#2 夏の日 I

 この時空の中で人間の魔力の源は何千年前から宇宙の中心に聳えていた世界樹まで遡る。


 最初の魔法使いはその枝から取った果実を食べたことで、いわゆる能力を獲得した。そのとき、彼は『シャーマン』と呼ばれていた。この歴史を説明している者は陳晞が通う中学の数少ない魔法使い教師だった。チャンジャーハンが授業中にツッコミを入れたとき、陳晞に叱られた。


 もしかしたら、歴史とはこのようなものであり、常に虚構がある程度存在している。なぜなら、歴史を記録し流布する者は人間だ。そして、人間は他人だけではなく、時には自分に対しても嘘をつく生き物だ。


 陳晞はクラスの男子生徒のように魔力の起源に対してバカバカしいと思うことがなく、むしろ興味があった。学校ではあまり話さない陳晞が、授業終了後に歴史教師に積極的に様々な質問をした。


『最初の魔法使い』はこの世界で現存する全ての能力を持っていたが、自分の子供たち一種類ずつ分け与えた。時が経ち、現在になって、人間が利用する能力を『魔法』と『科学技術』に大別している。『機械使い』と『魔法使い』の名称は過去の蒸気の時代まで遡り、後に便宜上、現在まで使われている。


 ガラガラ、ガシャンという雑音が聞こえ、髪の色を明るいオレンジ色に染めているかき氷屋の女店長が鉄のシャッターを下ろした。そして、エプロンを身につけている陳晞はカウンターに立って、うっかり付着させた水垢を拭いていた。


 夏休みがちょうど始まったが、肩まで届く長い髪を切るかどうかまだ決めかねていた。この件で唯一アドバイスできるのが母なのだが、電話するときは決まってこのことを忘れてしまうのだ。


 とにかく、今はポニーテールにすることにした。毎朝に出かける準備でやることが一つう増えたが、少なくとも暑さに悩まされることはないだろう。


 秋はいつやってくるのだろう?陳晞は心の中で何回も神様に問いかけた。実は、夏がそんなに好きではなかった。


「晞ちゃん、お疲れ様」


「店長もお疲れ様です」


 両親は上級研究員だから、陳晞の家庭環境は裕福だった。家計事情に悩まされることはなかった。かき氷屋でアルバイトしているのは、単に母が店長とは旧知の仲だからだ。


 夏はかき氷屋の繁忙期だ。家でエアコンをつけてゴロゴロするより、ここで手伝う方がいい。お小遣いを稼げるだけではなく、たまにかき氷を無料で食べることもできるのだ。


 綺麗になった雑巾をフックに掛けて、陳晞がストレッチをした。これで今日の仕事が正式に終わりを告げた。


 店長は氷の能力を持つ魔法使いだ。それでも、彼女の魔力は普通の氷系魔法使いの魔力より弱いため、店内の設備の大半は機械で低温を保っている。これも陳晞の母が店長と知り合いになった理由だ。陳晞もこれ以上のことを知らない。


 店長が休憩室に入ってから出てくると、手には一つの封筒があった。


「これは今週分の給料だ。また明日ね」


 陳晞の肩をポンポン叩く店長の声も少し疲れているように聞こえた。もしかしたら来客数が増えて、絶えず氷を作っていたせいかもしれない。普段の彼女はそんな雰囲気ではなく、いつもあまり喋らない陳晞をからかっている。常連客たちもバイトの子と店長のやりとりを見て楽しんでいる。


 陳晞は両手で封筒を受け取ると、頭を下げて「ありがとうございます」と言った。


 自分が手伝えることは、客への対応と設備に故障が発生したときの修理くらいだろう。ただ、店長の言葉によると、陳晞が手伝ってくれるおかげで負担は大分減ったので、罪悪感もそんなに深刻なものではなくなった。


 店長に心配の言葉を話した方がいいか考えていたのだが、陳晞は自分の言いたいことを表現するのが苦手だから、あまり言わないほうが良いと思っていた。明日もこのような感じならもう一度考えることにしよう。


 簡単に別れの挨拶をしてから、陳晞は肩にリュックを背負ってかき氷屋の裏口を出た。


 かき氷屋は陳晞の家から遠くないので、公共交通機関を使う必要がない。多分夏休み期間ということもあって、道に人も車も多くないから、陳晞はこの二十分の道のりを楽しんでいる。無人の道路をゆっくり歩きながら、今の所持金で新しい発明用の部品がどれだけ買えるのを頭の中で計算した。


