#6 帰る場所
「うわっ!」
長い廊下と壁に掛けられた油絵に感嘆の声を上げていた林又夏は、目の前の人物が突然立ち止まったせいで、その背中に頭をぶつかってしまった。
林又夏は痛みに耐えかねて手で自分の額を覆い、振り向いた陳晞は申し訳なさそうで恥ずかしそうな表情をしていた。
「ごめんね、ちょっと外で待っててね」
部屋のドアノブを回すと、陳晞は中が見えないほど小さな隙間に素早く潜り込み、ドアをバタンと閉めた。林又夏の「え?!」という戸惑いの声を外に閉め出された。
部屋を念入りに見渡した陳晞は、普段自分をあまり甘やかさないことを心の底からよかったと思った。母の潔癖症のおかげで、散らかり具合も抑えられていた。
陳晞は今朝履かなかった靴下と、昨日乾燥機から出した下着をすべて抱え込んで、タンスに放り込むつもりだった。
すると、足の裏がピリピリした痛みに襲われ、声を上げてしまった。
「あ、痛っ……!」屈んで足の裏を見ると、色白の足の裏に一本のネジがついていた。
ドアの外から「どうしたの」という林又夏の心配そうな声が聞こえてきた。
陳晞は頭を振り、ネジを部品箱に入れた。数秒後に、どんな表情と動作をしても、今の林又夏は見えていないと気づいた。
「大丈夫だよ」
「あの、陳晞」
ドア越しの声はかなり小さくなっていたが、林又夏の言葉に含む言い淀みははっきり聞こえていた。
「はい?」
テーブルの隅に散らばっていたドライバーとレンチを手に取り、陳晞は工具箱に向かう途中、先ほどしまった部品箱を蹴った。金属部品がぶつかり合って雑音を立てて、林又夏のくぐもった声と混ざり合った。
「ちょっと怖いよ」
え?あ……あっ!そうだね!
陳晞は自分の頭を強く叩いて、まだ整理されていないベッドや机を無視して、速攻でドアを開けに行った。
微妙な表情をした林又夏が見えた。その表情の意味を読み解くことができなかったが、陳晞は思わず「ごめんなさい」という言葉を口にした。
「なんで謝るの?」林又夏は笑い出した。
陳晞は口をとがらせながら、なぜこの子は今、平気な顔をしていたのだろうと思った。
陳晞はドアを開け、林又夏に向かって「どうぞ」と言った。
今日、林又夏が火事に遭い、その影響で数人が入院したことを陳晞は忘れていた。何も言わなかったとはいえ、火事の時、どうしていいかわからず、強い恐怖を感じていただろうか。
そんな人を電気がついてない廊下に放っておくなんて、たとえ心無い人でもそんなことをしなかったと思う。複雑な心境で自分の部屋に入る林又夏を見ながら、陳晞は心の中で自分を叱った。
林又夏は部屋を見渡し、振り返って「陳晞、可愛い部屋だね」と笑顔で言った。
「え?」
その場で固まった陳晞はぽかーんとしながら林又夏を見ていた。あのピンクの部屋着は、部屋の堅苦しさとは相反するものだったが、懐かしいという気持ちがじわじわ湧いてきた。この感覚がどこから来たのか、自分にはよくわからないし、どこに答えを求めればいいのかもわからなかった。
「青が好きなんだね?」
「私か?」
シーツもカーテンも、そして壁の塗装もすべて青なのだから、そう思われるのも無理はない。子供の頃、母がピンクの服や日用品を買ってくれたこともあったが、いつからか部屋が青で埋め尽くされるようになった。塗装も去年、張哲瀚に無理を言って塗り直しを手伝ってもらった。
小学生の頃だろうか?機械使いは青に似合うと何となく思っていた。頭の中を探った結果、陳晞はこんな馬鹿げた答えしか思いつかなかった。
「うん、すごく綺麗だよ」
「そうなの?」
「そうだよ、とっても綺麗」
陳晞はしばらく考えたあと、最後に「じゃ好きだ」と言った。
パソコンチェアを引いて林又夏を座らせると、陳晞は腰をかがめて邪魔な箱を隅に押し出して並べて、散乱した数冊の本を元の場所に戻した。
林又夏が見ていないうちに部屋の隅の埃を取ろうと思ったが、そんな機会がなかったので、そのまま無視した。
