第二話 辺境伯邸炎上
後から知ったけどバイヤメン辺境伯邸を囲んだ兵は千人に満たなかったのだそうだ。つまり帝国軍ではなく、エリマーレ様が自費で囲っている私兵だったわけである。
皇女が私兵を囲っているなんてあまり無い事である。しかし、三年もお姉様の侍女をしていたのに私が知らなかった事から、いざという時に私と母を討つために育成していた兵士なのだろうということは認めざるを得なかった。確かに私は考えが甘すぎた。
対するバイヤメン辺境伯の手勢は三百ほど。精鋭ではあるが、敵は三倍である。数的には圧倒的に不利だった。
そして悪いことに襲撃者たちは手段を選ぶつもりが無いようだった。いきなり火矢を射掛けてお屋敷を燃やしに掛かって来たのだから。
「この屋敷も安いものでは無いのだがな」
そう言いながらもアスターム様は嬉しそうにニヤニヤしていたわね。ここで笑顔が出る精神構造が私には分からない。
「これはダメだな。連中を撃退しても屋敷が丸焼けになったらどうにもならぬ。失火の罪でも押し付けられたら面倒だ」
アスターム様はあっさりと諦めた。もちろん、このイかれた男が単純に諦める筈がない。お屋敷の各所が燃えているという報告が次々と届く中、アスターム様は鎧を鳴らして立ち上がると、言った。
「ここは捨てて領地に帰るぞ。花嫁は得たのだから長居は無用だ。全員に伝えよ」
そしてアスターム様は真紅の瞳を凶暴に輝かせると、地を震わせるような響きの声で命じた。
「襲撃を仕掛けてきた奴らは皆殺しだ! バイヤメンの名を帝室が二度と忘れぬよう、血の色でこの地に刻み付けてやれ!」
「はは!」
アスターム様の檄を受けて控えていた者達が一斉に動き出す。侍女も侍従も迅速に動き出した。動きに無駄が無い。極限まで鍛えられている事が分かる。
私はドレス姿のままだが、アクセサリーは全部外してコルセットは緩め、靴はヒールの無い物に変えてもらった。本当なら男装したいところだ。スティレットは既に抜いて手に持っている。
「よし、では行くか」
アスターム様は兜だけは被らぬ漆黒の鎧姿で、当然のように私の手を取り、部屋を出ると廊下をゆったりと歩き出した。社交にでも向かうのかしら? というような余裕の態度だ。
しかし、お屋敷のあちこちからは喚声が聞こえて来るし、燃えている箇所の炎の照り返しが窓をオレンジ色にしている。そして遂に私たちの前に数名の兵士が走り込んで来た。
「居たぞ!」
これだけ堂々と玄関に向かっているのに居たぞも何も無い物だ。私はそう思いながらスティレットを左手でクルッと回す。右手はアスターム様の手に委ねたままだ。
軽装の兵士たち。部分鎧と短剣しか持っていない。私兵であればそんなものだろう。エリマーレ様の個人的予算で兵士を密かに育成するのはかなり無理があるのだ。
襲いかかって来たのは三名。だけど私は動かなかった。なんでって? それはやる気満々の男がすぐ横にいるからね。男がその気なら任せるのも女の甲斐性ですよ。
兵士たちが間合いに入るや否や、アスターム様は鋭く左足を踏み込んだ。そして抜き身の大剣を左手で一気に振り抜いた。
馬にでも跳ね飛ばされたのかという勢いで、剣を受けた兵士が吹き飛んだ。そして隣の兵士に衝突して一緒に地面に叩きつけられる。何という膂力なんだろうか。流石に私も驚いた。片手でこれとは、両手なら兵士の身体は両断されていたのではないだろうか。
もちろん吹き飛ばしただけではない。アスターム様はそのまま剣を振りかぶると、仲間の惨状に驚いて棒立ちになった兵士の頭に叩き込んだ。兵士の兜がひしゃげ首が不自然に捻じ曲がる。兵士はそのまま地面に崩れ落ちた。
更にアスターム様は吹き飛ばされもがいていた兵士の首を黒いブーツで踏みつけると、そのまま容赦なく踏み折った。ゴキンと嫌な音がして兵士は動かなくなる。アスターム様は不満そうに鼻を鳴らした。
「なんだこの脆さは。大丈夫なのか? 帝国軍は?」
そうね。確かにこの兵士たちは弱過ぎる。けども、アスターム様の強さが常軌を逸しているというのも間違いないところでしょうね。
アスターム様はその後も、出くわした兵士を草でも刈るように打ち倒した。そして既に炎が回り始めたエントランスホールに入る。
