記憶の底で
「ここは……どこ?」
私がいたのは色とりどりの床の小さな世界だった。大きなガラスの檻の中で、私は一人ぽつんと立っている。
「ねえ、遊ぼう」
——誰?
振り返っても誰もいない。白くぼやけたその場所で、私は喪失感に胸が苦しくなった。
その場に蹲り目を閉じる。
なんだか、長い夢を見ていた気がする。大きくなって、お母さんとまた一緒に暮らして、けどお父さんとは会えなかった。
それから真っ暗で不安で、でもずっと私の隣にいてくれた誰かのお陰で怖くはなくて、冷たいけど温かくて、とても懐かしい夢だった。
「遊ぼうよ、りさちゃん」
突然声が響いた。私は顔を上げたけれど、今度は真っ暗なトンネルの中にいた。遠くの方に米粒くらいの光が見える。
「誰?」
声を張り上げた。光に向かって、力一杯。まるで子供のように。
「僕だよ、***だよ」
その声は不思議と耳に届いた。私のように叫んでいるわけでも無いのに、落ち着いているのに、耳に心地よく溶けた。けれど、名前は聞き取れなかった。
「知らない。そんな子、知らないよ」
知っている気がするのにそれを認められないと心が叫ぶから、まるで誰かに乗っ取られたみたいに私は“声”を拒絶した。
「なんでよ、乗ったじゃないか銀河鉄道に」
その瞬間、トンネルの中は一気に本当夜空へと変化した。プロジェクションマッピングで映したみたいに、鮮やかな、けれどトンネルの輪郭が残る夜空。
「乗ってない、知らないよそんなの」
私の返事に合わせるように再び真っ暗なトンネルに戻ってしまった。けれど、向こうの彼はそんな私の手を掴むように大きくて温かい声で言った。
「旅をしたじゃないか、この世界を」
その瞬間、トンネルの向こう側で汽笛が鳴った。
私は走り出す。光に向かって。
「してない。してないよ!私はずっとこの小さな檻の中にいたもの!」
涙で前が霞むけれど、それでも私は走った。徐々に歩幅は大きくなり、光にたどり着く頃には、私は制服を着ていた。
「……もう忘れちゃった?」
その先にいたのは、私だった。
「忘れたんじゃない。初めから知らない」
私の声は彼女の口から出た。
「知ってるはずだよ」
その一言で、世界が真っ白に輝く。巨大なスクリーンのように映し出されるのは——、
ダンボールで作った銀河鉄道、
桑の木の果樹園、
砂場のお城の舞踏会、
世界を行き来する鉄棒のゲート、
それから、それから——。
規則正しい音。真っ白な世界。硝子の檻の向こうに眠る誰か。大人達の身勝手な言葉。その全てが私の心を抉った。涙なんて、枯れてしまうほどに私は生きる意味を失った。
「思い出した?」
いつの間にか、私たちを隔てた硝子は消え、私の目の前には沢山の管に繋がれて眠る男の子がいた。ベッドの傍に置かれたスツールに座る幼い私は銀河鉄道の夜を持っていた。
「思い出した。思い出したよ、ごめんね。忘れててごめんなさい」
涙が溢れる。小さな世界で生きる私に希望をくれた男の子。誰よりもそばにいて励ましてくれた男の子。ある日、シャボン玉のように弾けていなくなってしまった男の子。
「忘れないって約束したのに……私、ごめんね」
いつのまにか私はベッド横のスツールの上で泣きじゃくっていた。ベッドの上で眠っていた男の子は起き上がると私を抱き寄せて、優しく背中を叩いてくれる。それが一層私を泣かせるのだ。
「ずっと一緒って約束を先に破ったのは僕だから。君だけが悪いわけじゃない。僕たちお互い約束破っちゃったんだよ」
甘い言葉を囁いてくれる彼に私は首を横に振った。
「……ううん、私、わかってたの。ずっと一緒なんて無理だって。それでも、あなたを困らせるって分かってたのに、失うのが怖くて……」
ずっと隣で見てきた彼が毎日ちょっとずつ壊れていく姿に目を背けたくて、傷つけると分かっていても約束で縛りつけようとしただけ。そんな浅ましい私から神様は彼を奪ってしまったのだ。
「……ねえ、リーサ、僕たちずっと一緒だよ。ほら、少しだけ顔を見られない時間はあったけど、ちゃんとまた会えたでしょ?」
気付けば目の前の少年は大人に変わり、その姿はすっかり別人のものへと変化していた。けれど、その温かな微笑みはあの日と変わらず、私を元気づけてくれる。
「……ありがとうカンタ君。……ううん、カムパネルラ」
カンタ君はこんな私にも優しくて、優等生で、銀河鉄道の夜が好きだった。だけど、私がお母さんの元に帰る前にいなくなってしまった。
先生が「カンタくんは帰ったのよ」と言ったから水臭い奴って思ってた。でも違った。カンタくんはお空に還ったのだ。二度と会うことができないなんて、幼い私は気づけずに、いつしかカンタくんの事も銀河鉄道の夜の事も何もかも忘れてしまった。
「僕はずっとリーサを待っていたんだよ。今度こそ、一緒にいるためにね」
その姿はカムパネルラのものだった。私は立ち上がって彼を抱きしめる。今度こそ、離れてしまわないように。
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