12 なつの終わり 1

 岡山県南部の児島半島は本州四国連絡橋の中でも最も重要な瀬戸大橋が架けられていることで知られている。また、ジーンズの製造が盛んで、駅前ロータリーの屋根には大量のジーンズが暖簾のように掛けられている。そして、児島半島の大半を占めるのが鷲羽山である。瑞々しい翠が温暖な瀬戸内であることを実感させてくれ、山頂にある鷲羽山ハイランドには地元の人のみならず多くの観光客が訪れている。

「ここで降りるんだ」

F氏はRのトランクを持つと、窓をぼんやりと眺めている彼女に言った。彼女はゆっくりと頷いた。F氏が引き続き降りる準備をしていた時だ。カーディガンを羽織った彼女が徐に手を差し出した。

「手、繋ご」

F氏は驚かなかった。彼は孫娘を失った傷が厚い瘡蓋となり、それが剥がれて新しくなるのを実感しつつあった。けれどRはどうだろう。彼女は俺のことを自分のお祖父さんだと思って接しているのだろうか。それとも俺に心を許してくれたのだろうか。F氏は前者だと思った。勿論拒む必要もない。彼女にはきちんとお祖父さんと別れ、前をみることが必要だ。けれど彼女は俺に逢うまでその時間が無かったのだろう。俺がその時間を作ってみせる。彼女は生きることを拒んでいるわけではないのだから、笑顔で未来を歩んでいくことができるはずだ。海を眺めるRをみて、F氏はそう思ったのだった。F氏はゆっくりと彼女の手を握った。彼女の手は丸くて人形のように小さくて、すこし湿っていた。少し握っただけで雪のように溶けてしまいそうな柔らかさだった。

 人が死と向き合うことは容易ではない。耐え難い苦痛と、果てしない虚無感のなかで自らも命を絶ち、死と向き合うことから逃避することを否が応でも考えてしまう。けれど、それを乗り越えて死んでいった人々の意志を新しい世代、新しい人々に引き継いでいこうと努力することこそ、人間であるということの証明であり、誇りではないだろうか。

(優、お前が聲を挙げ続けたおかげで、俺は生きようと思った。君の絵に描かれた瀬戸の海は君の想いを原動力に波を発して、俺たちを励ましてくれた。ものを創ることは本来こうでなくちゃならないよな。たとえそれを観て、評価してくれる人がこの世界で一人だったとしても、その人が自分の人生を生き続けたいと思ってくれるなら傑作なんだろう。俺はもう一度絵を描いてみたよ。Rちゃんが明るい未来へ進めるように、楽しく生きようと思ってくれるように。)

駅のロッカーにトランクを預けている間も、RはF氏の手を放すことはなかった。その手は熱を帯びて頑なだった。もう二度と離れたくないと決心しているようで、F氏は改めて胸を締めつけられる気がした。優を思い出さずには居られなかった。子供にとっての孤独がどれほど辛いことかを彼は充分に知っていた。

 タクシーを待つ間も俯いて、それでも握った手を離さないRをF氏はただ黙ってみつめるしか出来なかった。F氏は迷子になった孫娘を遊園地の事務室から連れて帰った日を思い出した。涙で潤んだ瞳を隠すように彼女は俯いて唇を震わせていた。あの時も彼は黙って彼女の手を握りしめることしかできなかった。彼は自由になった手で携帯用の鞄からメモ帳ーークマのバッジがついているーーを取り出してぺらぺらと捲っていった。中盤から最後のページにかけてひたすらに孫娘、優とのが書き連ねてあった。それは優によって均整のとれた綺麗な字、それでも中学生的なあどけなさの残る字で書かれていた。

項目ーー遊園地でしたいことーー

・ジェットコースターに乗る←ちょっと怖い

・一緒にプール入る←これ重要!!

・アイスクリーム食べまくる←何個食べれるかな?

・おかーさんとおとーさんにお土産買いたい!