豪華な装飾もシャンデリアもタペストリーも炎に包まれつつあった。勿体無い。しかしアスターム様は一切頓着する事無く、私の手を引いたままドアを押し開いた。
途端、暗闇の中から矢が何本も飛んできたが、アスターム様は何でも無いような顔で、大剣を振るってその全てを切り落とした。自分だけでなく私に向けられたものもだ。一応は守ってくれる気はあるらしい。
「おう! 待ち伏せとは卑怯なり! 正々堂々と勝負をせよ!」
アスターム様は言いながら、私の手を離した。あら? 私が彼の目を見上げると、アスターム様は面白げな表情で笑っていた。私にやってみろと、先程の豪語を証明してみよ、というのだろう。ふむ。構いませんよ。私は何食わぬ顔でアスターム様の後ろにスススッと下がった。
「我はアスターム! バイヤメン辺境伯領にて勇猛並ぶ者なしと謳われた次期辺境伯アスターム・バイヤメンなるぞ! 我と思わん者は前にでよ!」
アスターム様が炎に照らされながら大見栄を切っている内に、私は気配を消して闇に紛れた。挑発に応じてアスターム様には数名の兵士が襲い掛かって来たが、全て一刀の下に斬り捨てられている。
私は闇に紛れ庭園の植え込みの影に進み出ると、姿勢を低くした。そしてスティレットを両手で構えると、音も無く地面を蹴った。
足音を立てずに一気に進むと、前方に弓を構えた兵士の姿が見えた。私は加速して、スルッとその兵士の懐に滑り込んだ。そして容赦無くスティレットの鋭い切先を兵士の顎下に突き立てる。
ほとんど抵抗なくスティレットの針状の刀身は兵士の頭の中に吸い込まれた。すぐに剣を引き抜く。そして私は次の獲物を求めてすぐに駆け出した。その後で瞬時に脳を破壊された兵士が倒れている姿は確認しない。
程無くアスターム様の方を見ている違う兵士を発見する。私は一気に近付き、今度は背中からスティレットを突き立てた。心臓の位置にだ。
兵士は呻き声を上げて倒れる。しかし、その向こうにこちらを見ている別の兵士がいた。驚愕の表情。私は舌打ちしてスティレットを引き抜き、倒れる兵士の死体を踏み越えて次の獲物に突入した。
スティレットの良い所は、普通の剣なら人体に刺し込んだ時、抜けなくなる事が多いものが、容易に引き抜ける事だった。そして、普通の剣では刃毀れなどですぐに切れ味が衰えるものが、スティレットは何度刺しても殆ど刺突力が失われないのだ。
私は一気に近付き、慌てて短剣を振るおうとする兵士の膝にスティレットを突き立てた。兵士は痛みで一瞬動きを止めてしまう。訓練が足りてないわね。実戦が初めての新兵なのかも知れない。私はそう思いながら、すぐさまスティレットを兵士の膝から引き抜き、そのまま胸に突き込んだ。
私はそんな風に駆け回り、数十人の敵の兵士を排除した。兵士は弱かったし、暗闇に慣れていないようでもあったから大した手間では無いかったわね。少しすると辺境伯軍も周囲から攻め寄せ、襲撃者達は大混乱になってしまった。その中を、一人、また一人と私は兵士を葬っていった。
「ベルリュージュ!」
アスターム様が呼ぶ声がしたので、私は敵を探すのを止めて、慎重にアスターム様のところへと戻った。アスターム様はもはやお屋敷の形をした炎の塊と化した辺境伯邸を背景に、堂々と庭園の中を門の方に進んでいる所だった。彼は私の事を見ると赤い目を細めた。
「ふむ。暗殺者としてなかなかのものだ。気をつけるとしよう。油断すれば私ですらも寝首を掻かれかぬ」
これで褒めているつもりなのだろうか。明るい所に出ると、私の格好はなかなか凄い事になっていた。血塗れだ。ドレスも深紅に染まってしまっている。せっかくお風呂に入ったのに。しかし、もう風呂に入っている場合では無いだろう。
私はまたアスターム様に右手を委ねる。辺境伯邸は燃え盛り、崩れ落ちつつあった。敵はもういないようだ。全員討ち取ったという筈は無いから、多分逃げてしまったのだろう。
辺境伯邸の門の前には大勢の野次馬が群がっていたが、炎上する辺境伯邸を背景に血塗れの男女(つまり私達)が悠然と現れると、ドン引きした様子で道を空けた。同時に、辺境伯の狼の紋章が描かれた四頭引きの大きな馬車がやってきて私達の前に停車した。
