#5 熾火(おきび)
真っ昼間、青春真っただ中で元気いっぱいのはずの少女が、ダブルベッドに仰向けに寝転がり、そばにあるスマートフォンの画面にはメッセージアプリのトーク画面が表示されたままになっていた。出かける準備がほとんど終わって、あとは靴下を履いて準備万端になるとき、店長から『今日は休んでいいよ』というメッセージが届いた。
店長の普段のメッセージにはたくさんの絵文字が含まれて、店長の普段の表情そのものだったから、トーク画面越しでも実際に話しているように思えたが、今日はショートメッセージで一文送ってきただけだった。陳晞は熟考して理由を聞こうと考えたが、個人的なことかもしれないと考え直し、最後は『わかりました』とだけ返信した。
結局のところ、彼女は店長なんだから、店を開けるか開けないかは彼女次第だ。
陳晞は魔法使いが羨ましいと思うことがあった。魔法使いの方が機械使いより仕事の幅が広いからだ。機械使いは魔法使いにとって、ほとんどの場合が補助的な役割だ。例えば、陳晞の母親はかき氷屋の冷凍庫全体の設計や、たい焼き屋のたい焼き器のリニューアルをしたことがある。
機械使いが商売を始めようと思ったら、せいぜい金物屋の主人になるくらいしかできないと陳晞は推測した。近くの金物屋の店主というと、つるつるのカッパ頭とマグロのような肥えた腹が思い浮かび、陳晞は思わずは震え上がった。
そんな腹にならないように、ジョギングに行こう。
元々はバイトに行くつもりだったので、ゆったりとした動きやすい白いTシャツに、運動用の短パンを履いていった。特に着替えることなく、スポーツソックスを手に取り、ポニーテールに結んだ。
玄関に座ってランニングシューズの紐を結んだ後、陳晞は立ち上がって「よし!」と声を上げた。
陳晞は頭を振りながら、自分の行動をふと少し恥ずかしく思った。
試験勉強のストレスがキャパオーバーになる時、家で大音量の音楽を流すだけではどうにもならないなら、陳晞は自宅近くの歩道をジョギングする。このコースでジョギングできる距離は結構長い。信号がいくつかあるのが面倒であることを除けば、ジョギングにぴったりだった。しかし、白昼にジョギングをするのは初めてで、この地に十五年住んでいる陳晞にとっては非常に新鮮だった。
呼吸を整え、陳晞は陽光に晒されながら初めての朝ジョギングを始めた。外は天気が良く、蝉の鳴き声も聞こえてきて、自分の判断が正しかったと嬉しくなった。
陳晞はいつもの交差点に差し掛かった。急いで渡ろうか躊躇したが、
水筒を持ってこなかった自分を責めながら、陳晞は目の前の光景に少し戸惑った。
「え?」陳晞は思わず声を出してしまった。
蝉の鳴き声はいつしか止み、代わりに遠くからサイレンの音が聞こえてきた。何台もの消防車や救急車が残り八十秒の赤信号を無視して猛スピードで陳晞の左側から風のように通り過ぎ、夏の風の代わりに彼女の前髪を揺らした。
鼻が微かに焦げ臭い匂いを嗅いだ。陳晞はどこから匂いが漂ってくるのを探ろうとした。遠くから黒煙が立っていて、それが消防車の向かっている方向と同じ、そして匂いもそちらから漂ってくることに気づいた。
孤児院もかき氷屋もその近辺にあった。
陳晞は顔をしかめた。手のひらに滲んだ汗は、走ったからではなかった。
いや、そんな偶然があるはずない。
赤信号は残り五十秒、一桁が少なければと思った。
そして、陳晞は深く息を吸い込んだ。
しばらく消えていたあの感覚が、また戻ってきたのだ。見えない手が力強く陳晞の胃を握り、残りの内臓を掠め取るかのように引き抜いた――いや、『また』ではない。今回は前のものよりも痛く、陳晞は次の瞬間に自分が血を吐いてしまいそうだと思った。
陳晞は膝をついて、片手で地面を押さえて、もう片方の手で腹の位置の生地を掴んでいた。大きな汗の粒が頬の横を伝って、それまで乾いていた歩道のピンクの舗装用タイルを濡らした。力強く息を吸って、陳晞はそれで不快感を断ち切ろうとしたが無駄だった。痛くなるほど力を入れても、呼吸がますます困難になった。
