第三話-1 バイヤメン辺境伯領にて

 帝都を出たバイヤメン辺境伯軍は北へと進んだ。


 バイヤメン辺境伯領は帝都から北へ馬車で十日ほど。辺境伯領はほとんどが山岳地帯であり、西部には一際高い山脈があると聞いた事がある。古くから交通の要衝であり、現在では帝国と北の蛮族との境を成す防衛拠点でもある。


 帝国の街道は石畳で舗装されているのに十日も掛かるのだから、かなりの遠距離だ。間には幾つもの貴族領が挟まっているが、関所で通行料さえ払えば特に止められる事は無かった。


 エリマーレ様が手配して通行を妨害するかと思ったのだけどそれは無かったみたいね。ただ、逆にアスターム様が領主邸に歓迎のために招かれるという事も無かった。辺境伯領は蛮族に近しいという事で悪名高いからそのせいだろうか。


 兵士達はほぼ野営だが、私とアスターム様は街道沿いに整備されている貴族用の宿に泊まった。私には侍女も付けられたので何の不満も無い。


 その侍女、サーシャという茶色い髪と水色の瞳の彼女は、どうやら護衛も兼ねているようだった。背は私より拳二つくらい高く、動きは俊敏で目配りも利く。


 サーシャはある日、私の髪を梳きながら言った。


「ベルリュージュ様はお強いですね。お護りしようとしたのですが、付いて行けませんでした」


 辺境伯邸庭園での戦いの時の事だろう。サーシャの口調には悔しそうな響きがある。彼女も自分の戦闘力に自信があるのだろう。


「私は暗闇での戦闘に慣れておりますからね。仕方がありませんよ」


「どのような訓練を積まれたのですか?」


 少しワクワクしたような様子でサーシャが尋ねて来るが、私としてはため息しか出ない。


「幼少の頃より何度も何度も暗殺者に暗闇で襲われ、死線を潜り抜けていればそれは慣れますよ」


 幼少、それこそ母に抱かれていたころからだ。よちよち歩きの頃にベッドの下に潜り込んで息を潜めていた記憶さえある。酷い時には毎晩襲撃があって、最初に自分で暗殺者を撃ち倒したのがいつかなんてもう記憶に無いくらいだ。


「……皇女なんですよね?」


「そうですよ」


 サーシャは顔を引き攣らせていたが、古来より王侯貴族は暗殺の危険と隣り合わせて生きるものなのである。私の境遇はまぁ、ちょっぴり極端だが、歴史上さしてとんでもない境遇というほどでも無いと思う。たぶん。


 サーシャを含め、アスターム様の身の回りの世話をする者は全員手練れの戦士なのだそうで「道中、そして辺境伯領でもお護り致しますからご安心してお過ごしください」と言ってくれた。ただ、あの強さを誇るアスターム様が身の回りに手練れの戦士を置く必要性を考えると、まぁ、辺境伯領の状況も察する事が出来てしまうのよね。


 ただ、辺境伯領までの道中では大きな問題は起こらなかった。最悪、帝国軍による追撃まで覚悟していたのだけどね。もしもエリマーレ様が怒り狂い、アスターム様と私を討てと主張しても、帝国軍を動かせるのは皇帝陛下だけだ。陛下が軽々に軍を動かすとは思えないから、流石のエリマーレ様でもすぐの追撃は無理だったのだろう。


 それでも急ぐためにバイヤメン辺境伯軍は歩兵を分離して、騎兵と私たちの馬車だけで先を急いだ。帝国直営の宿駅で馬を替えながら進み、十日目には予定通り辺境伯領に登る峠の麓まで辿り着いた。


 ここまでくれば殆ど大丈夫だろう。私はホッとしたのだが、その日の晩餐で、アスターム様が私を楽しそうな表情で見つめながら言った。


「さて、ここまで来たのだから覚悟を決めてもらおうかな?」


 覚悟? なんでしょうかね? 私は目をパチクリしてしまう。


 ちなみにこの時私たちが食べていたのは芋と豚肉のホワイトシチューで、それにライ麦混じりのパンという、平民なら少し贅沢だが貴族料理としては粗末なものだった。旅先だから仕方が無いのと、どうもアスターム様の好みによるものらしい。


 この時の私とアスターム様の格好も裕福な平民の服とほぼ変わらないもので、私はベージュのワンピースの上から臙脂色のボディスという格好だ。コルセットもしていないので動き易くて良い。


「決まっているだろう」


 アスターム様も髪をボサボサにしたままだ。きちんとセットしている時よりも野獣味が増している。


「私と結婚する覚悟だ」


 ……それか。


 確かに、それは必要だ。これからバイヤメン辺境伯領に立ち入るには理由が必要である。私がどんな身分の者であろうとも、理由がなければ辺境伯領には入れない。


 特に私はエリマーレ様付きの侍女として辺境伯領に入るわけではない。皇女として、しかもエリマーレ様に追われる立場である皇女として領地の境を越えるのである。つまり、バイヤメン辺境伯に保護を求めるという事だ。


 この場合、単に皇女が逃げ込むだけでは、辺境伯に私を保護する理由は無い。私を捕まえて次期皇帝であるエリマーレ様に引き渡してエリマーレ様に恩を売った方が得だと思われてしまうだろう。


