011【ダンス】
こんなのおかしい。
それは、発言者のイヴァン、そして夜十時にシャワーを浴びて実際に彼の部屋の前に来た自分に対してだ。
セレステは目の前のドアノブに目をやりながら息を飲んだ。ノックしようと手が上がったが、その手はすぐに力を失った。
ダメ……やっぱりできない。
セレステは、両手でもう一度車いすのホイールを回し、帰ろうと向きを変えたが、なんと内側からドアが開き、スーツ姿がばっちり決まっているイヴァンが眉をひそめて彼女を見ていたのだ。
「ここまで来てるのに、ノックしなかったんだ?」
「イヴァンさん……あの……やはり……」
セレステが言葉を濁すと、イヴァンは「プハっ!そんなに緊張するなよ。さあ、行こう」と笑った。
「え?」
セレステはビックリして固まっている一方で、イヴァンが車いすを裏口からとり出して静寂な夜を進んでいく。
「イヴァンさん、どこへ行くの?」セレステは戸惑いながら聞いた。
「言っただろ、遊びに行くって」とイヴァンが返答し、「もちろん、このあと俺の部屋でも遊んでくれたら嬉しいんだけどな」と付け加えた。
イヴァンの笑い声を聞いて、セレステは自分が馬鹿にされていることに気づいた。
彼女は呆れ気味に笑った。力を抜いて車いすにもたれかけると、夜の肌寒さがに襲われたのだが、幸い、イヴァンが厚手のショールを用意してくれていたのだ。ここは田舎だからか、広い空を見上げると、どの星もひときわ輝いている。
「綺麗ですね」とセレステがつぶやいた。
隨セレステの視線が空に向いてから、自分も前を見た。「ああ、綺麗だ」
最後に、二人は古い木製のドアの前で立ち止まり、イヴァンは指の関節で三回もノックした。ドアが激しく揺れ、セレステはドアが壊れるんじゃないかと心配した。
しかし、その前に背の高い男がドアを開け、二人を中に入れてくれた。
赤やオレンジが入り混じった薄暗い光の中で、セレステはまず円形のダンスフロアを見た。そこには、男女合わせて十人ほどがおしゃれな格好して踊っている。大半が二十代の若者だろう。ダンスフロアの周りには木製のテーブルとハイチェアがいくつか点在し、入口の真正面には横長のカウンターが設置されていた。
イヴァンはカウンターのバーテンダーに声をかけて、酒を二杯注文し、一杯はセレステに渡し、自分の分は一気に飲み干した。
「こういう店は初めてだろ?お嬢さん」
イヴァンがおかわりを注文するために顔の向きを変えると、セレステはグラスを手に、足を踏み入れたことのない世界をまじまじと見つめていた。一口も飲まないうちに、音楽の力強いリズムに合わせて心臓がドキドキしてきた。
「行くよ!」
セレステが最初の一口を飲んだ途端、手に持ったグラスはイヴァンによってカウンターテーブルの上に置かれた。
「へ?行くって、どこに?」
「もちろん、踊りに行くんだよ」
イヴァンは戸惑うセレステを抱き上げると、セレステははにかむ暇もなく、ダンスフロアに連れ出された。
「でも、私、踊れないの。イヴァンさん!」セレステは慌ててイヴァンの肩をつかんだ。「ちっ、違う、私は踊ることができないの!」
「大丈夫さ。さあ、両手で俺の肩につかまって、脚を俺の靴に乗せるんだ」
セレステの重く鈍感な脚は、イヴァンの黒い尖った靴の上で何度も滑りそうになった。イヴァンは、セレステの腰に手を回し、彼女の全身を自分の胸に押しつけるような態勢をとった。
流木をつかむように、セレステの手はイヴァンの大きな肩にしがみついたが、幸い彼女はいつも自分で車いすを動かしているので、腕力は十分あった。
ゆったりとした曲調のジャズが流れる中、セレステはイヴァンがゆったりとしたペースで動き、スカートをわずかに揺らしながら回転しているのを感じていた。 幻惑的な光、効果を発揮し始めたばかりのアルコール、すべてが眩しく、バランスを崩していく。まるで、自分の一部がなくなるような感覚だった。
セレステは微笑みながら、ちらりとイヴァンを見上げてから、コロンの香りのしない胸元をさすった。
セレステはこの男に恋をしているんだと気が付いた。
彼女の残された命にとって最後の三日間。イヴァンのことを全て知っているわけではない時に。彼の手に魂を捧げようと決めている時に。
セレステは再び彼の顎の剃り残しを見上げ、その傷跡をたどって鳩のような灰色の瞳に目をやった。イヴァンも自分を見つめていることに気づき、体中に熱がこもった。
セレステは目をそらし、イヴァンのスーツを掴む自分の手を見つめた。
「イヴァンさんは痛くないですか?」
イヴァンは、頭を下げてセレステの額にキスをしながら呟いた。「痛くない。もっと強く掴んでも平気さ」
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