第一話 第二皇女
……私、ベルリュージュが帝国の第二皇女だというのは嘘では無い。本当の話だ。
しかしながら事情はちょっと複雑だ。表立って堂々と名乗れない程度には。
襲撃を受けたアスターム様と私は、とりあえずバイヤメン辺境伯の帝都屋敷に避難した。……私も仕方なく同行した。だって、まさか王宮の侍女寮には帰れないもの。エリマーレ様が私を許す筈がない。今日の内に殺されてしまうでしょうよ。身を守るためには仕方がなかったのだ。
お屋敷でお風呂をお借りして、全身にびっちりくっついた血糊を落とし、お借りしたドレスに着替える。
普通血塗れの女がやってきたら仰天すると思うのに、辺境伯邸の使用人は顔色一つ変えなかった。年若い侍女でさえもだ。淡々と私の風呂の世話をしてくれて、着替えを手伝ってくれる。私は紫色のドレスを着て軽くお化粧をすると、邸の食堂へと通された。
装飾の少ない、いかにも質実剛健を好むのだろうな、という感じの食堂へ入ると、すでにアスターム様は食堂の席に着いていた。私を見ると目を細める。
「ふむ。美しいな。見込んだ通りだ」
それはどうも。としか言えない。赤い髪に緑色の瞳の私は「美しいが勇ましい」と讃えられた母の娘なので、多分そこそこ容姿は整ってるんだろうなとは思う。背はちょっと低いけど。
アスターム様もすっかり血塗れを落とし、リラックスした服に着替えていた。白いシャツに紺色のスラックス。彼の方の容姿は文句無く美男子。しかも超が付く美男子だ。黒髪赤目の神秘的な雰囲気にシャープな容貌。長身だし体付きも異名通り狼のように引き締まっている。
彼が一昨日帝都来訪の挨拶の為に王宮にきた際には、あまりの美男子ぶりに王宮の年若い侍女たちが騒然としていたわよね。私だって美男子は嫌いじゃないけど、しかし事情が事情だ。差し向かいでの食事を喜ぶ気にはなれない。
「安心されよ。この屋敷にいる限り、エリマーレ様も手出しは出来ぬ。仮に襲撃があっても私と部下たちが必ず撃退してみせよう」
……お姉様は自分に逆らった者は絶対に許さない性質だ。必ず暗殺者を差し向けて来るだろう。それだけで済めば良いけど。
少し肉類が多めの食事をもそもそと摂る。あんな事があったばかりなので食欲はあまり無い。一方アスターム様は旺盛な食欲を見せていた。特に話し掛けては来ないが機嫌は良さそうだ。
給仕をしてくれる侍女も従僕も良く教育されていて動きに無駄が無い。恐らくはこの者たちも戦闘訓練が施されているのだろうと思える。……北部国境ってどういうところなのかしらね。
一応酒精は控えて食事を終える。恐らくはここからアスターム様との話し合いをしなければならないだろうと思ったからだ。というか、私が話をしたい。いや、文句を言いたい。どうしてくれるのか! と。
この人が余計な事をしでかしたおかげで、私のここ何年かの苦労が水の泡よ! 十三歳から十六歳のこの歳まで一生懸命にエリマーレ様にお仕えしてきた事が全部無駄になったのだ。文句を言う権利はあるわよね。
しかし、食後のお茶を優雅に飲みながら、アスターム様は余裕たっぷりに言った。
「諦めた方が良い」
「は?」
アスターム様は口元を皮肉げに歪めて言った。
「貴女はエリマーレ様よりも遥かに優れている。その貴女があんな馬鹿女に従い続けるなど許されぬ。貴女が女帝になるべきだ。ベルリュージュ様」
……私は思わず頭を抱えてしまった。
「貴方が私の何を知っていると言うのですか? アスターム様?」
「そうだな。貴方が第二皇女であること。かなり美しく聡明であること。そして暗殺者を返り討ちにするくらい強く、私を前にしても畏れを見せぬ程度胸が良い事は知っている」
「つまり私とお姉様の複雑な関係についてはご存知ないのですね?」
「ああ。知らぬ」
事情も知らない癖に首を突っ込んで掻き回して! おかげで取り返しが付かない事になったじゃないの!
