#3 夏の日 II
三十分が過ぎた後、陳晞は眠りから目を覚ました。林又夏が部屋に戻ってくる時、彼女の様子はすっかり普段と同じ状態に戻っている。とはいえ、陳晞も何が彼女の『普段の状態』なのかは断定できない。知り合ってまだそんなに経っていないのに、決めつけるのはまだ早い。
「もう少し寝る?」陳晞がさっき目覚めたことを察して、林又夏の声はさっきより柔らかくなった気がした。ドアの開け方もとてもゆっくりだ。
「ううん、多分もう大丈夫だ」
「よかった、後で家まで送るね。まだお粥食べる?少し残ってるから、食べるなら温めるけど」
「ううん、大丈夫」
「やっぱり不味かったかな?」
「ううん、そんなことない。おいしかったよ」
「よかった。ちょっち待っててね」
林又夏は白いクローゼットを開けて、柔軟剤の香りがする衣類を別々の段に収納した。
わざとではない。いや、もしかしたらわざとのところが少しあったかもしれない。そう、ほんの少し。陳晞は林又夏の行動を見て、手足の間から、彼女の服の種類を観察したい。
陳晞は自分にこのやり方が理に適っていると言い聞かせた。制服、及び林又夏が今着ているTシャツとジーンズ以外、彼女が他の服を着たところを見たことがなかったから。おかしな目的なんて絶対ないのだ。
壁に掛かっている時計を見ると、その背景にはピンクのハートがいくつか描かれていた。時針は八時を指していた。もし昔だったら、こんな時間に帰ったら確実に母に叱られていただろう。
林又夏が衣類の整理を終えると、陳晞は我に返ってそう言った。「ごめん、もう起きるね」
陳晞が慌てて布団をめくる様子を見て、林又夏は思わず笑ってしまった。プレッシャーを与えたくないからか、机の前の椅子を引いて、落ち着いた様子で座った。
「別に急いでないし。必要なら、一晩泊まってもいいよ」
「いや、すぐ起きるよ」
陳晞は起き上がると、シワだらけになった服を正して、気絶した時にポケットから落ちたスマートフォンと財布をリュックに入れていた。林又夏は顎を椅子の背もたれに乗せ、その綺麗な目を見開いて、陳晞の一挙一動を観察していた。
元々、林又夏に拾ってくれたことのお礼を言いたかったのだが、陳晞は突然大事なことを思い出した。
「そうだ、お父さんとお母さんに挨拶しなきゃ」
「あ、それはいらないよ」と林又夏はまるで想定済みのように、淡々とした口調で言った。「親はここにいないから、遠慮することはないよ」
「そうなんだ」
他人の家庭のことは、深入りしないことが一番だ。陳晞も両親が不在だからこれが可笑しいと思わず、ただ頷いた。
「陳晞、『ううん』をよく使うよね」
陳晞は手元の動作を数秒止めながら、頭の中で自分の言動を思い出し、林又夏の言う通りだとわかったが、思わず「そうなの?」と言ってしまった。
持ち物を整理して、忘れ物がないことを確認すると、林又夏が先に立ち上がり、ドアノブを回した。外から子供の遊び声が部屋の中に聞こえてきて、リュックを背負った陳晞はちょっとビックリして、まさかこの家は防音が良くないのだろうか、町中の子供たちが遊んでいる声もはっきり聞こえるのだろうか?
「階段がちょっと急だよ」林又夏は木の階段の前で足を止めて振り向き、右手を伸ばした。「手を貸そうか?」
陳晞がためらっている表情を見て、林又夏が細い指を少し動かした。
ここで手をつなぐべきか、それとも断るべきかを考えていると、陳晞はまだ自分がぼーっとしていることに気づいた。寝ぼけている自分が事故に遭ったら、仕事も新発明の製作もできなくなるから、陳晞は大人しく林又夏の手を握った。
「よろしくね」
今度は初めて出会ったときより実感が湧いていた。もしかしたら、少し長く触れたからか、それとも次の瞬間に他の場所に移動しなかったからか、少し小さいその手の温度が熱かった。熱かったものの、陳晞は決して嫌いではなかった。
林又夏の能力は一体何なのだろう?まさかテレポーテーションみたいな能力?なんとなくそれだけのものじゃないと思った。もし彼女にそんな能力があったら、自分が気絶する時に瞬時、家に移動することができるので、陳晞はその発想を否定した。
木の階段は陳晞と林又夏が歩く度にギシギシ音がした。どうやら修理がされていないようで、林又夏の部屋とは雰囲気が違った。
足が階段から降り切った瞬間、つないだ手が離れ、陳晞が顔を上げた。目の前の景色に、彼女は一瞬にちょっと惜しい気持ちを忘れさせた。
リボンを蝶々結びにして髪をポニーテールにした女の子が林又夏のもとへやってくると、彼女の太ももに抱き着いた。
「又夏姉ちゃん!
