしめた。


 周りからセミの音が聞こえ、陳晞は今更ここに来た途中、この大自然に属する声を無意識に無視していたことに気づいた。


 林又夏の後ろにあるのはその青い海だ。きらめいた海を見て、陳晞は昔先生が特別に説明したことがあることを思い出した。海は実は青色ではないのだ。人類の目が見えるのはその散乱や反射した一部の光だけだ。海の深いところに潜れば潜るほど、見えてくる青い光はもっと増えてくる。


 もし知り合った時間が増えれば、もっと林又夏のことが分かるようになるのではないか?彼女は思わずそう思った。


 木陰があるのは幸いだった。でなければ今頃暑さに耐えきれず林又夏を突き放しただろう。なぜ『幸い』という言葉を使ったのか、陳晞にもよくわからなかったが、その言葉が頭の中に浮かんだタイミングは嫌いではなかった。


「私ね、あなたに出会えてよかった」


 自分の肩が濡れているのを感じて、陳晞は何かを言いたかったが、こんな状況で何を話せばいいのかわからなかった。仕方なく手を挙げて、日差しの余熱が残っている林又夏の頭を軽く撫でていた。


 女の子と付き合うのは本当に難しい。


 帰り道では、林又夏は陳晞の肩でぐっすりと眠っていた。陳晞は少し角度を変えて、熟睡してたあの子がガラス越しの太陽に当てられないようにした。


 また少し『がたんごとん』の音はするが、動力システムの更新のおかげで、今MRT運行時の雑音は昔に比べてはるかに小さくなっているし、揺れもかなり軽減されている。なので林又夏が起こされることはなかった。


 陳晞は目を閉じて、放送で次の駅名を知らせてくれる女性の機械音声はいつの間に周囲に溶け込んで、ホワイトノイズと化していた。


 父方の祖父母は自分が物心つく前に亡くなっていたけど、母方の祖父母は健在だ。ただ少し遠いところに住んでいて、母も仕事で忙しいため、陳晞は彼らのことがそれほど知ってはいない。


 とにかく、彼女にはまだ真に家族が亡くなった苦しみを感じたことがないから、林又夏の感情に共感することはできない。だが一人の人間としては、生活で一番つらい出来事を想像し、それを千倍ぐらいにすれば、もしかするとその苦しみの万分の一ぐらい分かるようになるかもしれない


 そんな状況下で、陳晞には林又夏の言った『友達を連れてきた』という言葉に反論できなかった。


 まるでその見知らぬお婆さんが目の前にいるように、陳晞は良い子のように、心の中で挨拶をし、自己紹介の中で『又夏の友達』と付け加えた。陳晞が林又夏の名前を呼ぶのは多分これが初めてで、例え口に出していなくてもだ。


 林又夏を抱きしめる間、陳晞は多くの質問をしなかった。ただ相手が自分の肩で涙を流すのを任せていた。微かに林又夏が何を言っているのかを聞こえたような気がしたが、詳しく聞こうとせずに、ただ宥めてる動きを続けた。


 どの道聞きたいことはこれだけではないし、いずれ一緒にはっきり聞けばいい。


 彼女は心の中で車を降りた後のスケジュールを考えていた。まずはかき氷屋に行って店長の今日の調子を見て、その後は林又夏を連れて日常用品を買いに行く。


 それと銀行にも行かないといけない。携帯電話も買っとかないといけない。やるべきことは山積みだ。普段の陳晞はこのようなスケジュールは好きじゃなかったが、今日は特に鬱陶しく感じなかった。ただ心の中でやるべきことと必要な時間をリストアップして、さらに頭の中で一番近いルートの地図を描いた。その最後の目的地は彼女の家でした。


 MRTの列車は止まったり走ったりして、女性の機械音声が再び鳴り、今回の言葉は彼女たちが下りるべき駅だ。


 陳晞は気を付けながら林又夏の額にかかる茶色い髪を払いのけて、「又夏、そろそろ起きて」と言った。


 女の子と付き合うのはやはり難しい。でも頑張ればできなくもないようだ。

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