私が怒った事を察したのだろう。アスターム様は苦笑して言った。
「仕方なかろう。このままだと私はあの馬鹿女と結婚せざるを得ないところだった。それを防ぐにはこうするしか無かったのだ」
「嫌なら結婚しなければ良いではありませんか」
「そうはいかん。バイヤメン辺境伯家としては、私が皇女と結婚して女帝の配偶者となるのは重大なことだ。バイヤメン領を真に帝国に加わらせるためにも必要な婚姻だろう」
その辺の事情は私も聞いている。
バイヤメン辺境伯領は、二十年前まで帝国から独立を保った王国だったのだそうだ。それが帝国から懐柔を受けて帝国に臣従するようになった。
その時に袂を分かった北の隣国や蛮族とバイヤメン辺境伯は戦っているわけだ。つまり、本来帝国が受けていてもおかしくない蛮族からの侵略を、バイヤメン辺境伯は引き受けてくれているわけである。
帝国にとってバイヤメン辺境伯の忠誠をつなぎ止める事は北部国境の維持の為に重要である。もちろんバイヤメン辺境伯にとっても帝国からの支援は領地の維持の為にも不可欠だ。
双方の利害が一致した結果、次期皇帝、女帝になる事が確実視されているエリマーレ様とアスターム様の婚姻が取り沙汰され、今回お見合いするに至ったのだ。それを自分でぶち壊しにしたのだから何を考えているのか分からないわよね。この人。
「だから貴女に求婚したのだ。ベルリュージュ皇女。貴女と結婚して貴女を女帝にすれば全て良くなるでは無いか」
「私が帝国を継げる訳がありませんよ。エリマーレ様が許すはずがありません」
エリマーレ様が私が女帝になる事など易々と許す筈が無い。私は背筋が寒くなる。今この時もお姉様は私を暗殺すべく策謀を巡らせているだろう。怒り狂ったエリマーレ様が何をしでかすかなど予想も付かない。そこそこ機嫌が良い時でも失敗した侍女に対しての罰は過酷を極めるのがお姉様なのだ。機嫌が悪ければ簡単に斬首を宣告したし、目前で首を刎ねさせた事さえ何回かある。
……暗殺ならお優しい扱いだ。捕らえられたら数日拷問の上で八つ裂きにされてしまうだろう。ううう。まったく。何だってこんな事に。
「アスターム様。貴方は誤解しています。説明して差し上げるから良くお聞き下さいませ」
私はそう言って、興味津々に身を乗り出すアスターム様に、自分の生い立ちを語ってきたせたのだった。
◇◇◇
私は現皇帝陛下。ウルバール一世の第二子、第二皇女として生まれた。つまり第一皇女エリマーレ様の妹に間違いないのであるが、事情がある。母親が違うのだ。
エリマーレ様の母は皇妃であられたブーシェリン様。私の母は皇帝陛下のご愛妾クレミュリーユ。つまり私は庶子なのである。
私の母であるクレミュリーユは、女ながらも大柄で力も強く、剣技にも長け軍略にも精通していた女騎士で、数々の戦いを潜り抜けて戦果を上げ続けた結果、大変異例な事に女の身で騎士団長に推されたほどの傑物だった。今、四十三歳だけど今でも私なんかよりも全然力が強い。というより毎日鍛錬を日課として現役騎士を撃ち倒しているので今でも帝国最強の騎士なのでは? という噂すらある。
そのクレミュリーユに皇帝陛下が惚れてしまい、三年もに渡ってしつこくしぶとく求愛した結果、生涯結婚しないつもりだった母が遂に折れて皇帝陛下のご愛妾になったのだった。母が二十四歳の時だ。そして私が生まれた。
小柄で細い皇帝陛下の血を継いだからだろう、私は小柄に生まれた。母に似ているのは赤い髪と緑色の瞳くらいだろう。しかし父である皇帝陛下は私が生まれたことを殊の外喜んだらしい。なぜか。皇帝陛下には子供が私とエリマーレ様しか生まれなかったからだ。皇妃様の他にご愛妾が母を含めて最大四人もいらっしゃったのに。