女の子が指す方向を見ると、リビング――いや、リビングというよりここの広い空間はまるで幼稚園だった、そして、陳晞の目の前に広がる景色は間違いなく幼稚園そのものだった。床でおもちゃで遊ぶ子がいれば、ソファで絵本を読んでいる子もいた。この光景を見て、陳晞は子供の頃の自分を思い出した。当時は親しい友人もいたようだ。
この空間には十一、十二人の子供がいて、一番大きな子を目測しても、小学校高学年は越えないだろう。そして、全員が女の子だった。陳晞が不思議そうに林又夏を見ると、彼女は女の子の頭を撫でながら、満面の笑みを浮かべていた。
「
「そんなことしてないよ!」小庭という子が抗議しているようだ。
残りの子供たちは林又夏の声を聞いて、していることを止めて、自分達のお姉ちゃんの方向を見た。その表情はとても嬉しそうだった。
多くの視線を浴びた陳晞は居心地が悪くなり、両手はリュックの肩ベルトを握っていた。林又夏と顔を合わせるだけで自分に気を使わせてしまった。今、目の前には小さな女の子がたくさんいるので、どうすればいいかわからなかった。
子供の相手は、苦手だ。
女性の相手は、苦手だ。
女の子の相手は、もっと苦手だ。
陳晞が少し困ってるのに気づくと、子供たちを宥めた林又夏は再び陳晞の手をつないだ。
おもちゃで遊んでいるショートカットの子が何かを思い出したようで、陳晞を見て大声で言った。「あ!又夏姉ちゃんがこっそり連れてきたお姉ちゃんだ!」
「違うよ、ヒロインが救った美女だよ!」
「ヒロインって誰、美女って誰?」
林又夏が一階に下りたから静かになった空間が、あっという間にまた賑やかになった。子供たちはガヤガヤと自分の言いたいことを言って、陳晞も自分に対するいくつか質問を聞いたが、答えるべきか無視するべきかわからなかった。
「はい、ぺちゃくちゃしゃべらない。このお姉ちゃんは家に帰るよ」林又夏が陳晞の手を引いて、前に行くようにジェスチャーした。「
ソファに座って本を読んでいて、他の子より少し大きな子が頷いて、二人を見送った。
※
陳晞は錆びた鉄のドアのカギをかけている林又夏の後ろ姿を見て、心の中では電子ロックに交換してあげるべきかの他に、何を聞いて何を聞いてはいけないか考えていた。世間知らずの人もわかるだろう。両親がいなくて、子供たちと一緒に暮らしているということは何を意味する。陳晞もわかっていた。
カギをかけた林又夏がこちらを向いて、陳晞に「行こう!」と言った時の表情は特におかしなところはなかった。
林又夏個人については謎が増えるばかりだった。頭の中はクエスチョンマークだらけだったが、知り合って間もない友人ならごく当たり前のことかもしれない。どこまで聞くことができるのだろうか?林又夏の後をついて行きながら、何度もこの問題を考えていた。
「びっくりした?」林又夏が先に沈黙を破った。そのとき、陳晞は二人でいるときは必ず彼女が先に口を開いていたことに気が付いた。
「しなかったと言ったら、嘘になる」
「そうだね、陳晞のそういうとこ好きだよ」
「え?」
陳晞は少しの間、その言葉に驚き、疑問に思った。間もなく林又夏が続いて言った。
「あそこは孤児院で、私の家、子供の頃から暮らしていた場所なの。院長おばあさんが亡くなった後、引き受ける大人がいなかったから、私があの子たちの面倒を見ることになったの」
このとき、何と返事すればいいのだろう?『ええ?』や『うんうん』ならどうしても失礼になってしまう。陳晞は頭の中の辞書を調べて、口を開いては閉じた。最後に出てきた言葉が「そうなんだ」しかなかった。
「そうなの。ここは無能力者の子供たちを預かる孤児院。だから、大丈夫だよ。暴走したりすることはないから」
「うん」『怖いって言ってないと思うけど?』という言葉を引っ込めた結果、一音節で答えることになってしまったが、幸い、林又夏はあまり気にしていないようだ。
陳晞はこれまで自分の生活が不自由していないことが、当然のことではないと理解していた。高所得の両親のおかげで庭付きの家に住み、生活費と学費に悩まされることはない。アルバイトは自分がしたいことのためだ。これらのものは自分が恵まれているから得られたものだ。
それゆえ、林又夏に対してどう返事すれば妥当で、自分が同情しているように感じさせないのがわからなかった。
「それでも、私の友達でいてくれる?」
「……これは他のことと関係ないのだ」
完全に暗くなった空は、暗く黄色く光る街灯のせいで星が見えなかった。陳晞の耳元ではセミの鳴き声に、夏の風が吹いて木々が揺れるときのザザザという音、そして、自分と林又夏が前に歩いている足音でいっぱいだった。
二人は待ち時間九十秒の信号前で足を止めた。
そのとき、陳晞は林又夏と肩を並べることができ、目の端でその無表情の顏を見ることができた。相変わらず美しかった。自分から話題を切り出そうとしたが、口を開いたものの、やはり林又夏に先を越されてしまう。
「陳晞、過去に戻れるなら、どの頃に戻りたい?」
「すぐに答が出ない気がする」
残り七十秒。
「私が無能力者か、気にならないの?」
「話されてもいないのに、聞くのは変かなって」
「だったら興味あるよね?でしょ?でしょ?」上がり調子の口調から、林又夏は嬉しそうだった。
残り六十秒。
「言いたいなら言っていいよ」
周りの街灯と赤信号が点滅した。見間違いだと思った陳晞は瞬きをした。
残り九十秒。
え?
驚いて林又夏を見ると、満面の笑みを浮かべた。すると、陳晞は自分の胃の不快感を忘れていた。
「こ、これは?」
林又夏は右手を伸ばし、人差し指を微かに開けた陳晞の口に当てた。
「シッーーー」
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