 しかし私がアスターム様の婚約者として保護を求めるとなると話が劇的に変わってくる。


 アスターム様の婚約者となれば身内だし、辺境伯としては無条件に保護する対象になってくるだろう。そして、アスターム様が言うように、私を擁立して皇帝に推せば、私に婿を出したバイヤメン辺境伯としては一気に帝国全体に巨大な影響力を持てるようになるわけである。


 なので、私が辺境伯に保護と助力を願うのならば、私とアスターム様の婚約は必須なのである。婚約の儀式とかはとりあえず後でやるとしても、口約束でも良いから婚約しておかないと、私は堂々とバイヤメン辺境伯領に入れない。


 ……それは、分かっているんですけどね。


 私は目の前にいる、野生味溢れた美男子を見る。帝都で貴族風にキメていた時から隠せないほどの野趣がある男だったが、こうして平民っぽい格好をするとより一層野生味を増して見える。良く言えば逞しく、悪く言えば蛮族っぽい。


 実際、バイヤメン辺境伯領は元々、北の蛮族との間との繋がりが強かった地域である。アスターム様にも相当濃い蛮族の血が入っているのであろう。確か黒髪が北の蛮族の特徴だった筈だ。


 私としては、もう贅沢を言ってはいられない立場である事は理解している。生き延びたければこの身をこの蛮族じみた男に委ねるしかないと言うことは分かっているつもりだ。


 しかしながら齢十六の処女としては、それなりに結婚相手には希望があったわけですよ。容姿に関しても私の好みはどちらかと言えば穏やかな優男風なのであって、目の前のこの男はいまいち私の琴線に響かないのである。


 それに人を藁束でもあるかのようにバッサバッサと打ち倒す、戦場での恐ろしいあの姿は、あんまり女性受けするとは思えない。私でもちょっと怖いと思うもの。帝都で彼を持て囃していたご令嬢だってあの姿を見れば逃げ出してしまうでしょうよ。


 ぶっちゃけて言えば、嫌だ。こんな男とは結婚したくない。これが本音だ。正直、惹かれるところが今の所何にもないもの。命を救ってくれた事には感謝しているけど、結婚相手としてはノーサンキューよね。


 でも、状況的に彼と結婚するしかないのだ。他に生き残る選択肢がない。彼と婚約し、辺境伯とその軍勢を味方に付け、皇帝陛下、エリマーレ様と交渉して私の安全を勝ち取るしかないのである。


 ……それでも私は葛藤に苦しんだ。選択肢は一つしかないのだから悩んでも仕方が無いと分かっていても、悩まざるを得なかった。私は当時夢見る十六歳の少女だったのであり、自分の望まぬ未来を自分で選択するのには本当に抵抗があった。


 しかし、死にたくなければ進むしかない。貴族の結婚など所詮は親の決め事である。恋に浮かれて貴公子にキャアキャア言っているご令嬢も、結局は親の言うなりに嫁に行かなければならないのが貴族というものなのだ。


 私は自分も貴族、皇女なのだから、選択の余地の無い結婚など当たり前なのだ、と私はなんとか自分を納得させたのだった。


「……分かりました。結婚します。貴方と、結婚しましょう」


 私が言うと、アスタームは随分とホッとしたように見えた。あら? 何かしら。私が断るとでも思ったのかしら? 私に選択の余地なんて無かったのだから、心配する必要なんて無かったと思うのに。


 それからアスタームは随分と機嫌が良くなり、それほど酒を嗜まない彼が随分とその日はお酒を呑んだ。


 晩餐を終え、私が自室に下がろうとすると、アスタームが手を伸ばして私の手を掴んだ。? 何よ。


「プロポーズを受けてくれて嬉しいぞ。ベルリュージュ。どうだ。これから私の部屋に来ぬか?」


 ……この野蛮人め。私は思わず半眼になってしまう。


 婚前交渉は神に禁じられている、それは婚約者同士であってもだ。まぁ、随分形骸化した建前だとはいえ、そういう事になっているのだ。


 一応皇女である私は、一応は臣民の模範にならなければならない。一応は。なのでこのような野蛮な要求には応じられないわよね。ええ。


「二人の仲を深め、お互いを分かり合うのにアレ以上の事は無いぞ。どうだ?」


 私はちょっとプチッとキレかけながら、低い声で言った。


「……噛みちぎりますよ」


 流石のアスタームが鼻白んだ。


「やったことがあるのか?」


「流石にありませんが、母に教わりましたよ、やり方は」


 刺客の中には不埒者もいて、そういう方面でちょっと危ない目に遭う事もあった。それで母が「そういう時には有効よ。何しろ男はそこだけは無防備だからね」と言って、貞節をギリギリで守る方法を教えてくれたのだった。ちなみに、ちゃんと誘い方、誘導のセリフも込みでね。


 アスタームはむーんと考え込んでしまった。


「私がいざとなった時に躊躇うような女だと思いますか?」


「思わぬ。分かった。君が貞淑な婚約者だと分かって良かった。ではお休み。ベルリュージュ」


 アスタームはそう言って、私の頬に口付けて、静かに離れていった。


 ……まぁ、これくらいは仕方がないか。


 私は彼の唇の感触が残る自分の頬を撫でながら、自室へと戻ったのだった。

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