皇帝陛下のお子がエリマーレ様一人だけでは帝国の将来が心許ない。それで、皇帝陛下はお喜びになったのだが、喜ばなかった方がいる。誰か。他ならぬ皇妃様だ。
皇妃様は自分以外の者が皇帝陛下のお子を産むのを非常に嫌がったらしい。嫌がるどころか憎悪を向けてきたようだ。母の妊娠中は様々な妨害があって大変だったそうだ。母が呑気な顔で言う事にはそうだったらしい。いや、そんな呑気な顔で言う割には、襲撃者が出産の場にまで踏み込んできたとかいう洒落にならない事件まであったようなのだが。
どうやら他のご愛妾にお子が出来なかったのは皇妃様の妨害によるものらしい。証拠はないが、死産であるとか、あるいは出産前にご愛妾がお亡くなりになった例もあるので妨害以上の事もしていたのではないかと思われるのだけど。
とにかく皇妃様は妨害にも負けずに私を産んだ母と、私を憎悪した。そして帝宮内の離宮に住んでいた母と私に様々な妨害を仕掛けてきた。……いや、妨害なんて生易しいものじゃ無かったけどね。普通に暗殺者が襲撃を掛けてきたからね。離宮の中に。
しかしまぁ、母に勝てる刺客なんていないわよね。母は授乳中だろうがお構いなしに剣を振るって暗殺者を撃ち倒したらしい。母は強しと言っても限度があると思うんだけど。ちなみに、母は私への授乳を自分で行ったらしい。乳母を使わなかったのだ。理由は簡単。毒殺を防ぐためだ。
「私は毒になれているから平気だけど、赤ん坊の貴女には厳しかったでしょうからね」
……母の気遣いに感謝するしか無い。実際、私は子供の頃から何度も毒で死にかけた。毒味をさせ、食べる前に試薬で検査してもなお毒が混じっている。相当警戒して舐めるように食べてもどうしても避けられない毒はあるのだ。
私は毒を舐めてしまって何度も寝込み時には生死の境をさまよった。そんな私に母は言ったものだ。
「そうやっている内に毒には耐性が付くからしばらく我慢しなさい」
とんでもない母である。だが、実際何度も毒に引っ掛かれば毒の味や匂い、気配が分かるようになるし、少量の毒なら平気になってくる。十歳の頃にはほとんどの毒は私には効果が無くなっていた。どんだけ飲まされたんだという話ではあるが。
襲撃も日常茶飯事。母は私に武芸も仕込んでくれたので、五歳くらいにはちゃんと武器さえ持っていれば一人で刺客を追い返すくらいは出来るようになった。ちなみに母は追い返すなど絶対にしない。常に全員を楽しそうに惨殺したわよね。
貴族令嬢は色んな教育を家庭教師を呼んで受けるものなのだけど、その教師にも刺客が混じっているから気が抜けない。毎日が戦いだったわね。幸いなことに離宮の使用人たちは母が選んだ絶対の信頼が置ける者達で、護衛の者も母に心酔する一流の騎士が来てくれた。だから何とか生き延びられたのだと思う。
問題は離宮の外だった。私は庶子なので公的に堂々と皇女である、と出て行く場面は無く、貴族の間でも知る人ぞ知るというような存在だった。なので離宮に籠もっていれば良かったのだが、父である皇帝陛下は私に何とか公的な立場を与えたいと思って下さっていたようだ。ちなみに皇帝陛下は私が生まれてから頻繁に離宮に来ては、私を可愛がってくださいましたよ。だから私は父が好きだし、父の望みは叶えたいと思う。
だけど、離宮の外は危険で一杯だ。そんな事は誰に教えられなくても分かる。生まれた時から、いや、生まれる前から頻繁に命の危険に晒されていれば体感として理解出来るようになるのだ。しかし皇帝陛下のお望みは絶対だ。そしてどうやら皇妃様も私が公的な場に出ることに同意なさったらしい。狙いは明白だ。私を離宮の外に誘い出すつもりだろう。
母が許したので私は渋々、八歳の時に帝室主催の儀式に参加した。そこで初めてエリマーレ様とお会いしたのだ。
