第3話
「薬師寺君、おはよう。ねえ、おはようってば」
「……」
別に自慢するほどのことでもないのだが、俺は異常なまでに寝覚がいい。
どんなに夜更かししても、自ら決めた起床時間にはバッチリ目が覚めて意識が覚醒する。
だから今の状況が夢じゃないかと願っても多分違うのだろうとわかる。
朝の五時。
執拗に鳴るインターホンに嫌気がさして玄関の扉を開けるとそこにいたのは一条。
頬を赤らめて、目をトロンとさせながら、中に入れてほしそうにこっちを見ている。
「薬師寺君? もしかして中に誰かいるの?」
「え? いや、いないけど」
「なんだ、おどかさないでよ。じゃあ、お邪魔してもいい?」
「……どうぞ」
なんのアポイントもない突然の訪問を断るという選択肢ももちろんあったけど、何故か俺は彼女を部屋に入れるという選択をとった。
嫌な予感がしたから。
これまで培った自分の経験からくるこの予感を無視はできなかった。
「へえ、綺麗なお部屋だね」
と、部屋に入るや否や嬉しそうにそう呟くのは一条。
俺の部屋は廊下側にキッチンがついていて、風呂とトイレが別、奥に六畳一間があるだけのなんてことはない部屋だ。
築年数も二十年くらいでお世辞にも綺麗とは言い難い場所だが、部屋の中はそれはもう綺麗に整頓してある。
それもこれもこの日のために。
一条を家に連れ込んだ時に幻滅されないためにタンスの埃一つ見逃さず、毎日掃除を欠かさなかったわけなのだけど。
「でもベッドが小さいね。これだと一緒に寝るには窮屈だね」
そんなことを言いながら俺のベッドの大きさを測り始める一条を見ていると、何かが違う気がしていた。
いや、何かではなく何もかも。
こんな予定ではなかった。
一条を初めて家に連れ込む時は、もっと親密になってからとばかり想像していたので、初デートすらまだのこの状況で彼女がここにいることは全くの想定外。
しかし、だ。
想定が外れることなんてままある。
こんなことくらいであたふたしていたのでは彼女を騙して陥れることなんてできやしない。
俺は何のためにここまで頑張ってきたんだ。
初心に帰れ、そして踏ん張れ俺。
「た、確かにベッドは狭いけど一人だったら十分だよ。それより、朝ごはん食べた?」
おそらく顔を引き攣らせながら、振り絞った言葉がこれだった。
色々と考えてみたけど、「じゃあ広いベッドを買いに行こう」とか、「俺と一緒に寝たいのかい?」なんてプレイボーイな発言は何故かヤバい予感がした。
何が、とは言えないが。
とにかく言っちゃいけない気がしたのでやんわりと話題を逸らす作戦に出た。
「朝ごはん? 薬師寺君はもう食べたの?」
「俺? いや、まだだけど」
「いつもはどうしてるの? 自炊? それとも惣菜? あ、もしかして誰かに作ってもらってるとか?」
「い、いやいや作ってくれる人なんていないよ。まあ、朝は気分で食べたり抜いたりかな」
「ダメだよ、ちゃんと食べないと。そうだ、これから私が毎日作ってあげるね。ふふっ、それだと薬師寺君が朝ごはんを食べない日が無くて済むね」
「……」
「どうしたの? もしかして遠慮してる? そんなの全然いいのに。私、早起きとか平気だし誰かのために料理するのとか、やってみたかったの。ねっ、早速何か作ってあげるね」
勝手に話を進めて、勝手に冷蔵庫を開け始める一条を見て、俺は確信した。
この女、メンヘラだ。
それも極度のやつだ。
「薬師寺君、冷蔵庫に全然食材入ってないね。もう、こんなんだとダメだよ? 一緒に買い物行こっか」
「買い物……でもまだ早朝だし」
「二十四時間やってるスーパーも近くにあるから大丈夫だよ」
「一緒に、じゃないとダメかな? 俺、実はまだ眠くてさ」
「えー、一人で買い物行かせるの? 薬師寺君って案外亭主関白なんだね。あっ、亭主だって、やだー、もー」
勝手に照れる一条を見ながら俺は肩を落とすしかなかった。
自らのターゲットがまさかのメンヘラとは、予想もしなかった事態だからだ。
騙しやすいかもしれない。
いや、むしろこれくらい俺にのめり込んでくれたら好都合なはずなのだ。
しかし。
「あっ、もしかして私と一緒にいるところを見られて困る人がいるの? ねえ、いるんだね? 誰? デートしようとか、誰にでも言ってないよね?」
「ち、ちがうちがう! 俺はいたって真剣に一条さんを誘ったつもりだし見られて困ることなんてなにもないって」
「そ? なら、いこっか」
「……はい」
態度を急変させた時の一条の目が怖くて、従うしかなかった。
目の奥が濁り切って、焦点があわないメンヘラ独特の目。
笑ってるのに、全然笑っていない感じのあの笑顔。
俺はヤバいものに手を出してしまったのではないかと後悔しながらも、とりあえず一度部屋から彼女を連れ出したい一心で一緒に部屋を出た。
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