 誰もいないところで陳晞はイヤホンから流れるイギリスの音楽を聴きながら鼻歌を歌っていた。


 日が沈む直前、ようやく日差しが弱くなると、だんだん過ごしやすい気温になってきた。陳晞は横断歩道の前で足を止めた。向かいの信号機の『小紅人』の上は待ち時間九十秒と表示されていた。


 林又夏は何をしているのだろう?ここは彼女と初めて会った場所だ。陳晞は思い出しながら目を少し細めた。入試が終わった後、セーラー服を着たあの女の子に会っていなかった。


 試験を受ける時はこの道を通ったなら、この近くに住んでいるはずだ。しかし、バイトで毎日ここを通る陳晞が林又夏に再び会うことはなかった。


 あの日の最後、林又夏は腕時計を見ながら慌てながらもう行かなきゃと言ったが、去る前に『またね』という言葉を言い忘れなかった。陳晞は家に入った後、再び会うことが難しいと気づいた——林又夏と連絡先を交換していなかったからだ。


 絶対に惜しいと思ったことはない。陳晞は心の中で自分の疑問を否定しながら顏を横に振った。


 信号機に表示される赤い数字の十桁が九から八に変わったとき、思わずあくびをしてしまった。今日の夕ご飯は何を食べようか?母からはいつもちゃんと食べなさいと念を押されているが、料理が苦手な彼女にとってはその実現は難しいのである。


 帰り道で夕ご飯を買わなかったなら、インスタントラーメンで腹を満たすことを選ぶだろう。当然のことながら、母親と電話するときはこのことを言わない。陳晞は平らな腹を撫でて、どこかに寄って排骨飯にするか牛丼にするか、それとも帰ってインスタントラーメンを作るか迷っていた。


 撫でる間、拳で殴られたように感じた。


 あの試験の朝の感覚がまたやってきた。しかも、今回はもっと気持ちが悪かった。見えない手で胃を掴まれているような感覚のほかに、強く引っ張る力で、直接五臟六腑をこじ開けられているように感じた。


「はぁ、はぁ……」陳晞は前かがみになって、大きく喘いだ。胃酸が喉へ逆流し、大量の汗が額から流れ落ちた。


 あの日の異状は、まさか林又夏の能力によるものではないか?信号機の残り秒数を見る余裕もなくなった陳晞は、この異様な不快感が早く収まるよう、腰を曲げて大きく息を吸った。


 急ぎ足の歩く音が朦朧とした陳晞の思考を遮り、体を低くしたままモヤのかかった目で音のする方向を見ると、目に映ったのは見たことがある姿だった。


『今日はセーラー服じゃないんだね』陳晞のごちゃごちゃした頭にこのような救いもない感想だけがよぎった。


 耳が誰かに塞がれているようで、林又夏が何かを言っているようだが、陳晞にはよく聞こえなかった。返事する気力もなく、ただ激しく顔を振って、自分が話したいことを理解してほしかった。


 その後のことを、陳晞はよく覚えていない。


 ※


 陳晞の意識が戻ると、自分がベッドの上にいることに気づいた。匂いを嗅いでみると、ここは自分の家ではないようだ。腹を触ると、さっきの不快感はもう消えていた。陳晞はだるくて痛い目をなんとか開いて、周囲の様子を観察すると、ここが自分の部屋ではないことを確認した。


 起き上がってベッドに座ると、自分は記憶喪失になっていないことが分かった。どうやら林又夏がここまで連れてくれたらしい。


「また借りができちゃったな……」彼女はそう呟いた。


 周囲を見渡すと部屋にはぬいぐるみがたくさんあって、壁には写真が多数貼られていた。ベッドのシーツも布団カバーもピンクで統一されていた。陳晞は少しも意外だとは思わなかった。林又夏は可愛らしい女の子なのだから、こんな部屋は本当に普通なのだ。