エリマーレ様は私の一つ上。金髪にグレーの瞳の彼女は私を見ると目を輝かせ「私の妹ね! そうなのね?」と叫んで私に抱き付いてきた。そしてその日は一日私にべったりと付きっきりだった。そのせいかこの日は私は刺客に襲われる事も無く無事に離宮に帰る事が出来た。
エリマーレ様は自分に妹がいると知って会うのがとても楽しみだったと仰り「お姉様と呼ぶように」と言ってくれた。それからも離宮の外での儀式や社交の際には私はエリマーレ様に可愛がられ、それを見た皇妃様もエリマーレ様の目前で私を排除する気にならなかったのだろう、あからさまに刺客を送り込んで来るような事は無かった。たまに毒は盛られたけどね。
なのでこの頃、私とエリマーレ様は仲が良かった。母親同士は険悪を通り越して敵同士だったが、私とお姉様は良い姉妹だったと言って良いだろう。エリマーレ様は気が強く、身分低い使用人には辛く当たるような所があったものの、この頃は今のように残虐で容赦の無い性格では無かった。私にはお優しく、我が儘を言う事もあったが、私が大人しく従っていたこともあり、上手く行っていたのだ。
ところが、この関係が私が十歳の時に崩壊してしまうのである。
きっかけは皇妃様の薨去だった。詳しい事情は知らないが、皇妃様の死は自然死ではなかったらしい。暗殺か、もしくは皇帝陛下が何らかの罪の罰として死をお与えになったのでは無いかという風聞もある。さもありなん。皇帝陛下の愛妾を虐げ命を狙っていたという以外にも、様々な悪事を行っていたという噂もあったのだ。遂に罰が当たったのだとしてもおかしくないだろう。
しかしながらこの時にエリマーレ様に何かが起こった。それが何かは分からないが、妹として可愛がっていた私を突然敵視するような何かが起こった事だけは確かだった。
エリマーレ様は私に「近付かないで下さいませ!」と言い放ち、もの凄い目で私を睨むようになってしまった。私には訳が分からない。仲の良いお姉様だったエリマーレ様が豹変してしまった事が悲しく、嘆いたのだがどうにもならない。それからというもの、エリマーレ様は皇妃様が乗り移ったのかと思えるほど、私に向かって憎悪を向けてきたのだ。離宮を出ると刺客が襲ってくるようになった。皇妃様がいないのだからエリマーレ様が黒幕に違いない。
他にも皇帝陛下のご愛妾が母以外全員、帝都を追放された。これもエリマーレ様のご意向であったようだ。勿論私と母も追放されそうになったのだが、母が悠然と拒否した。当然刺客が何人も送り込まれたのだけど、母と私と護衛騎士で毎回撃退する。
するとエリマーレ様は執拗に、私達への嫌がらせをするようになった。離宮への水道を止めてみたり、食料品の納入を制限してみたり、風上で延々と黒煙を焚かせたりもした。なんというか、皇妃様でさえそこまでやらなかった事を、あの優しかったお姉様がするなんて信じられない思いだったが、彼女の悪意は他の貴族にも牙を向いているそうで、私と親しかった令嬢が何人も帝都を追放されてしまったそうだ。
流石にこれは酷い。私は皇帝陛下に抗議をしたのだが、皇帝陛下にもエリマーレ様の暴走は想定外で、止めようが無いのだそうだ。何しろエリマーレ様はまだ立太女こそされてはいないものの、次期皇帝だ。彼女を皇帝陛下が叱責して行動を強く制限してしまうと、現皇帝と次期皇帝の対立に繋がってしまう。スムーズな皇位継承に支障が出てしまうかも知れない。しかもその理由が、第二皇女たる私を守るためだなどという事が知れ渡れば、次代の皇帝に関して私とお姉様による対立構造が出来てしまうかも知れない。
皇帝陛下も私も困り果て(母は「嫌なら逃げなさい、気に入らなければ撃ち倒しなさい」と全く参考にならないアドバイスをくれた)色々考えた。皇帝陛下は私に帝都を出てもらえないかと仰ったのだが、私は帝都を出ても行く伝がないと断った。変な所に行ったら逆に命が危ないと思われたし。
