第29話
「役所についたよ」
車の中で終始無言な俺に合わせるように、一条もずっと静かだった。
まあ、その間にスマホで一生懸命何かを調べていたので、きっと婚姻届の書き方とかについて検索しているんだろうなとは予想がついていたが。
俺はその間に頭の中でこの状況を打破する術を練っていた。
練って。
練って。
練った。
だけ。
結局これといった案は出ず。
役所に到着してまった。
運転手を車に残して、二人で建物の中へ。
すぐに職員のおばさんがきてくれて、一条が事情を説明し始めると、ニコニコされながら書類を渡された。
婚姻届。
「わあ、本物だよ? ここに名前書いて出したら夫婦になれるんだね」
「……もう、書くの?」
「どうしたの? もしかして恥ずかしい?」
「ま、まあ……ええと、一条さんちょっといいかな?」
書類を受け取り、一度彼女を外へ連れ出す。
精一杯照れている演技をしながら。
「どうしたの? もしかして」
「違うんだよ、大事なことを思い出してさ」
「大事なこと?」
「う、うん。ほら、ここ。俺たちだけの署名じゃなくて証人がいるんだよ。ええと、まあ身内じゃなくてもいいみたいだけどとにかく第三者のサインがさ、必要なんだよ」
ぐいぐいと進められるこの状況に抗うための苦肉の策、というか言い訳。
だが、一条も「本当だ、うっかりしてたね」と。
まだ、時間は稼げそうだ。
「と、というわけだからとりあえず一旦喫茶店でも寄って誰に書いてもらうかとか相談を」
「ううん、大丈夫。黒木、来なさい」
「はっ、お嬢様」
役所の入り口のところで一条が車の方に手招きすると、車の前で待機していた運転手がささっと寄ってきて、すぐにサインをする。
「終わりました、お嬢様」
「うん、ありがと。薬師寺君、これで問題ないよ?」
「あ、ええと……あの、彼でいい、の?」
「うん。私の専属黒服だから。問題ないけど?」
「……終わった」
終わった。
俺はもう、この状況を打破する術を思いつくことはできなかった。
サインを拒むとペンを手の甲に押し付けられて。
震える手で名前を書く手をまた止めると、背中に冷たいものが当たる。
俺は涙を堪えながら名前を書いた。
そして嬉しそうに一条も。
ご丁寧に俺たちの印鑑も勝手に用意されていて、あとは勝手に一条がやってくれた。
この日俺は。
入籍した。
◇
「蓮也君。蓮也君、蓮也君。ふふっ」
新婚の俺たちが結婚して一番最初に訪れたのは近くのカフェ。
一条、もとい薬師寺深雪となった彼女は俺の名前を何度も呼ぶ。
ついにやってしまったのだと実感しながらも、俺は気持ちを必死に切り替えようと頑張っていた。
結婚はした。
でも、離婚はできる。
ていうかむしろ、離婚してこいつの経歴に傷をつけてやればいいんだと。
俺がバツイチになるのは構わないが。
こいつはバツイチなんて、一族の恥となるだろう。
ふっ、こう思うと結婚した方が正解だったな。
別れた時、もっと相手を傷つけることができる。
うん、そうだ。
きっとそうだ。
そのはずなんだ。
「蓮也君、この後は新婚旅行に温泉行って、そこの旅館でゆっくり何泊かして、そのあとで沖縄に飛んでゆっくりして、ハワイで挙式してからシンガポールに飛んで、そのあと」
「え、ええと大学は?」
「行かなくても大丈夫だよ。あの大学、うちの経営だから」
「……でも、友達とかが心配するんじゃ」
「その友達との縁を切るためだよ? みんなが蓮也君のこと忘れるまで大学帰ったらダメー。ふふっ、もちろん帰る理由なんてないと思うけどね」
「……」
結婚して一層メンヘラが加速する深雪を見ていると、どうやったら離婚できるんだと思わされるけど。
今は考えたら負け。
とりあえずあちこち連れまわされるそうなので、その間に逃走ルートを確保しよう。
命をかけて。
こいつと離婚……。
……なんだろう、俺は何がしたかったんだっけ。
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