11 瞳に映るものすべて

 坂出まで普通電車で乗り継ぎ、そこからは快速マリンライナーで海峡を渡って児島駅に向かう。F氏の家から坂出までは鈍行であったが、急くほどに彼らは焦らなかった。

「来たときは海はみたかい?」

「そんなに。でも窓から外の景色を眺めていたはずなの。それ以外にすることがなかったから、、」

Rは遠い昔を想像するように昨日のことを想像した。朝早くに大阪を出発して新幹線で岡山へ向かった。新大阪駅は改札がいっぱいで、Rは普通の電車も乗り慣れていないから、在来線の改札を間違えて通りかけた。容赦なく改札に弾きかえされると、Rは冷淡に飛び出てきたゴム製の扉を睨むしかできなかった。彼女は大人に面と向かって話しかけることを躊躇したのだ。見かねた若い女性の駅員さんが新幹線のホームまで付き添ってくれた。Rは目まぐるしく行き先の変わる掲示板をぼんやりと眺めた。

「このホームに来た新幹線に乗るの。列車名は気にしなくても良いよ、岡山には全ての新幹線が停車するからね。大体四十分から一時間もあったら到着するかな」

駅員のお姉さんはそう言って立ち去ってしまった。尤もその方が彼女にとってもありがたかった。彼女は持ち前の観察眼でずっと掲示板を眺めた。どうやら、「のぞみ」や「みずほ」は速い新幹線で、「こだま」は全ての駅に停まるようだった。Rは社会の教科書でしか見たことのない地名、姫路、岡山、広島に博多が矢のように過ぎ去っていくのを、面白く、ちょっぴり怖いと感じた。でも、戻ることはできない。彼女は新幹線に飛び乗った。

 街を轟音を立てて過ぎ去っていくのをみてもRは驚かなかった。やがてトンネルが連続して峻険な山々といないいないばあするようになっても彼女は静かだった。これ程遠出するのは初めてで実感が湧かなかった。不安に近いけれど不安でないような、底なしのプールを泳いでいるような気分だった。けれど、たとえ溺れてしまっても何とかなるだろうと彼女は思った。だって、おじいちゃんがいるからーー。

 岡山駅でカワセミのような新幹線をみた。同じ色、同じ形をした新幹線は他になかった。Rはその電車を撫でて労ってやりたくなった。しかし、その新幹線はRが対岸のホームに居るうちにいそいそと出発してしまった。彼女はそれが自分のように感じた。彼は次の駅で仲間に出会えただろうか。それとも、話しかけることもできないで高速ですれ違うままだろうか。Rはどちらでもあり得ると思った。

 それから特急に乗った。新幹線と比べると随分汚くて角ばっていた。Rはこれから出会う人物を想像してみた。写真では綺麗だったけど、実際はこの列車みたいに煩くて不潔な人かもしれないのだ。彼女は首を振って、カワセミの新幹線のことを思った。おじいちゃんはそっちだ。車内は外見に違わず煙の匂いが少ししたけれど、概ねいい匂いだった。座席も銭湯のマッサージチェアみたいで心地よかった。Rは何もすることがなかったから、窓の景色を眺めた。窓は微妙に曇っていた。頬を押し当ててぼやけた青い空を見た。線路が幾重にも連なって絡み合い、別れていった。始めこそ不気味な音がして軋んだりしたが、加速するにつれて滑空しているように感じた。そして気がついたら、Rは眠ってしまったのだ。おそらく寝ているうちに海峡も渡ってしまったのだろう。彼女が目を覚ました頃には県を二つまたいだ山奥の中継駅だった。彼女は涎を拭いながら慌てて駅舎に降りたった。目的の駅を遠に過ぎていた。岡山駅を出発した時には晴れていた空も、曇天に変わっていた。駅舎から窺える山林は霧を吐き出して此方を睨みつけているようにみえた。彼女は泣きそうになるのを堪えて、寂れた駅員室に向かった。

 駅員室はまるで小学校の職員室のようだった。木製の椅子と大きな(といってもR目線の話だけど)机が並べられていた。机の多くが、丸められた、地域の景勝地を写した観光案内のポスターや書類で埋め尽くされていた。奥の机にしか人は座っていなかった。Rは入口で黙ってそれを眺めるしかなかった。「寝過ごした」と言い出すのが怖かったし、恥ずかしかったのだ。それでも、何か言わないと一生ここから出られない。Rは控えめに「あ、あの」と言っては直ぐそれを引っ込めたりした。まるで猫が新品の玩具を触ろうか触るまいか逡巡しているようだった。ふいに奥の方に座っていた中年くらいの男がマグカップを手に立ち上がり、Rの方へ向かってきた。熊のように肥えていて、腹のボタンは今にも千切れそうなのを辛うじで留めているようだった。時折額に光る汗を黄色のハンカチで拭っていた。

「おや、どうしたんだい?お嬢ちゃん」

その男は体型に違わぬ大声で言ったので、Rはびくりと震えた。怖くて俯くことしかできなかった。

「どうしたんだい?切符無くしちゃったのかい?」

彼女は首を振った。

「迷子になっちゃったのかな?」

彼女はまた首を振ってから、勇気を振り絞って言うことにした。その駅員に釣られてか、大声で。

「ね、寝過ごしました!」

駅員室と生涯を共にしたと言わんばかりの褪せた色をした扇風機がガタガタと震わせながら風を送っていた。奥の部屋から警官みたいな帽子を被った老人が顔だけだして豪放磊落に笑った。

