10 こどくのやめどき
Rが眠い目を擦りながら寝室を出ると、廊下には清々しい朝の光が等間隔に差し込んでいた。この場所に寝転がったらシマウマみたいな日焼けができるだろうと思った。F氏はもう起きていて、台所で朝ごはんを作っていた。
「よく眠れたかい?もう少し寝てても良いんだよ?」
彼はソーセージを焼きながら言った。Rは首を振った。
「あの、、牛乳ありますか?」
「冷蔵庫から勝手に取っていって良いよ」
彼女は初めて彼が積極的に行動しているのをみた気がした。何となくだが、彼が二十年も三十年も若い人間に思えた。Rは牛乳パックを取りだしてガラスのコップに注いだ。いつもと変わらない朝だ。明確に違うのはおじいちゃんが居ることと、狭苦しい都会の家じゃないことだった。
「今日は鷲羽山の遊園地に行こう。夕方には岡山駅に着けるように頑張るから、心配せんでも良いよ」
Rはちゃぶ台に伏せていた首をもたげてF氏の言葉を辿った。名状し難い悲しみがRを襲った。
「じいちゃんはそれで良いの?」
Rは救いを求めて縋るように聞いた。何もかもが不完全だった。本当は家のことなんか忘れてずっと彼と一緒にいたいのだと彼女は思った。
「構わないさ。君と一緒に約束を果たして一区切りつけるんだ。契約の期限も迫ってる。俺たちに猶予はないんだ」
「期限なんて、、こなきゃ良いのに」
Rは泣きたくなる気持ちを抑えてちゃぶ台に突っ伏した。さっきと違ってはっきりと目覚めていた。時間がない。このままじゃF氏も私も救われない。でもどうしよう。Rはやるべきことが次々と降りかかって窒息しそうだった。しかし対象的にF氏は穏やかで冷静だった。
「期限がわかってるだけ随分ましじゃないかな。実際はそうじゃないからね」
彼の声が重々しくのしかかった。けれど彼の声は歌うように明るかった。何だか懐かしい感覚をRはおぼえた。
「大丈夫。心配することはないさ。今日一日中を楽しめば良い。夕方まで蛍は来ないから」
F氏はソーセージと目玉焼きをプレートに載せると、トースターにパンを仕込んだ。Rはその間もちゃぶ台に顔を伏せたままだった。
「今日は海に行こう。、、優見たがってたろ」
F氏はどうしてもRの名前を呼べなくなってしまった。彼はRが優になりきろうとしていることを悟っていたのだ。それに気づいた時から酷く鬱屈した感情を抱いた。自分は小学校の女の子にまで気を使われる人間に堕落してしまったことが悲しかった。あの世の優が涙するのもわかった気がした。端的に言って情けなかった。けれど、もう引返せないのだ。このまま彼女に騙されたふりをして、憐れな道化を演じるべきなのか。しかし、それで彼女が救われるのだろうか、彼にはわからなかった。唯、予定通りにことを進めるしかない。F氏は軽くRの背を撫でると、朝食を食べるよう促した。
優、お前が生きていたなら、Rちゃんとはすぐ友達になれたろうにな。
「じぃちゃんはね、元気が足りないんだよ」
「友達づくりに快活さがいるのかい?俺は静かなのが好きなんだ。俺にはお前みたいな底なしの元気なんて持ち合わせてないんだよ」
「うっそだぁ。私じいちゃんの孫娘なんだよ?私が陽気な性格なのにどうしてじぃちゃんがニヒルになっちゃうの?ほら、メンデルの法則ってあるでしょ。私の元気はおじいちゃんからの遺伝なの。だから元気出して!そんな性格じゃ私しか友達できないよ!」
「お前がいるから良いじゃねぇか。それに、俺たちは友達なのかい」
F氏は病室の優に逢いに行くたびに彼女から説教を受けたことを思い出した。いよいよ長期入院が決定した頃になると、彼女は逢うたびに友達をつくるように促したのだった。F氏は友達という概念がわからなかった。確かに友人と呼べる奴はいた。しかし彼らは藝大時代からのライバルでもあったから、全ての会話が絵で行なわれたわけだ。互いに鎬を削った絵は何よりも饒舌に互いの性格を語った。いつしか個展が開かれると互いに招待状を出し、挿絵や画集が完成すれば挑戦状とばかりに送りつけあった。そうして友人を築いてきたのだ。だから、明るく振る舞うとか、実際に会話を交わして友達をつくるなんてF氏にとって無理難題であった。だから彼は言うのだった。友達は
「どうして友達が必要なんだい?俺は優だけで十分満足だぜ」
ある時F氏はそう聞いたことがある。その時の彼女の深い悲しみのこもった微笑をF氏は忘れられなかった。
「友達はね、人間の繋がりが可視化されたものなんだよ、じぃちゃん。この世に生を受けたもののうち、孤独に生き抜くことが出来るものは居ない。私は神様が巨大な連環のなかでしか生きられないように設定したんだと思う。だから、誰かを救けたり、救けられたりすると喜びを感じることができるんだと思うの。じぃちゃんにはその喜びを大切にしてほしいな。じぃちゃんの力で誰かを救けることは必ず出来るし、きっと救けた誰かが、じぃちゃんを救ってくれる。そう言う連環が友達なの。私は、もうじぃちゃんを救けられないから」
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