私はアスターム様にエスコートされて馬車に乗り込む。内装も豪奢なので、こんな血だらけの姿で乗り込むのは気が引けるのだが、仕方が無いだろう。
私が席に座るとアスターム様も乗り込んだが、彼はステップに足を掛けたまま振り向くと、燃え落ちつつある辺境伯邸に向かって叫んだ。
「燃やされし我が屋敷の代わりは必ず貰うとしよう。あの、白く輝く帝宮をな! 次に帝都に来る時は、私が帝宮の主になる時ぞ!」
いっそあっぱれなほど堂々と簒奪宣言をしたアスターム様は、唖然としている野次馬には一瞥もくれずに馬車へと乗り込んだのだった。
◇◇◇
馬車はいつの間にか集まって来たバイヤメン辺境伯軍に囲まれて帝都を進んだ。夜であるから街路は暗く人通りはない。石畳に車輪の音を響かせながら馬車は進んだ。
「帝都の城門は夜は閉じられている筈ではありませんか?」
私が聞くと、アスターム様はランプの灯りで赤い目を光らせながら答えた。
「辺境伯は国境での変事に対応するために、夜間でも門の通行を許されている。案ずるな」
そうですか。でも、あれだけの大騒ぎをやらかしたのだ。城門にも手配が行っている可能性もありそうだけどね。
やがて、馬車は夜空にも分かる黒い影になって聳え立つ、高い城壁の側までやって来た。城門前広場に入っても誰もいない。馬車と辺境伯軍は門の前まで進んだ。
兵士が門番と交渉している。別に手配が回っている様子も無さそうだ。
門が開き始めて私は少しホッとした。とりあえず、この男と結婚するとかそういうのは置いておいて、辺境伯領まで逃げて、そこから書簡で、皇帝陛下を通じてエリマーレ様と交渉しよう。
私はお姉様と争う気など毛頭無く、誓いに反するつもりもない。そう強調してお許しを頂こう。それでもお姉様が許して下さらない場合には、辺境伯領で謹慎して命を守りつつお怒りが解けるのを待とう。結婚話はともかくとして。
私がそんな事を思っていたその時だった。
馬車の窓の外から、騎兵がアスターム様に声を掛けてきた。アスターム様が微妙な表情になり、私の方を見た。
「ちょっと面倒な事になった」
これ以上面倒な事になりようが無いと思いますけども、この期に及んで一体何事が起きたというのか。アスターム様が指で示す方向を見て、私は「ヒュイ?」っと変な声が出た。
お付きに者に囲まれた、臙脂色の豪奢なドレスに身を包んだ女性。松明の光にその金髪とグレーの瞳を光らせている。見間違いようが無い。お姉様、エリマーレ様だ。ど、どうしてこんな所に? エリマーレ様が帝宮から出る事なんてほとんど無いし、こんな城門なんて下町の外れでお姿を民衆の前に晒すなんて前代未聞だ。
「君に会わせろと言っている。話があると。どうする?」
馬車には乗っていないと強弁することも出来なくは無いという。ただ、その場合は帝都から出る事を禁止されるかも知れない。門は開きつつあるのでバイヤメン辺境伯軍で突破することも出来るだろうけど、それをやると明確に反逆になってしまうからしたくないらしい。
「……分かりました。私がお姉様とお話をします」
私はドアを開いてもらい、馬車から出た。タラップに足を踏み出した時、一瞬だけアスターム様が私の手を握り、一言だけ言った。
「気を付けろ」
言われなくても。そう思いつつ、そう言った時のアスターム様のお顔が柄にも無く不安そうだったので、私は思わず笑ってしまった。
馬車から出て、エリマーレ様の前に進み出る。辺境伯軍の兵士が護衛しようとするのを止めて、あえて一人で行く。ただ、腰にはスティレットを下げていたけれど。
私は血染めのドレス。お姉様は臙脂色のドレスで図らずも似たような色合いのドレス姿でお互いに向かい合う事となった。赤系の色は帝国の象徴色でもある。
エルマーレ様は私よりも少し背が高く、スタイルは私の三倍は良い。迫力という意味では比較にならないだろう。エルマーレ様は扇で口元を隠して表情を消しながら、私の事を冷淡な視線で睨んでいた。お姉様は侍女仕事に励む私をいつもそういう視線で睨んでいたから別になんとも思わない。思わないがやはりこれは、私を憎みいつか亡き者にしようと考えている視線だったのだろうね。
「お呼びにしたがって参りました。エリマーレ様」
