013【お礼】

 怒りは男が己の体を支える原動力だった。男は鎌を取り出してイヴァンに向けて振り下ろし、イヴァンは鎌を取り出したいが間に合わなかった。両手でその衝撃を受け止めようとした。

「ダメ!」

 心臓が張り裂けそうな悲痛な声が下から聞こえてきた。階段にいたセレステは、どうにか自分の両手で喧嘩中を男たちの元へ這い上がってきた。セレステは一生懸命イヴァンのズボンにしがみつき、全身を流れている血を感じながら、生まれて初めて、生きていることを実感した。もう何事にも淡白な少女ではなく、初めて自分の意志を強く持つことができたのだ。

 男はセレステの意外な行動でふらつき、バランスを崩して鎌を振り回したが当たらなかった。イヴァンはこれと同時に腰から素早くナイフを抜き、男の心臓に深く突き刺した。そして、男が地面に倒れた。

 セレステは、動かなかった男を見つめ、静かな口調で聞いた。「彼は……死んだのですか?」

 イヴァンはセレステを自分の懐によせて、彼女の頭を優しくなでた。

「大丈夫さ、死神は人間界で肉体が突然死んでも、魂は死神の世界に送り返されるだけだ」

「そこはもっと辛い世界なんですか?」

 セレステはイヴァンの体にしがみつきながら、あの人は本当に先まで存在していたのに、と考えた。

 ブロッコリーを食べられないと拒否し、一緒に笑って、熱をも帯びたイヴァンの体も、全て……嘘だったのだろうか?

 その男の言葉が真実なのか、セレステにはわからなかった。

 セレステは訳もなくむせび泣き、胸が一トンの石に押しつぶされるような感じがした。襟首を掴んで大声で泣いたが、心の奥底から湧き続ける痛みは癒えることはなかった。

「イヴァンさん、あなた……」

「そうだ、助けてくれたお礼を言ってなかったな」

 いつも軽やかな声がセレステの言葉を遮り、抱擁を緩めたイヴァンは笑った。

「明後日、俺がお前さんを殺すほうがいい?」

 微笑む瞳には笑みがなく、どんな感情を隠しているのかわからない。「これはお前さんへの特別なプレゼントさ。普段は殺しが嫌なんだけどな。もちろん、他のプレゼントも構わない」

 セレステは目に涙を浮かべながら、まだイヴァンを見つめていた。聞きたいことを口にしようとするけど、言えなかった。

 なぜ……イヴァンさんは自殺したの?

 最初は、『イヴァンさんは本当の自分を、見つかった人ですね』と言ったつもりだった。だが今、セレステは恥ずかしさと後悔を感じている。セレステはイヴァンを救えたとは思っていない。イヴァンの命を救うことは永遠にできないだろう。二人はあまりにも長い間、人生という旅で進むべき道を見失っていた。

 そして、イヴァンが答えないことを知りながら、涙をぬぐって「本当に何でもいいの?」と言った。

「俺が嘘で塗り固められた男に見えるか?」

 セレステは、その恨み言のような口調に思わず吹き出してしまった。

「それなら弟、良くなるといいな」セレステは軽く微笑んだ。「そして……家族が私を忘れてくれることを願っています」

 イヴァンは呆気に取られたままセレステを見て、「本当にいいのか?」と言った。

「はい」セレステは迷わず「幸せになってほしいから。それに……」と答えた。

 セレステはイヴァンの厚い胸に耳を傾け、イヴァンの強い鼓動の音を聞きながら、「イヴァンさんを忘れるのは残念な気がしますよね」と言った。

 イヴァンはセレステが腕を伸ばして抱擁してくるのを驚きながら見ていた。何かを感じたわけではなく、昔の記憶について考えることしかできなかった。その抱擁は柔らかくて、温かかった。何も感じないが、自分の世界の永遠の混沌を照らし出す光だと知った。

「イヴァンさんのそばにいます。必要なものは何でも与えます」

 セレステは、朝日のようにまぶしく輝いた目でそう誓った。


 家に着いたのはもう朝方で、二人は自分の部屋に戻り、シャワーを浴びて寝る準備をした。セレステがヘアブラシを化粧台に置いて寝ようとしたその時、突然ドアをノックする音がした。

 セレステがドアを開けようとしたとき、イヴァンが自らドアを開けて部屋に入ってきた。何も言わずに車いすのセレステを抱き上げると、慌てふためくセレステをお構いなく、少し乱暴にベッドへ乗せた。

 そして、その柔らかな唇に焦がれるようにキスをした。

 口を離すと、セレステは顔を赤らめて、「うんっ……イヴァンさん、何しますか?」とイヴァンを突き飛ばした。

「必要なものは何でもくれるって言ってなかった?」

 イヴァンはシャツを脱いで引き締まった体を見せると、手を伸ばしてベッドから逃げようとするセレステを掴み、小柄な体をベッドに転がして押し付けたのだった。

 着衣を一枚一枚剥ぎ取られ、冷たい空気よりも肌の温もりがそばに感じられた。乳首をこねられ、細い腰の辺りを愛撫され、熱いキスが体をじりじりと動かしていく。

 イヴァンは、喘ぐセレステに微笑みかけた。

「安心しな、ウェディングワインならたくさんある」

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