今度こそ林又夏はいない。そう思いながら陳晞は気をしっかり持たなければならないと考えた。ここで倒れてしまったら、誰も助けてくれない。電柱につかまって、必死に立ち上がると、ぼやけた視界の中で、小紅人が緑色に変わっているのが見えた。
『確かめに行かなきゃ』その思いが陳晞の騒がしい頭の中で渦巻き、考えるまでもなく、陳晞は帰宅という選択肢を捨てた。
足を引きずって横断歩道を渡り、数ブロック進んだところで、陳晞はサイレン音の発信源に近づいた。時間が経つにつれて、体調は少し回復してきたように見えたが、痛みの感覚は相変わらず不快で、胸元の起伏も収まる気配がなかった。
勝手に出る涙でぼやけた目で見ると、次の交差点に人だかりができており、その人だかりがサイレン音と音量を競うかのように騒いでいるのがわかった。
陳晞は不快感をこらえ、人だかりに無理矢理近づいた。このとき、痛みで流れていた汗が冷たくなり、電気が走るような刺激が背中を伝い、頭まで響いた。
錆びたドアの前に群がる幾重にも重なる人たちを押し分け、封鎖を潜り抜けようとするが、鋭い目をした消防士に阻まれた。
「何してるんだ?!中は危ないぞ!」
熱さで陳晞の目の水分が蒸発し、彼女は自分を掴む消防士の腕を振り払った。その力強さに彼女自身も驚いた。
「知り合いがここに住んでいる。私は――」陳晞は消防士の視線にさらされ、それ以上何も言えなかった。
自分の行動が無謀なだけではなく、他人に迷惑をかけたことに気づいた陳晞は、何度か深呼吸をして落ち着こうとした。
「わかっている」
消防士はあまり咎めず、孤児院の中庭を指差した。そこには防火服を着た数人の消防士がホースを持って、窓から出る炎を消していた。以前は白かった枠が、今は焦げて黒ずんでいた。
陳晞が質問する前に、消防士は続けた。「何人かの子供は市立病院に運ばれているから、ここであたふたするよりも、あそこに行ったらどうだ?」
※
自動ドアが開くと、消毒液の刺激臭が鼻をついた。髪も服も汗で湿ったまま病院に入った陳晞は冷房のせいで、あとで風邪をひくのではないかと思った。
急ぐあまり、ファイルを持っている看護師を呼び止めてしまい、少し失礼な会話をしてしまったが、看護師はあまり気にする様子もなく、親切に救急外来への道を教えてくれた。
真っ白な廊下の先には、赤いランプのついた大きな鉄製の扉があった。
自分の記憶の中では、陳晞は病院の中に入ったことがあまりなかった。毎日勉強に明け暮れるガリ勉ではあったが、幸いにも大きな病気にかかったことはなかった。最も重症だったのが一、二回の高熱であり、それらも診療所で解決した。そのため陳晞はいつも家族内の高齢者たちから「手のかからない子」と褒め称えられた。
壁沿いにベンチが並んでいて、鉄製の扉の近くには見慣れた人影が二つあった。
陳晞はまるで走るようになって――さっきのジョギングよりもずっと速く、二人向かって駆け付けた。
「えっ?!」
ベンチに腰掛けていた林又夏は気づかないうちに、陳晞に抱きしめられた。
室内着に身を包んだ林又夏は、袖口やズボンに黒いすすのような跡があり、色白の頬には灰がついた。幸いなことに手の擦り傷以外、大事に至らなかったようだ。
しばらく経ってから陳晞に抱擁されっぱなしの林又夏は恐る恐る声をかける。「あの、陳晞……」
「晞ちゃん、又夏が窒息しそうだよ」
陳晞は一瞬固まり、恥ずかしさのあまり手を離し、一歩下がった。その場にいる誰もが、彼女の頬が赤らめているのがはっきりと見えた。
「店長?」
陳晞が少し落ち着いてから、店長は自分がここにいた理由を説明した――彼女も夏の日孤児院で育った者だ。これも、魔法使いである店長が機械使いのブロックに住んでいる理由だった。