 陳晞は林又夏になんてお礼を言えばいいかと、病院に行くべきかを考えていたとき、部屋の外からガンガンという音と、林又夏がぼそぼそ言っている声を聞くことができた。


 次の瞬間、ドアが開かれた。


「え?」トレイを持った林又夏が目を覚めた陳晞を見て驚いた。「起きたんだね?よかった!」


 陳晞は、聞きたいことがあるようでないようで、なんて返事すればいいかわかなかったから、疲労感を我慢して微笑んでいた。


 林又夏が陳晞に近づいて、トレイをベッドそばのテーブルに置いて、マグカップを手に取った。近くから見ると、陳晞は彼女の顔に顕著な傷がいくつかあって、動かしている手にも包帯が巻かれていることに気づいた。


「その顔は——」


「これ、お湯だけど、自分で飲める?」林又夏はマグカップを陳晞に渡して、トレイに置いたお椀を手に取った。「お粥作ったから後で食べさせてね」


 その話題に触れたくないことを察して、陳晞は黙って、大人しくお湯を飲んだ。温かいお湯は食道を通って胃に流れる感覚に陳晞は大きく安堵した。少なくとも臓器は取られていないようだ。


 もう質問すべきではないと思ったが、陳晞はまだ気にしていた。傷がとても多いことに加え、転倒でできたものには見えなかった。何と言うべきか、誰かがナイフで故意に林又夏を傷つけたように見えた。


『この顏は怪我してはいけないのだ』陳晞はその言葉が頭によぎったことにビックリした。そして、飲んでいたお湯でむせて、まるで肺が出るように咳き込んだ。


「陳晞?どうしたの?」お粥をフーフーして冷まそうとしている林又夏は慌ててお椀を置いて、陳晞が持っていたマグカップを受け取った。


 少し経ってから、陳晞の呼吸が落ち着いた。彼女は先、自分は変な感覚で死ぬと思ったが、今度は危うく窒息死するところだった。どうやら、病院に行く前に、先にお寺でお祓いをすべきなのか。何にせよ、運勢を変える能力を持つ魔法使いは自分の記憶になかった。


「本当にびっくりしたよ」陳晞と同じ仕草で、林又夏も自分の胸を撫で下ろした。「私のベッドで死ぬかと思ったよ」


 そうだ、ここは林又夏の家。母親が普段よく言っていた忠告が陳晞の頭によぎった。まさか自分が見知らぬ人の家に行って、しかも意識を失って熟睡したとは、完全に無防備だったと言っても過言ではない。


 陳晞は両脚を動かし、自分が縛られていないか確認した——いや、手は元々縛られていなかった。足も同じく無事だった。彼女はため息をつきながら林又夏が純粋にいい人で助けてくれたと判断し、少し申し訳ないと感じた。


「ありがとう」


「え?何が?」


「助けてくれて」


「あ、」林又夏は視線を移した。「何でもないよ」


「もしその言葉に返すなら——」


「言ったでしょ、友達同士はこんなことしないって!」


 先ほどの異様な表情は一瞬林又夏の顏から消え、代わりに怒ったふりをした。置いたお椀にお粥を一杯すくって、まだ話したい陳晞に「黙って」と意思表示した。


「ありがとうよりも、まずはちゃんと食べて」林又夏は手に持ったスプーンを陳晞の顏に近づけお粥を口にする様子をじっと見た。


 思ったより美味しかった。口に食べ物を入れて嘆くことができなかったが、陳晞にとって心の底からショックを受けた。


 だから、なぜだろう?綺麗な人は綺麗なだけでいいのだろうか?


 陳晞は眉をしかめて林又夏の顏を見ようとしてから、彼女はそのあからさまな視線が何を意味したかわからないから、心配そうに顔をお椀の方向に向けた。


「美味しくなかった?さっき試食してみたんだけど。あ、もちろん他のスプーンを使ったよ」


 陳晞は「ううん」と顔を振った。


 陳晞は手を伸ばして、林又夏の顏に貼ってある絆創膏に優しく触れた。


「もう、怪我しないでね」


 次の瞬間、陳晞は後悔した。林又夏は少し呆然としてから、頬を赤らめた。お椀を陳晞に押し付けてから、先にやることを終わらせたら、彼女を家に送ろうと呟きながら、逃げるように部屋を出て行った。


『ああ、女の子と接するには一体どうすればいいのか?』陳晞はお椀のお粥を食べ切った後、自暴自棄になって布団の中に籠った。

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