それは林又夏がずっと陳晞を見つめていたから。
「あの、どうしたか?」
「何でもないよ」林又夏は顔を横に振った。「あなたの家に来させてもらって、すごく嬉しいと思ったんだ」
「大したことじゃないよ」
「あなたのそういうところが好き」
タンスを開けたとき、陳晞は靴下や下着を自分でタンスに詰め込んでぐちゃぐちゃにしたことを思い出した。タンスの中が散らかってしまった。林又夏が覗くことはないだろうと思いつつも、懸命に体を張って中を見せないようとした。
陳晞は引き出しの一つを開けて、タオルを二枚取り出した。もう一つ開けて、そして手には二、三枚のガサガサ音がするしたプラスチック包装の服を持った。最後にタンスを閉めるとき、陳晞は林又夏にできるだけ中の惨状が見えないように閉めた。
「これはきれいなタオル」陳晞はそう言って、手に持ったものを全部林又夏に渡した。「これは新品の下着とパンティだ。しかし、あなたのサイズが分からないから――」
そう言いながら顔を上げると、陳晞は初めてあることに気づいた。
セーラー服とシンプルなTシャツの他に、林又夏が別の服を着ているところを見たことがないのだ。なにしろ知り合ってまだ日が浅いのだから。
火事から逃げ出したとき、何も持ち出す時間がなかったし、着替える暇ももちろんなかった。それゆえ、林又夏は室内着を着ていた。しかも、ちょっと体のラインが出る服だった。
道理で受付で子供たちの入院手続の対応をしているとき、病院の常連に見えた何人かのおじさんの視線を集めた。陳晞は彼らが女性三人の組み合わせに戸惑っているだけだと思い、特に気にも留めなかった。
顔だけならまだしも、なんでスタイルも……。
陳晞はため息をついて、「サイズが多分合ってないだが。とりあえずそれで我慢して、明日、私たちで一緒に買いに行こう」と言った。
「私たち?一緒に?」林又夏の口調は少し激高したように聞こえた。
この二つの言葉は何のキーワードなのだろうか?陳晞は、なんか林又夏の頭上に耳と、後ろで揺れる尻尾が見えるような気がした。
「うん」
そして、陳晞は買ったはいいがまだ着ていないTシャツを見つけた。大きすぎるような気もしたが、お客さんにお古を渡すのは恥ずかしいので、林又夏に着させてあげた。
「どうせ、『私たち』、明日は『一緒に』買い物に行くんでしょ?」林又夏は色んな服やタオルを持ちながら、嬉しそうに言った。
「……うん」
これは一体どんなスイッチが入ったのだろうか?
準備が整ったことを確認すると、林又夏をバスルームに案内し、棚にあるボトルや瓶を指差して説明した。
「シャンプーとボディソープにコンディショナー。あと、これは洗顔料ね。あ、ごめん。これ以上の美容グッズがないんだ。何か必要なものあるかな?母さんの部屋で探してみるよ」
言い終わると、陳晞は林又夏の反応を見ようと振り返り、そばにいる人がどうやら話を聞いていないことに気がついた。
彼女はまた自分を見つめていたから。
「ど、どうした?」
「たくさん話してくれるのが、とってもうれしいの!」
「はぁ?」
「もう一回説明してくれる?聞かせて!」
「……やだ」
陳晞は断固として振り向き、林又夏が自分を追いかけて出てくる前にバスルームのドアを速やかに閉めた。
「へええ、そんな!」ガラス戸の向こうから林又夏の声が聞こえてきた。「じゃ一緒に一緒にお風呂入ろうか?」
「やだ!」
小柄な女性に自分の服を着せてはいけない、それは陳晞が十六歳の時に学んだ教訓だった。
バスルームのドアが開くと、ベッドの端に座った陳晞は慌てて目をそらした。ショートパンツを渡されたのに、なぜ下半身は何も履いていないように見えるのだろう?それは間違いなく、上に着ているオーバーサイズの服のせいである。
「陳晞、ドライヤーを貸して」
林又夏はタオルで髪を揉みながら、陳晞に向かって歩き出すと、陳晞がベッドから飛び上がり、引き出しの中のドライヤーを驚異的な速さで取り出した。
