ロスト

春雷

第1話

 人は一生のうちに様々なものを得ては失うわけだが、果たして、人は得るものと失うもの、どちらの方が多いのだろうか。僕はこう考える。失うものの方が多い、と。

 あるいはそれは、楽観主義者か悲観主義者かという区分の基準に使えるかもしれない。失うものの方が多いと考える僕はおそらく後者だろう。

 僕はいつも何かを失うことに怯えているのだ。

 たとえば、誰かと出会わなければ、別れの悲しみもない。たとえば、何かを買わなければ、それを失くすこともない。たとえば、何かを作らなければ、誰かにそれを貶され悲しむこともない。つまり、何もしない方が、傷つかなくて済む。

 しかし、それでは何とも空虚な人生だ。誰にも何も与えることなく、ただ生きているだけ。飯を食って、寝て、起きて。それを繰り返すのみ。そんなサイクル。それでは動物と同じだ。人間的な活動とはきっと言えない。

 だが、ここで思うのは、果たして人間的な活動とは一体何だろうということだ。人間的。その響きは何だかよさげな雰囲気は漂っているけれども、実際その具体的な中身や定義はと聞かれると、うーんと考え込んでしまう。難しいねと言わざるを得ない。そんなことは誰にだって言えるし、何も言っていないのとほぼ同義だ。人間的とは一体何か。人間として長く生きているわけではないので、その問いに答えることは難しい。

 さて、僕は今までに様々なものを失くしてきた。覚えているものもあれば、忘れているものもあるし、気付いているものもあれば、気付いていないものもある。しかし事実として、失くしてきたものは多い。一つ年を取れば若さを失うし、人を裏切れば信頼を失う。人は常に何かを失いながら生きていると言っていい。今も何かを失い続けているのだ。金も時間も友情も愛情もきっと無限ではなく、永久に続くものなど一つもない。あらゆるシステムはいつか崩壊する。生きるというシステム自体が崩壊する日だってあるかもしれない。僕らは持続可能な道を探しているけれど、それは結局のところ衰退の速度を緩める程度に過ぎないのだと思う。僕らは今、映画『スピード』のように速度を落とし過ぎると爆発するバスに乗っている状態で、さらに前方には崖があるのだ。断崖絶壁。僕らはギリギリ落としても大丈夫な速度で、少しでも長く、その崖から落ちるまでの時間を引き延ばしているだけなのだと思う。 

 僕らはいつか滅びる。

 世界から失われる。

 そういう運命なのだろう。

 そして僕らは思う。その運命から逃れられないだろうか。

 誰かは言う。「否」

 誰かは言う。「僕らにはそれができる」

 さあ、僕らはそのどちらを信じるのか。それは楽観と悲観を分ける別れ道なのだろう。


 僕が両親を失うまでの一週間、僕の側には殺し屋がいて、彼は僕の両親を殺すために様々な情報を僕から得ようとした。両親の職業は? 人間関係は? 趣味は? 特技は?

 僕は出来る限り彼の問いに答えた。僕は両親を嫌っているわけではないが、もし彼らが殺される運命なのだというのなら、僕はそれに従おうと思ったのだ。両親は決して善良な市民であるとは言えず、人に言えないような汚れた仕事も色々としていたから、ということもある。そんな汚れた仕事で得た金で育てられた僕にも、きっとその責任の一端がある。

 彼は少年のような屈託のない笑みを浮かべる。「僕は君を殺さないよ」


 中学二年生の頃。僕は不登校になった。両親は一日中帰ってこないから、親に学校へ行けと怒られることもない。僕は大抵は部屋に籠って、ぼーっと壁や天井を見つめ、何もしないまま一日を終えた。何の価値もない一日。その一日を増やしていくことで、僕はだんだんとくだらない人間になっていった。

