第六話 嫁の年収俺の三倍

「どうしたのよ?」


 洗い物を終えて、机で一息ついていた祐子が訊ねた。化粧水が戻っている。


「あいつがクレジットを勝手に使った」

「いくら?」

「十五万だ」


 驚愕の表情を浮かべる祐子は、思わず口に手を当てた。


「そんな……料理教室の生徒さんの月謝と同じじゃない!」

「お前……そんなに取ってるのか」

「十五万でも安い位よ。私の講義が受けられるんですもの。二十万でもいいわ」


 もしかしたら俺が会社を辞めてもやっていけるんじゃないだろうか。


 一瞬そんなことが脳裏をよぎったが、直ぐに頭を振る。仕事を辞めてしまったら、三太と同じ状態になってしまう。父親の威厳がなくなってしまうぞ。


 それにしても、生徒一人で月謝が十五万だと? 確か、祐子の教室には十人生徒がいるはずだ。月収百五十万ってことか? 週一回しかやってないのに? 年収にすれば──千八百万!? 俺の年収の三倍だと!?


「祐子! 教室で得た金はどこに置いてるんだ! 口座は分けてたが、そんなに貰ってるとは知らなかったぞ!」

「そんなの全部競馬に突っ込んでるわよ」


 ショックで目の前が真っ暗になった。自分の知らないところでそんな大金が動いていたなんて……。毎日せこせこ働いてやっと年収六百万の自分がちっぽけに見える。


 貴史は必死に頭を振って、祐子を問い詰める。


「競馬だと!? そんなギャンブルやってるのか! はしたないぞ! それに何だ、馬が走ってるとこ見て何が楽しいんだ!」


 祐子は頬杖をつき、何かに酔いしれた顔をした。くそう、美しい!


「競馬って言っても、私は馬に掛けてないのよ。最近はね、トナカイレースっていうのがあるの」

「なんだそれ」


 思わず、貴史は訊ねた。


「最近サンタ業ってのが出来たでしょ? それに乗じて、トナカイに競争させるのよ。騎手はソリの上からトナカイのケツを叩いて、熾烈な競争を繰り広げるってわけ。このレースの醍醐味は、やっぱり大迫力の空中戦ね。観客全員で空を仰いで叫ぶのは、不思議な一体感があるわよ。競馬だったら、負けたら崩れ落ちて地に涙を滴らせるものだけど、トナカイレースの場合は、天に向かって泣くからね。負けてもかっこよく泣ける。そこが人気のポイントね。一回一緒に行ってみる? 脳汁が溢れ出るわよ」


 別に天に向かって泣けるのが良いのか知らないが、ギャンブルを悪だと思っている俺にとっては、馬もトナカイも関係ない。月に百五十万も使って一体何をしているんだ。ただでさえ家計はカツカツだと言うのに。


「それで、勝ってるのか?」


 思っていることとは全く違う質問が飛び出てしまう。結局、俺も卑しい性格なのだ。


「まあ、たまに勝ったりはするけど、勝った分もすぐにつっこんじゃうから、あんまり意味ないわね」

「それって何が楽しいんだよ」

「そうね……結局は、一瞬の刺激を求めてるのよ。私生活では何にもないしね……」


 『家族サービス』。その文字が、再び脳裏に蘇った。やはり、このままじゃだめだ。俺が何もしないから、祐子がギャンブルに染まってしまったんだ。大金も吸われてしまうし、このままではいけない。


 貴史は覚悟を決めた。明日は、旅行に行く。家族みんなでだ。


「あと、もう一個理由があるわね」


 自分の覚悟に気を取られている貴史をよそに、祐子は立ち上がった。貴史に背を向けて、ルンルンと歩いて行く。


「この騎手がかっこいいのよ!」


 祐子は引き出しの中から、チラシを一つ取りだしてきた。爽やかな塩顔イケメンが、こちらを見て微笑んでいた。塩顔のくせに、日に焼けている。生意気な。


「岩ノ上愛斗っていうの。主人公みたいな名前でしょ?」

「こいつがそんなに上手いのか?」


 祐子は首を振る。


「いや、上手くはないわ。ただイケメンなだけよ。いつも下の順位なんだけど、かっこいいから思わず掛けちゃうのよ。実力はないのに、いつも一番人気だわ。多分顔だけで食ってるわね」


 こいつのせいで、赤木家の金が吸われているのか。くそ、やっぱり生意気だ。その白い歯を全て折ってやりたい。


 自分で稼いだ金でもないのにイライラしている自分に気付き、思わず溜め息をつく。今日は溜め息をついてばかりだ。なにも上手くいっていない気がする。やはり、旅行にいって気分を変えなければいけない。


 何気なく、チラシの裏を見た。するとそこには、温泉付き旅館の広告が掲示されていた。当日予約可。今ならなんと三十パーセントオフ。


 貴史は、思わずニヤリとした。これだ。これしかない。


「祐子、これは最近のチラシか?」

「ええ。丁度昨日のやつよ」


 決まりだ。たまには遊園地ではなく、温泉にでも行こうか。一緒に風呂に入れば、本音で語り合える。このもやもやした感情を、水で流してしまおう。そうと決まれば、早速プランを練ろうか。とっとと埋まる前に予約して、予算も決めないと。ああ、なんだかワクワクしてきた。


 後になって考えてみれば、この選択が間違いだった。あのチラシを見てしまったばっかりに、あんなことになるなんて。岩ノ上愛斗って奴のせいだ。あいつがチラシに載ってなければ──と言いたいところだが、彼は後に私たちを助けてくれる。彼はまさに、ソリに乗った王子様だった。


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