私は侍女としての口上を述べると、スカートを広げて頭を下げた。エリマーレ様は私を睨んだまま、低い声で仰った。
「……なぜ、私に逆らったのですか?」
「逆らってなどおりませぬ。あの時、アスターム様が私に一方的にプロポースをしただけだ、という事はエリマーレ様もご覧だった筈です」
「言い訳をするでない。その格好はなんですか。辺境伯と共謀して私の兵士を殺めたのでしょう。貴女は私とした誓約に違反致しました」
「身を護っただけでございます。私にはエリマーレ様に逆らう意図などございません。私に叛意が無いのに一方的に刺客を差し向けて来るなど、エリマーレ様こそが誓約に違反しているでは有りませんか。どうか落ち着いて私の話を聞いて下さいませ」
私はエリマーレ様を落ち着かせようと努めたのだが、エリマーレ様の声は次第に興奮の色を帯びてきた。これは、良くない。
「貴女はいつもそうです。私に従順であると見せかけて、常に私の裏で企み事を巡らせているのです。頭の良さを鼻に掛け、皇帝陛下のご寵愛を良いことに私を蔑ろにするのです」
「そのような事実はございません。私は常にエリマーレ様の忠実な侍女としてこの三年間尽くしてきたではありませんか」
私の言っている事は事実である。私はエリマーレ様との関係改善だけを願って、この三年間お姉様にお仕えしてきた。冷たい仕打ちをされても嫌がらせをされても、時には毒さえ盛られようとも黙って耐えてきたのは……。
「そのようにしてきたのは、いつかお姉様とまた姉妹として過ごせればとの願いがあったからです。どうか……」
「私をお姉様などと呼ばないで下さいませ!」
エリマーレ様が金切り声を上げる。悲しいことだった。最初に自分を「お姉様と呼んで!」と仰ったのはエリマーレ様の方だったのに。エリマーレ様は激昂して扇を地面に投げつけた。
「いつもそのように、貴女は自分も皇女であると、皇位継承者であると主張するのです! 私から皇位を奪おうと画策するのです! 次期辺境伯を誑かして遂に本性を現したのですね! そのドレス姿が何よりの証拠ではありませぬか!」
私が、自分にも皇位継承権が有るなどと主張した事が一度でもあっただろうか。確かに帝国の色である濃い目の赤のドレスは皇族の女性以外はあまり着ないのは確かだが、着たら反逆を意味するほどの事ではない。それにこの色は返り血で染まっただけで元の色は違ったのだ。そもそも私はアスターム様を誑かしてなんかいないし。
「貴女がいなければ、何もかも上手く行くのです! 貴女がいるから上手く行かないのです! 貴女は、死になさい!」
エリマーレ様が絶叫したと同時に、闇の中から黒い針が何本も飛んできた。暗殺用の毒針だろう。それを私は身を伏せて躱し、何本かはスティレットを抜いて叩き落とす。同時に殺到してきた黒服の刺客の一人に向けて地面を蹴る。
まさか自分の方に向かってくるとは思わなかったのだろう。驚きに黒覆面の足が鈍った。甘いわね。私はそのまま一気に突っ込んでスティレットを刺客の胸に叩き込んだ。刃先が貫通する感触がしたら、すぐに引き抜く。血の雨が身体に掛かるのを感じながら、私は即座にその場を飛び退いた。そこへ別の刺客が飛び込んでくる。
私は右足を回して踵で刺客の膝を蹴った。ガクッと体勢を崩すその黒覆面の側頭部にスティレットが突き立つ。一瞬で意識が刈り取られた黒覆面が崩れ落ちる。その時にはエリマーレ様の護衛二人が襲い掛かってきていた。こちらは華美な鎧姿の大柄の男性である。近衛騎士だろう。
私は緑の瞳が光の残像を描くような速度で低い姿勢で飛び退いた。狙いを外した騎士の剣が石畳で火花を散らす。ふふん。大振りだ。こちらを侮っているのか、それとも近衛騎士だから元々殺し合いなどしたことが無いのか。
私があえて少し前進して攻撃を誘うと、騎士はあっさり剣を突き出してきた。私は騎士が剣を引くと同時に踏み込んで懐に潜り込む。驚愕に目を見開く騎士を睨みながら、私は硬い鎧を避けて脇の下からスティレットを突き込んだ。
「ぐわ!」
驚き怖れ、痛みに恐慌状態になった騎士が逃げようとするが、私はスティレットを引き抜き、続けざまに今度は騎士の顔面、眼球に向けて突き出す。下目から眼球に入った剣先はそのまま脳まで到達しただろう。その騎士は仰向けに大の字になると、そのまま動かなくなった。