今日店を休んだ理由は、放火の予告電話を受けたからだ。相手はボイスチェンジャーを使っていたようで、男か女かわからず、真偽のほどが疑われた。
店長は安全確保のため、孤児院を見に行くことにした。しかし、孤児院に着いたときにはもう手遅れだった。炎の勢いが激しくなり、結局、店長と林又夏が救出できたのは数人の子供だけで、あとは消防士に託した。
今は全員が救出され、重傷の子供は治療後に病室に運ばれ、無傷の子供は社会局に一時的に引き取られた。現在は怪我をした子供一人がまだ緊急手術を受けている。
店長は自分が孤児院育ちであることも、店を休んだ理由も、陳晞に隠そうとしたわけではなかったが、特に打ち明けることはなかった。
「どうせ知りたくないんでしょ?」と店長がからかった。
陳晞は何か言い返そうと思ったが、口をつぐんだ。自分ができることは何もないとわかっていて、たとえ知っても何の役にも立たないからだ。
『それに、私はそんなに冷たくないんだよね』陳晞は心の中でそう思った。
林又夏は鉄製の扉に一番近いところに座り、心配そうな顔をしていた。扉が開くと、林又夏は真っ先に立ち上がったが、出入りする看護師はみんな彼女を無視し、ファイルを持って慌てて出て行くだけだった。
そんな時、何と言えばいいのだろう。陳晞が答えを考えてみたが、このような状況に対する経験がなかったので、どれもおかしいと感じた。
陳晞は林又夏の膝の上にある彼女の両手を見ていた。
彼女の手を取ったほうが、良くなるのだろうか?
その答えが出る前に陳晞は手を伸ばして林又夏の手を握り、手のひらから冷たい感触が伝わってきた。林又夏は驚いたように彼女の方向を見たが、陳晞はただ微笑んで、そうすることで自分が醜く見えないようにと静かに祈った。
「大丈夫だよ」
緊急手術は数時間続き、陳晞たちがようやく医師に会えたのは深夜だった。
医師は三人に状況を説明した。林又夏は真剣に聞いてはいるものの、内容を理解できていないようだった。陳晞が彼女のそばで代わりに医師の言葉をスマートフォンでメモを取り、対応は全て店長に任せた。
「全体として手術は成功しましたが、まだ数日間入院して経過を観察する必要があります」医師の総括の言葉に、林又夏は大きな安堵感を覚えた。
「よし!」店長は二人の少女の肩を持ち、そして「じゃあ、晞ちゃん、又夏のことはあなたに任せるわよ」と言った。
「え?」
「はぁ?」
二人が同時に疑問の声を上げたことに対して、店長は『ハハッ』と笑い出して、救命救急センターにいた他の人たちの注目を集めた。自分の失態を自覚した店長は、他の人たちに申し訳なさそうに頭を下げて、声を小さくした。
「そうしないと、又夏はどこに泊まるの?」
「いや、店長の家も――」
「私は小さくて質素なスイートルームに住んでるんだけど、あなたの家はトイレさえ何か所もあるんじゃないの?」
それは真実であり、陳晞は少しも反論できなかった。
「お友達が泊まりに来ると思えばいいんだよ~」
恥ずかしそうな表情の林又夏を見て、陳晞は再び『友達』という言葉を否定したくなる衝動を抑えた。今だけだ。今だけ、彼女に嫌な思いをさせてはいけない。
「わかりました」陳晞は店長の腕から抜け出した。「先に家に帰って必要なものを取りに行く?」
「え?もの?」
「え?」
今度は林又夏と店長が戸惑っていた。
二人の頭の上のクエスチョンマークが浮かんでいることも露知らず、陳晞は瞬きをした。「……使いたいものがあるんでしょ」
店長は笑いをこらえるのに必死で、その場でプッと吹き出すのではないかと思うほど顔を真っ赤にしていた。林又夏もそれほどはっきりではなかったが、笑い出した。
彼女は頭を振っていて、茶色の長い髪がなびいた。
「私の家、ついさっき燃えちゃったのよ?」
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