012【約款の第五条】
もう一曲踊りたいと言ったセレステだが、イヴァンはセレステが腕に力が入りすぎて震えているのを見て、抱き上げ、ダンスフロアから連れ出した。
「また今度な、お嬢さん」
カウンターに戻ると、車いすに戻されたセレステは頭を垂れて、「これで最後ですね……」とつぶやいた。
「今度」
イヴァンはグラスを手に取ると、セレステに渡し、自分のグラスとセレステのグラスをぶつけ合った。「約束だ」
その言葉を聞いたセレステが微笑み、ワインを一口飲んだ後、イヴァンを見上げると同時に、口づけをされた。
しかし、その時、大きな音と震動が静寂を打ち破った。
イヴァンの後ろに割れた酒瓶を持った男が立っていた。割れたガラスとこぼれた酒がイヴァンのベタッとした髪にかかり、額には血が流れていたが、イヴァンは眉一つ動かさなかった。
「イ、イヴァンさん!」
セレステは恐る恐るハンカチを取り出して、イヴァンの顔についた酒と血を拭いたがイヴァンに制止された。
イヴァンが振り向くと、背後には憎しみのこもった顔をした男が立っていた。
「イヴァン・マンガーノ……見つけたぞ! 覚悟しろ!」
男が叫んでから突進してくると、イヴァンは「今時の若いもんは場の空気が読めないのかね」と、力なくため息をつくだけだった。
この言葉を口にしながら、男の拳を片手でかわし、襟首をつかんでバーの外まで運び、勢いよく地面に投げつけたのである。イヴァンはしゃがみこんでタバコに火をつけ、恐ろしい形相で泣き叫ぶ男を睨んでいた。
「おい、俺がこの可愛いお嬢さんとデートしてるのがわからんの?あれ?お前は……」。
震える体でゆっくりと顔を上げる男の姿を見ながら、イヴァンの口にくわえていたタバコを危うく地面に落とすところだった。
彫りの深い顔立ちにふさふさの眉毛、印象的なひげ、きつい香水、彼はラテン系の男だった。
「イヴァンさん!大丈夫?!」
セレステは慌ててバーを飛び出して、その視線は血まみれのイヴァンと、地面に倒れてうめき声をあげている男の間を行ったり来たりしていた。
「大丈夫さ、お嬢さん。戻って飲み直していてくれ、すぐに戻るから」
バーの前はスロープのない階段で、セレステは車輪をつかんでイヴァンものとへ駆けつけようとした。だが、イヴァンはセレステを巻き込ませたくなかったようで、階段を降りたいセレステの助けに行かなかった。
倒れていた男はゆっくりと立ち上がろうとしたが、立ち上がることができなかった。男は頭を抱えて震え、あまりの痛みにうめき声を上げた。
「なんで……なんで約款の第五条のことを教えてくれなかったんだ? 自殺したら死神になると知っていたら、あんな契約書にサインしなかったのに!」
男の言葉にセレステは驚いて、黙っているイヴァンを見た。
自殺したら死神になるの?じゃあ、イヴァンさんは……
「さあな、なんで忘れていたんだろうな」イヴァンは気にする素振りを見せず肩をすくめた。
男は皮膚から血を流している自分の手を見て、「ない……何もないんだ!死神として虚無の空間をさまよう霊体は、永遠に転生が叶わず、無限の闇と時を刻まぬ振り子の間でさまようしかない。自分が存在しているのかしないのかも全くわからない。任務のために肉体を与えられて人間界に来ても、温もりが感じられず、食べ物の味もわからず、眠る必要もなく、必要なものだけを見て聞くだけの、単なる傀儡のような肉体にすぎない。こうして、人間界と死神の世界を徘徊しているのだ!」
男の話を聞いて、セレステは驚愕のあまり口を押え、再び顔が血まみれでも意に介さないイヴァンの姿を見て、言いようのない悲しみで涙が頬を伝った。
「自殺は……救済なんてなかった。俺たちはいつも、自殺は救済だと考えていたが、終わらせるのは命であり、苦しみではない。俺たちが何よりも痛みから解放されたかったんだ!」と、男は苦悶の叫びをあげた。「なんで、人間のように食事、飲酒、睡眠を続けているのだ?死神は……何も感じられないのに! これは単なる地獄の連鎖であって、救済ではない!」
男は錯乱した怒りのあまり地面に吼えて、ついにイヴァンを睨みつけ、指をさしながら「お前だ!全部お前のせいだ!」を叫んだ。
「そう、お前がこんな風にさせちまったのは俺なんだ」イヴァンは素直に認めた。「しかし、もっとキツい言葉で俺を罵倒しないのか?お前の語彙力は貧弱すぎない?」
終始冷笑的な死神イヴァンを見ながら、男は「俺は、俺の契約者を殺してしまった」とつぶやいた。
「お前はなんで平気で人たちをお前と同じ地獄に引き込もうとする?」
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