その時には私はもう一人の騎士に襲い掛かっている。その騎士は私と同僚が闘っているのをまごまごと見ていた。やはり実戦経験が無いのだろう。こんな無能をエリマーレ様の護衛に付けるなんて! 私は腹を立てながら騎士に向かって突入すると、へなちょこな剣を躱して引く姿勢のまま三回ステップを切り替え、ダンスでもするかのように騎士の背中に回り込んだ。
そしてその延髄に向けてスティレットを突き立てる。私を見失って棒立ちになってしなかったらこうも狙いは定まらなかっただろう。背骨、頭蓋骨を貫いてスティレットは騎士の脳を破壊し、騎士は壊れた操り人形のように膝から力なく崩れ落ちた。
スティレットを振って血と脳漿を振り落とす。残るは戦闘力の無い侍女や従僕に囲まれて唖然とした表情を浮かべるエリマーレ様が残るだけだ。
私の体力には余裕がある。このまま全員を屠るのは簡単な事だろう。私がエリマーレ様の方に興奮で緑色に輝く瞳を向けると、侍女や従僕は悲鳴を上げて逃げ出し、エリマーレ様一人が残された。松明は地面に投げ捨てられ、そこでむなしく燃えている。松明の灯りに照らされたお姉様は震えているようだった。
私の胸を名状し難い幾つかの思いが走り抜けた。幼少時の楽しかった思い出。皇妃様が亡くなってから豹変してしまったお姉様に悲しんで泣いた自分の姿。皇帝陛下に受忍を求められたこと。侍女として一縷の望みを掛けながらひたすら耐え続けてきた日々。そして、明確に殺意を向けられた事に対する怒りと失望。
私はスティレットを力一杯握りしめていた。このまま、衝動に任せてエリマーレ様に飛び掛かり、その心臓に剣を突き立て、怒りと悲しみを晴らそうか。
そう思いながら、思いながら、この時の私にはそれが出来なかった。
私は頭から血の色に染まった姿で、深紅のドレスを翻しながら、お姉様に向けて決別を叫んだ。
「お姉様、さよならです!」
私の言葉にエリマーレ様のグレーの瞳が大きく見開かれる。
「お姉様! エリマーレ様! さようなら!」
私はそう言い切って身を翻すと、大股で歩いてアスターム様の馬車まで戻った。
馬車に乗り込むとアスターム様が言った。
「殺しておかなくても良いのか? 生かしておくと面倒な事になろう?」
「うるさい、馬鹿。このノンデリカシー男。さっさと馬車を出しなさい」
私が俯いたまま言うと、アスターム様が首をすくめる気配がした。
いつの間にか城門は開いており、アスターム様の馬車は護衛の辺境伯軍と共に帝都の城門を出て、北へ、バイヤメン辺境伯領へと進み始めた。
私は揺れる馬車の中、俯き歯を食いしばって涙を堪えていた。
分かっている。エリマーレ様はこのままで私を済ますような方では無い。必ずや私を討つためにあらゆる手段を講じるだろう事は。結局はエリマーレ様が放った刺客や軍勢と私は戦い続ける事になるだろう。それは恐らく私とエリマーレ様のどちらかが息絶えるまで続くことになるだろうと。だから、あの場でエリマーレ様を討ち、後顧の憂いを絶つべきだった。そんな事は分かっていた。
でも、私にはそれだけは出来なかった。一時は姉と慕った方を、自らの手で殺める事がどうしても出来なかった。
甘いのだろう。母であれば眉一つ動かさずにエリマーレ様を真っ二つに切って捨てたことだろうから。母が聞いたら私の甘さを笑うだろうね。
でも、私はそんな自分の甘さを笑うことが出来なかった。その甘さを嫌うことが出来なかった。私はお姉様の事を本当に慕っていたから。決別してなお、まだどこかで関係の修復に望みを抱いていたのかも知れない。私は、そんな自分の甘さに呆れると共に、どうしても嫌いにはなれなかった。
私は俯いて涙を落としながら、何度も何度も「さようなら。さようなら……」と呟いていた。そんな私をアスターム様は一言も言葉を発さずに見守っていてくれたのだった。
馬車は帝都から一路北へ、バイヤメン辺境伯領へと向かう。この後、私が再び帝都に帰ってくるには、長い時間と幾多の困難と、多くの戦いが必要となったのである。
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