 たまに外へ出たくなることがって、僕は近所の公園に行ってみたりした。団地の中にある公園だ。公園はそこそこ広く、遊具もそれなりに充実していた。滑り台にシーソー、ブランコ、砂場、ジャングルジム、鉄棒。僕は空いていればブランコに揺られ、ブランコが使われていればベンチに腰かけていた。いつも少なくとも一組は、小さな子どもと遊ぶ父親や母親がいた。

 僕は彼らの幸せそうな様を眺め、空を眺め、鳥を眺め、学校が終わる時間までぼんやりと過ごしていた。

 その日もそんな風に無駄な一日が終わろうとしていた。今日も何にもしなかったなあと思いながら、家へ帰ろうとしていると、公園の入り口に彼がいた。

「ねえ君、君は旭カケルくんだよね?」

 僕はそうだ、と言った。

「僕は殺し屋キキョウ。君の両親を殺す依頼を受けている」

 僕はへえ、と言った。何事にも関心を失っていた時期だったので、そのことに関して特に何かを思うことはなかった。

 彼の髪はぼさぼさで、隻眼だった。右目が閉じている。身長は僕と同じくらいで、大きくもなく小さくもない。同年代だろう。この歳で仕事をしているのか。僕も見習わねばならないなと思った。僕はいつも人と比較して自分の劣っている点ばかりに眼を向け、落ち込んでいる。良くない性質だなと思いつつ、なかなか変えることができていない。

「君の話を聞かせてくれないかな」とキキョウが言う。

「いいけど……。僕の話はつまらないよ?」

「いいんだ。僕はどんな話でも面白く聞くことができる。そういう才能があるんだ」

「へえ、羨ましい。僕はつまらない話はつまらないと切り捨ててしまうよ」

「それは勿体ないな。どんなつまらない話にだって面白い部分はあるものだよ。つまらないと感じるのはつまるところその人の感じ方であって、面白い・つまらないの絶対的な基準はないわけだから」

「なるほど。まあ確かにそういうものの見方もあるのかもしれないね」

「君はもう少し世間を知るべきなんじゃないかな。色々な人の話を聞いてみるとわかる。人のする話というのは必ずその人の趣味嗜好が出るものなんだよ。この人はこういうものが好きだから、こういう話をするんだ、とか、この人はこういう人だから、ここに重点をおいて話をするんだ、とか、そういう分析をすることができる。その人の人となりというものを知ることができるんだ。どうだい? そう考えるとどんな人の話も面白く聞くことができるだろう? 人生とは結局、自分の中でどれだけ面白がれるポイントを増やせるか、ということなんだ」

 凄いなあと素直に感心した。僕と同い年に見えるのに、こんなにも深く物事を考えられるとは。僕は自分の浅い人生観を恥じた。

「君は色々なものを見てきたの?」と僕は訊く。

「もちろんさ。殺し屋だからね」

「人を殺したことはあるの?」

「それって政治家に嘘をついたことはありますかと訊くようなものだよ。問うまでもないことだろう」

「なるほど」

 新鮮だった。彼は僕がこれまで関わって来た人とは全然違っていた。刺激的で、ユニークで、面白くって……。彼は僕の知らない世界を知っていた。

 僕らは交互に質問し合った。僕は主に彼の仕事について質問し、彼は主に僕の両親について質問をした。彼の話はどれも聞いたことのないような面白い話ばかりで、僕は衝撃を受けた。人生経験に差があり過ぎる。彼は人生経験豊富で、話のバリエーションに富んでいた。対して僕には何もない。彼に胸を張って話せるようなことは何一つとしてないのだ。たとえ彼がどんな話でも面白く聞けるから大丈夫だよ、と言ってくれても……。