 老人は駅長で、熊みたいな駅員は助役だった。二人の朗らかな笑みに誘われて、Rは駅員室の奥の駅長室に連行された。古い部屋の扉がバタンと閉められたとき、彼女はまるで罠に嵌められた狸のような顔をした。駅長はまた笑った。

「まぁ、お茶でも飲みなさい」

駅長が漆を塗った机に置かれた小さな茶碗に茶を注いだ。それから、右腕の時計を確認した。

「どこまで行こうとしたのかな?」

「琴平です。祖父がいるんです」

Rは特急券を駅長にみせた。駅長は神妙そうにそれをとった。

「どこから来たんね?」

「大阪からです。新幹線と特急で、来ました」

Rは緊張すると身体が内側から震えてしまって吃りがちになったが、駅長の前だとすんなりと話せた。どことなくおじいちゃんに似ているからだろうとRは考えた。禿げてはないけど。

「大変やったなぁ。おじいちゃん家には何時に着く予定だったん?」

「午後一時です。でも間に合うかわかりません」

「おじいちゃんには連絡はしたかい?きっと心配するよ。切符のことは何とかするから、安心してね。次の特急で逆に戻ること。琴平だから次の停車駅だよ」

駅長は胸ポケットからペンを取り出して何かを書き始めた。その間、RはF氏に連絡するかどうか迷った。彼に連絡することはできるけれど、履歴からもう二度と「IDOL」は使えなくなるだろう。F氏との関係もそれでお終いになる。おじいちゃんになってもらうことも叶わないかも知れない。彼女は無言でお茶を飲んだ。少し苦い味がした。Rは苦い飲み物が好きではなかった。しかし、飲むと冷静さや眠気を取り戻すことができるし、大人らしいから飲むことにしているだけだった。作法が許すなら一口飲むごとにケーキを頬張りたかったくらいだ。大人って凄いよね。苦いのも美味しいって感じるんだから。Rはコーヒーを平然と、寧ろ美味しそうに飲むおじいちゃんが羨ましかった。F氏はどうだろう。見た目は飲んでそうだったけど。

「Rちゃん、だったかな。何年生だい?」

「六年生です」

「一人で偉いねぇ。わしんところにも小学三年生の双子の孫娘が居るんやけどね、二人ともすっごく怖がりでね。近所にお使いに行くこともできなかった。けどある日わしがお弁当を忘れたときに届けに来てくれたんよ。娘から、あぁ彼女達のお母さんね、正午には着くからって聞いたんだけど、これが中々来ない。わしは心配で心配で仕方なかったよ。滝沢と、あぁ熊みたいにデカいさっきのおじさんと駅の周りを探したら、二人は健気に歩いてたんな。どうやら途中で転けちゃって膝を擦りむいたようでな、それでも来たんだと」

駅長はまた時計を確認した。時刻は午後二時だった。特急は未だ来なかった。

「おじいちゃんはね、皆んな孫が大好きだ。嫌いな人なんて居ないよ。だから、Rちゃんのおじいちゃんの気持ちがわかる。きっと心配してるよ、怪我してないかとか、迷子になったかもとかね。寝過ごしても焦らなかったRちゃんは偉い。けれど、ちゃんと連絡しなきゃだめだよ。人は皆んな繋がってる。Rちゃんみたいな良い子だったらなおさら救けてくれるよ。大切な人なら尚更ね。だから、、」

にわかにホームがエンジンの音で騒がしくなった。滝沢と呼ばれた助役が扉を開けて待ってくれていた。

「おじいちゃんと仲良くするんだよ。元気でね」

「ありがとうございました」

Rは頷いて、滝沢に手を引かれながらその場をあとにした。外はいつしか雨が降っていた。

「気をつけてな」

滝沢に手を振って列車に乗り込むと、Rは一目散にメールを開いた。そこには新着で一件メッセージが入っていた。最初は両親だと思ったけれど、差し出し人は予想外のF氏だった。彼のメールをみて、Rはおじいちゃんを思い出した。Rは暫く嬉しくて笑いだしてしまいそうな気がした。それから大急ぎで返信を考えたのだった。

「見えるかい、Rちゃん」

Rは隣の窓を眺めた。ちょうど電車は瀬戸大橋の橋梁を渡り始めていた。鮮やかな翠に包まれた島々が雲間に現れる月のような明るさで浮かんでいた。穏やかな海の上を小さな漁船が青蜻蛉のように軽快に駆けていた。青く浅い海はどこまでも広がっていた。波は宝石のように輝いて泳ぎ、鴎たちに子守唄を聴かせていた。母と呼ばれるに相応しい感じがした。

「綺麗、、」

彼女は自分の心から不思議と死にたいという思いが霧消していくのを感じた。それはこれまでの苦痛や心労を想えば戸惑いを隠しきれないくらいに呆気なく、優しい海に吸い込まれていった。瞳に映るものすべてが生きているものを激励するような自然であった。Rは初めてF氏の前で涙を流した。それは静かな涕泣であった。F氏は彼女を抱き寄せながら、優、お前が俺たちに見せたかったのはこれなんだなと無言のままに語りかけた。

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