深夜の散歩

入河梨茶

閑話:とある教師ととある上司の会話

 その教師は、深夜の街を散歩していた。

 深夜と言ってもここは首都圏であり、住んでいるのは安アパートながらターミナル駅が近くにある。その近辺ならコンビニやファミレスに居酒屋など、灯りには事欠かない。人のいない河川敷などもあるにはあるが、誰かに出くわしたら不審者扱いされて怖がらせてしまいかねないし、彼自身も怖い。

 まだ若く独り身なこともあり、彼はそんな「深夜の散歩」をたまにしていた。以前、先輩教師らに話すと、「若くていいね、年を取ると疲れがたまってそんな余裕もなくなるから」とうらやましがらせてしまった。

 まあ、彼とてこれを日課にしているわけではない。

 自宅で一人考えていてもどうにもならない時、思考がどろどろしたものになってしまわないように外の風を取り入れる、そんな気持ちで外に出ていた。


 駅前の、街路樹が並ぶ広い道路を歩いていた時。彼は目の前に奇妙な風景を見た。

 街路樹近く、通行の邪魔にはならない位置に、何かが置かれている。

 近寄って眺めてみると、それは肉塊だった。

 死体ではない。ぷるぷると震えていて時折身じろぎするのだから、生命活動はしているのだろう。

 しかしそれは、理科教師の彼がそれまで想像したこともないような生き物だった。

 眼球が触手状に四本、身体のあちこちから飛び出している。呼吸孔なのかしきりに息をしている突起物も二本、身体から突き出ていた。手や足はあるのかどうかよくわからない。

 何より異様なのは、ミルフィーユのようになっている肉の層の合間に、服としか思えない布地が挟まっていることだ。こんなもの、こんな状態で着せることなんてできるわけがないのに。

 どこかに通報すべきなのだろうか。でもどこに? 警察? 保健所? けれど今は深夜で……

 考えあぐねていると、声を掛けられた。

「ああ、ご心配なく。すぐに片づけますから」

 穏やかな声でそう言われるとそれだけで、大丈夫なんだとすんなり思えた。

 声を掛けてきたのは、二十代後半である教師よりもさらに若そうな青年だった。

「うちで世話しているものなのですが、ちょっとヘマをしてしまいましてね」

 目の前の生物の異常さも気にならなくなっていく。なるほど、飼育員がヘマをして逃がしてしまったのだなと自然に解釈できた。

「それにしても、身体はともかく精神の方がめんどくさいなあ。いっそここから育て直した方がまだ早いかも? もともとこいつらクズだったし」

 青年のそんな呟きは、風のように教師の耳を通り抜けていった。


「大変ですね、こんな夜中に」

 教師が話しかけると、生物を見下ろして思案していた青年は驚いたように振り返る。

「ああどうも。いや、わざわざ気遣ってくれてありがとうございます。あなたいい人ですね」

「いえ、そんな大したものではないですよ」

「まあ術を仕掛けられたのに忘れてしまわず声を掛けられるってのは、赤の他人を心配できる心の在り様ですから。有能か無能かは関係ないです」

 その言葉は、教師の耳を先ほどのようにすり抜けた。教師は何も言われなかったかのように自分の話を続ける。

「教師だってのに、担任してるクラスで怪我人だのパニック起こして転校した子だのが出ても、何もできませんからね」

「ああ先生ですか。怪我って、もしかして噛み傷の子と顎が外れた子ですか? うちの職場とも少し関わりがありまして」

「そうですそうです! 先日見舞いに行って、目につくところに傷はあまり残らなさそうなんですが、精神的には何かショックが癒えていないようで……」

 教師は、今しがた知り合ったばかりの相手になぜかぺらぺらと教え子の話をする。

「とんだとばっちりではありますが、その程度で済んで幸運だったと思うしかないでしょうね」

 教師は青年の言葉をまた無視した。

「クラス全体がどこかおかしくなっているようで、どうも気になるのは、二人の女子なんですよ。クラス内の有力グループを率いているリーダーと、クラスの中で孤高を保っている子」

「ほう」

「我々教師の目があるところでは何も起きていません。でも、何かが静かに進行しているような……」


 しばしの沈黙の後、青年は口を開いた。

「職業柄、僕が冷淡だからこう思うのかもしれませんが、今はなるようになるのを待つしかないのでは?」

「え? しかし――」

「損得度外視してでもぶん殴らなきゃ収まりのつかないことはあるし、死ぬほど痛くて一生後悔するような目に遭って初めて覚えることもある。当事者でない人間にできることは、あれこれ済んだ後にうまくフォローすることだと思いますよ」

「…………」

「悩んで街をさまようよりは、よく寝て備えた方がいいんじゃないですかね」

「……参考にします。ありがとうございます」

 教師が顔を上げると、青年の姿は消えていた。

「まあ、当事者の片方はスカウトさせてもらうかもしれませんが」

 青年の最後の呟きは、今度も教師の耳をただ通過していった。

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