(優、ごめんな。とうとう約束果たしてやれなかった。今日、俺はRちゃんと遊園地に来たんだ。だから、俺が前を向いてRちゃんを案内してあげないと駄目なんだ。)

彼はメモ帳をぱたりと閉じてRに言った。

「もう一度海みるかい?Rちゃん。とっておきの場所知ってるんだけどさ」

RははっとしてF氏の顔をみた。ぱっちり開かれた瞳に微かな輝きが取り戻されていくのがわかった。

「うん!」

怖いもの知らずの優が唯一駄目だったアトラクションがあった。鷲羽山ハイランド名物のスカイサイクルと呼ばれるものだ。その名の通り、高さ16mのところに設置されたレールの上を特殊な自転車を使い、二人で漕いでいく。ただでさえ山の上にあるのに加えて、それから16m上がっての上空散歩は瀬戸内海を一望できると人気であるが、錆びついたレールやカーブする時の遠心力、何より自分で漕ぐしかないことで恐怖感は倍増する。絵の参考になるからとF氏は優を誘い、始めこそ乗り気だった彼女もいざ順番が回ってくると泣いて抱きついてきたのは忘れられない思い出になった。

 優のこともあってか一抹の不安、つまりRが怖がらないかということを思いはしたものの、F氏はどうしてもあの景色を見せたかったのだ。

 弛んだシートベルトを係員の指示に従って締めると、二人の自転車はゆっくりと出発した。初めこそ自転車はぎこちない動きだったが、二人のペースが合わさり、徐々に滑らかになっていた。

「ここはね、優が一番好きな景色だったんだ。さっきも言ったけど、散々乗るのを嫌がったんだけどね」

「、、、、」

二人はひたすら前をみて漕ぎ続けた。結局杞憂で終わるのだろうけど、レールがちゃんとゴールまで伸びているか心配だったのだ。

「亡くなる数日前まで優は瀬戸内海と浮かぶ島々を描いていた。今日彼女の絵を改めてみてみたんだよ、優が死んだって受け入れられなくてずって隠してたんだけどね。彼女はよくその絵について『龍安寺の構図にしたんだ』って言ってたんだよ。確かに小さな島々はそうだった。彼女が意図的に配置替えをしたんだろう。けど、小豆島だけはいつも同じ場所だった(F氏は小豆島の方向を指差した)。それでわかったんだよ。ここからの景色だって」

RはおずおずとF氏の指差す方向を眺めた。空の青色と溶け合うような島の全貌がみえた。夏の優しい匂いが伝わってくるようだった。波は穏やかで澄んでいた。Rは子供らしい声で、

「きれい、、」

と言った。F氏は一度でもこの幼気な少女に死者を仮託しようとした自らの浅ましさを恥じた。F氏の画風を凍えるような眼差しと評した友人を思い出した。俺は弱い人間だ。でも、この世界に弱くない人間など居るのだろうか。思い出の故人たちはみな完璧で美しい。否が応でも世界を超越したような故人と自らと比べてしまう。けれど、その美貌を獲得しようとすれば、死ぬしかないのではないか?だから我らは生きなければならない。弱さという美しさを持っているのだから。

「Rちゃん、契約を終わりにしよう」

F氏はきっぱりと言った。Rはその言葉をひどく恐れていたらしくそっぽを向いて押し黙った。錆びついた自転車のペダルを漕ぐ音だけが響いた。彼は今更ながら自分の発言を後悔した。優の存在をRに託した自分が言えたことでは無いような気がした。シートベルトが膝の上で胡座をかく蛇のような感じがして気持ち悪くなった。Rの顔は見えなかった。泣いているのか怒っているのか、或いはどっちもかもしれない。

「お疲れ様でした」

係員の声がした。F氏は気まずさを隠すように敢えてシートベルトをゆっくり外した。

「あ、あの」

Rが咄嗟に係員に言った。

「もう一周いいですか?」

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