私は皇帝陛下を通じてエリマーレ様のお望みを確認することにした。私としては「死ね」という命令以外は受け入れる覚悟があるので何なりと言って欲しいと言った。エリマーレ様の気が済むようにするので、どうしたら良いのかと聞いたのだ。
すると、エリマーレ様は私に「絶対の服従」を要求してきた。生涯、エリマーレ様に忠誠を誓えというのだ。私としては否やない。私にはお姉様に逆らう気などない。
そしてエリマーレ様は私に、自分の一侍女として生涯仕えよと言ってきた。自分への忠誠を間近で示し続けろというわけだ。別にこれにも意義は無い。ただ、私も無防備に離宮から出て暮らす事になるわけなので、身の安全の保証が無いのは困る。
皇帝陛下を通じて色々交渉した結果、私はエリマーレ様の上級侍女となり、エリマーレ様に生涯お仕えする。その間、結婚も子供を作ることもしない。エリマーレ様への忠誠を誓い、この誓いを破った場合は殺されても文句は言わない。ただし、忠誠を示し続けている間の私の安全は保証する、という事になった。
逆にエリマーレ様が誓いに反した場合には、エリマーレ様は皇位継承権を剥奪され、皇位は某系皇族の誰かの手に渡る事になるという事にもなった。これは皇帝陛下が強固に主張してエリマーレ様に認めさせた。
そして、私とエリマーレ様は神と皇帝陛下の元に誓いを立て、双方が正式な契約書に署名をしたのだった。
こうして、私はエリマーレ様の侍女になったのだ。正式な神前契約書のおかげか、エリマーレ様があからさまに私の命を狙う事は無くなった。精々私には効かないと分かっている毒を嫌がらせに混ぜるくらいだ。昔より乱暴で残虐になってしまったエリマーレ様を宥めすかしながら、私はこの三年なんとかエリマーレ様の侍女を続けてきたのだった。
それをこの考え無しが! 台無しにしてくれた! 私はエリマーレ様に逆らってはいないのに! どう考えてもエリマーレ様はそう思ってくれないだろう。契約違反を理由に私に自害を要求してくるに違いない。
なんとかエリマーレ様に私の無罪を分かってもらう方法は無いものか。私は頭を抱えて考え込んだのだが。私の話を聞き終えたアスターム様は満足そうに頷いた。
「やはり私の目は間違っていなかったな。あの伝説の女騎士団長クレミュリーユ様の娘だとは。納得だ。そしてこれで貴女はエリマーレ様のくびきから脱して自由を得たのだ。存分に戦う事が出来るでは無いか。私を使ってな」
私はテーブルを叩いて激昂した。
「誰もそんな事を頼んではいませんよ! 私の望みは平穏です! 出来ればお姉様と昔みたいに仲良く暮らしたいのです! エリマーレ様が無事に帝位にお就きになり、安定すればきっと……」
しかしアスターム様は冷然と言った。
「何を馬鹿な事を。今の貴女を守っているのは皇帝陛下と神に誓った契約ではないか。それによって貴女が生きていなければ帝位に就けないからエリマーレ様は辛うじて貴女を生かしているに過ぎぬ」
うぐ……。正論に私は思わずのけ反った。
「帝位を継げばエリマーレ様は憂いなく貴女を殺すだろう。根拠の無い楽観に身を委ねるほど貴女は愚かでは無いはずだが?」
……内心、そう思わないでもなかったのは確かだ。しかし、他人からはっきりそう指摘されてしまうと如何にも私の見通しは甘い、希望的観測に過ぎないと思える。実際、明らかに私に何の非も無いと分かる状況で、エリマーレ様は躊躇無く刺客に私を襲わせたでは無いか。
「諦めた方が良い。死にたいなら話は別だが、私は貴女を死なせるわけにはいかぬ」
悠然と言うアスターム様。だが、この人はこの人で全然信用ならない。そもそも私が皇女である事は、私が侍女になってからはかなり厳重に秘されていたはずなのに、どこで情報を知ったのだろうか?