 一日、二日、三日……。彼との交流は続いた。そして一週間が経った。

 夕暮れ。いつもの公園。彼はついに「もう仕事をするよ」と言った。

「仕事をするって、僕の両親を殺すってこと?」

「うん」

 僕らはブランコを漕いでいた。ぎいぎいとブランコの軋む音が沈黙を埋める。空はオレンジ色に染まり、端は紫色を帯びている。夜がそこまで迫っている。

「僕の両親を殺したら、君は行ってしまうの?」

 少し間をおいて、「うん、そうだ」と彼は言った。

「僕……、そんなの、嫌だよ。だって……、だって……」

 僕には君しか友達がいないんだ。その言葉がどうしても言えなかった。何故だろうか。喉に何かがつっかえているような。胸が苦しいような……。初めての感覚だった。

「ただでさえスケジュールが遅れているんだ。もういい加減仕事をしなくちゃいけない。仕方のないことなんだよ。僕は明日、君の両親を殺す」

「君がいないのなら……、僕、生きている意味なんて……」

 僕がそう言うと、彼はブランコを降り、僕の方を向いて、

「僕は君は殺さないよ」と言った。「誰に依頼されようともね」

「本当?」

「うん」

 でも僕が欲しかったのは言葉ではなくて、彼と過ごす時間だった。そして、彼になら殺されてもいい、と思っていた。それがとても素敵なことに思えた。


 その翌日、僕の両親は殺された。僕は警察や学校の大人たちに、色々と事情を聞かれたが、彼に関することは何にも言わなかった。それで事件は迷宮入りするかと思われた。しかし、彼は公園に長く居すぎた。彼を見ていた目撃者がいた。イレギュラーな存在である彼を。事件の前に現れ、事件の後に消えてしまった隻眼の彼を。目撃者の証言から事件捜査は進展し、彼はとうとう逮捕された。

 僕は彼に会いに行った。面会室。ドラマで見るみたいに、ガラス越しでの対面だった。

「ごめん! 僕のせいで……」開口一番そう言った。

「いや」彼は首を振る。「君のせいじゃない。自業自得さ」

「でも……」

「そんな顔をするなよ。僕が君とあの公園で、もっと話をしたいと望んだんだ。その結果がこれなんだ……。だから、これは僕の責任だし、仕方のないことなんだよ。君のせいじゃない。君が責任を感じるべきことではない」

 僕は泣いていた。涙が止まらなかった。ただ怖かった。両親を失った悲しみよりも、彼を失うことの悲しみの方が、きっと深いだろうから。その悲しみを知ることに恐怖を覚えた。その予測に震えた。

「それで……、君はどうなるの?」

「さあね。少年院送りといったところだろうか」

「そんな……」

「会えなくなるわけじゃないさ」

 彼は笑った。僕には寂しい笑みに見えた。

 それが彼との最後の会話だった。


 僕の両親が彼に殺されて、二週間後、彼は舌を噛み切って死んだ。たぶん、捕まった場合にはそうするよう、誰かに指示されていたのだろう。ある意味では、僕が彼を殺したのだ。僕が彼を引き留めたから……。こうして僕は両親と、初めてできた友達を失った。

 失った悲しみは、いつまでも胸に残り続けて消えることはない。深く刻まれた心の傷。その傷はいつまでも生々しく血を流し続けている。その傷が膿むと僕は涙を流す。僕はどうしようもなく孤独だと感じる。

 ふと、何故、逆じゃなかったのか、と思う。

 僕が失われるべきだったのだ。そうすればこんな悲しみもなかった。きっと僕一人が世界から失われたとしても、悲しむ人なんていないし、僕がこの世界からいなくなるべきだったのだ。

 ああ……、こんなことなら誰とも出会わなければよかったのだ。

 悲しみを知ることで、喜びや楽しみを知れるというのなら、

 喜びや楽しみを知ったことで、悲しみを知ったのだろう。

 ならば僕は喜びや楽しみなど知りたくなかった。

 その輝きなど知りたくなかった。

 後悔も悲しみも……、いつかちゃんと消えてくれるだろうか。

 失うことへの恐れ。それが今日も僕の足を竦ませる。

 大きな喜びは要らない。だから……、

 この悲しみも消し去ってくれ。

 そう願っても、悲しみは消えず、そして彼との美しい思い出はいつまでも胸の中心に残り続けている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ロスト 春雷 @syunrai3333

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る