部屋は轟音に包まれて、陳晞はその隙に「私もお風呂に入ってくる」と小声で言った。
陳晞は慌てて鼻についた香りを洗い流した。自分が毎日使っているシャンプーなのに、なぜか林又夏が髪をブローするとその香りはいつもと違うような気がした。
それが陳晞をそわそわさせたが、実際に自分の気持ちを表現するとしたら、どんな感覚なのか言い表すことはできないだろう。
とにかく、お風呂に入ろう。
※
林又夏を廊下の反対側にある客間に案内し、水を入れたコップを渡したあと、陳晞は自室に戻った。
ベッドに横になってから本当にリラックスした。朝早くから走り回っていたような気もするが、よくよく考えると自分が何もしていないような気もした。
疲れというより、無力感が大きかった。それがどこから来たのかというと、おそらく自分が何もできない時に、自分は確かにまだ何もできない子供だということにふと気づいたから。
普段はあまり頼りにならないが、それでも店長がいてくれることが幸いした。病院の手続きも、警察との会話も、ほとんど店長が大人の対応をしてくれて、かなりの手間が省けた。
そして、林又夏に対する認識は当初の『変人』から『感心させる変人』へと変わっていった。結局のところ、彼女はまだ変人だ。少し見た目が良い変人なのだ。
指パッチンを鳴らすと電気が消え、陳晞は劣等感を抱くのを明日に取っておくことにした。
体をリラックスさせると、急に疲れが意識を飛ばし、瞼が鉛に繋がれたように感じた。陳晞はほどなくして、暗闇の中で光る青いナイトライトが見えなくなった。
陳晞は自分がかなりの間眠りについている気がした。寝ている途中、夢を見ていた。夢の中で、自分は林又夏とまったく同じ制服を着ていた。
その夢では、二人はクラスが違うが、いつも校庭で会っていた。中庭を、運動場を、廊下を、二人並んであちこちを歩いた。夢の中で林又夏と過ごす一瞬一瞬に陳晞は心が安らいだ。たとえそれが夢だと知っていても。
林又夏が泣きながら自分を引き寄せて抱きしめたところで、夢は終わった。彼女がなぜ泣いているのか、陳晞にはよくわからなかった。夢から覚めてしまった以上、聞く術もなかった。
目を閉じていれば、また同じ夢を見ることができるかもしれないと思い、陳晞は目を開けなかった。
陳晞のどこが機械使いらしいというのか、両親でさえその答えはわからなかったが、おそらく最もそれらしい部分は、とことんまで調べ上げる性格だろう。なぜ林又夏が夢の中で泣いたのか、そして自分の心の痛みはどこから来たのかを知りたがっていた。
朦朧とした意識の中で、ドアが開けられたことに気づいたが、陳晞は平然としていた。何しろ、父親がこの家のセキュリティシステムを設計したのだから、何も問題は起きないはずだ。
両親が出国したばかりの一週間は、彼女は夜中にわずかな気配が感じただけでも家の中を巡回していたが、結論から言うと、涼しい夜風が吹き抜けるだけであった。幸いなことに、このことを知る人は誰もいなかった。いたとしたら恥ずかしくて顔を赤くしていただろう。そのおかげで陳晞は大したことではないと騒がなくなった。
しかし、やがて彼女はそれを無視することができなくなった。あの心を掻きまわした香りが、あっという間に鼻についた――誰かが布団の中に入ってきたのだ。
陳晞が口を開こうとすると、背後から伝わってくる温もりでその思考は中断された。懐かしさがよみがえったが、今度はそれがどこから来たのかがわかった。それは夢の中の抱擁と同じ温もりだと、陳晞は思った。
林又夏は陳晞が目を覚ましたことに気づいていないようで、自分より少し大きな体に身を寄せ、額をわずかに湾曲した背中に軽く当てた。
「ごめんね」彼女はささやき声で言った。「でも、もう一人は嫌なの」
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