しかし、信用ならないのは兎も角として、今の私がこの人に頼らないと生きて行かれないのは、残念ながら事実である。私がうぐぐぐっと悩んでいると、不意に、執事が歩み寄り、アスターム様に耳打ちをした。
その瞬間、アスターム様は紅の瞳を細め、満足そうに微笑んだ。
「喜べ、ベルリュージュ様。エリマーレ様はなかなか決断が早い。早速来たようだぞ」
それはそんな満足そうなお顔で言うような事なんですかねぇ! どうやらエリマーレ様は軍勢を繰り出してこのお屋敷を囲んだものらしい。エリマーレ様が本気を出したなら、帝都の帝国軍が動かされたのだとしてもおかしくない。
帝都に駐留している帝国軍は一万人だ。それに対してバイヤメン辺境伯がいかに強力な軍隊を保有していようとも、帝都には数百しか連れて来ていない筈だ。勝負になるまい。
しかしアスターム様は余裕たっぷりだった、従僕に黒い鎧を持たせて悠然と身につけ始める。同時に、いくつかの武具が出された。長槍、ハルバード、戦鎚、両手長剣、片手剣、短剣等々。
「貴女も何か武器を持つ良い。私が概ね護るつもりだが、自力で身を護れる武器を持っていた方が良いだろう」
それ、明らかにちゃんと護る気無いよね。ということで仕方なく私は並んだ武具を順々に見ていった。お母様からはいろんな武器の扱いを習ったから、大体の武器は使えるけど、私は身体も小さいから大きな武器は合わない。何か軽い武器は……。
一つの武器に目が止まる。大体男性用の武器が並ぶ中、一つだけ華奢な武器があったのだ。肘から先くらいの長さの短剣。だが、刀身は細く丸く刃がない、先端のみが鋭く尖っている。
な、なぜこれがここに? 私は驚き、歓喜の思いさえ抱きながら迷わずそれを手に取った。
「ほう。暗殺用のスティレットではないか。癖のある武器だが使えるのか?」
使える? 私はその言葉に思わず笑い顔になってしまう、
このスティレットは私の一番得意な武器だ。子供の頃から命を狙われ続けた私は、この軽くてそれでいて一刺一殺の威力を持つこの武器を一番の頼りにしてきた。
これさえあれば、何も恐るるものは無いくらいだ。どんな敵の攻撃でも潜り抜けて絶対に生き残って見せる。私はスティレットの黒い刀身に頬擦りをしながら自分の心と身体に心地良い高揚感と自信が満ちて行くのを感じていた。私はアスターム様に向けて挑戦的な笑顔を浮かべつつ言い放つ。
「これさえあれば、貴方だって殺して見せますわよ? アスターム様」
「ほう? 大きく出たな。それでは参ろうか」
鎧を着て完全武装を完了したアスターム様がそう言った瞬間、ガラス窓の割れる音が遠くで響いた。
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