9 おやすみ

 Rが居間に戻ると、皿は片付けられていて、縁側で胡座をかいてF氏が煙草を吸っていた。硝子の灰皿に鼠色が溜まっていた。煙草の小人の洋燈ほどに灯された火が黒くそれを溶かしていく。F氏は心地良さそうに喫んでいた。

「じいちゃん、駄目だよ、煙草なんて」

Rは痩躯のF氏の背中にカーディガンを被せるような声で言った。

「厳しいなぁ優は。でもこれは薬なんだよ。俺が今吐き出した煙が、悩みも苦しみも全て持っていってくれるんだ」

Rはやれやれと溜息をついて、

「じいちゃん死期が早くなっちゃうよ?」

F氏は軒下の夜空を仰いだ。風が爽やかな草木の香りを曳航していた。

「どうして長生きせにゃならん。俺は早くお前に逢って抱きしめてやりたいんだよ」

「なんで?今でもできるじゃない。私抱きしめて欲しいな」

Rは自分の願いが脆く崩れ去るのを防ごうと、柄になく食い下がった。だが、F氏の背中は厳然とそれを退けるのだった。

「よせやい。優、お前はもう、、」

試してみる?と言おうとして、Rは立ち止まった。どうして私はこんなに必死なんだろうか。F氏の偶像に縋るような態度が許せなかったんじゃないのか?どうして私はF氏をおじいちゃんだと思い込もうとしているのだろう。Rは唇を噛み締めて、

「もう寝るから。あと、やっぱり煙草は駄目よ。じいちゃんなんてに来てほしくないからね!おやすみなさいっ」

捨て台詞を吐いた。抱きしめることが出来ないと拒絶したのに対する逆襲のつもりだった。だが彼は柔らかい笑みを浮かべたままで、嫌な顔ひとつしなかった。ランプの魔人を召喚する時のように勢いよく彼は煙を吐きだした。

「お前ならそう言うと思ったよ、優。おやすみなさい」

寝室に駆け出していくRに、F氏はふと懐かしい匂いをかいだ。間違いなく優の匂いだった。そして自分の匂いでもあるーー。

「でも本当なんだ、優。俺は早くお前のところに行きたい。婆さんもいるし、友人もいる(お前も小さい頃にそいつの個展を見に行ったことがあるんだがな。とF氏は嬉しそうに言った)。でもな、その為に煙草を喫んでるわけじゃねぇな。

 この世界で生きる意味ってのはさ、はじめからないんだろう。でもお前が聲をあげ続けたことには必ず意味があった。俺はそれが何か突き止めるまで死ねない。俺もお前みたいに聲をあげ続けたら、わかるのかな。まぁ、生きる気力が無いのは本当だけどさ」

F氏は灰皿に吸殻を押しつけると、その場でゆっくり横になった。渦巻き型の線香は殆ど灰色になって傾いていた。煙だけが衰えることなくずっと天に昇っていった。

「初めて優が立ったのもこの庭だったな。嬉しかったなぁ。何度もこけてさ、それでも俺んとこに向かってくれたっけ。あの頃も泣き虫だったが、そりゃ俺に似たのかもしれんなぁ。それに素直だった。いや、甘えん坊でちょっぴり高飛車で、強情っぱりなお前も好きだったよ。なぜってお前は誰よりも優しかったからなぁ、名前通りだったよ。つくづく思う。俺がお前より生き永らえていることが、生きることに意義がないことの何よりの証左だとな」

彼は瞳を閉じて明治の文豪のように頰杖をついた。廊下の豆電球が消え掛かっていた。

「お前と交わした約束を果たしたら、俺はどうなっちゃうかな。やっぱり死にたくなるのかな。その時はまぁ、それでも良いかもしれんね」

蝶が翅を閉じた時のように微細な音がして、線香が倒れた。それに導かれるようにしてF氏は閉じた瞳の奥で光がさすのをみた。

「どうして、どうしてじぃちゃんは私の絵を見てくれんの?」

その光は、やがて踞る少女の形になった。その少女は間違いなく優で、彼女は大粒の涙を溢していた。F氏は血相を変えて彼女の許に駆けつけようとしたが、彼女はもうすっかり消えてしまっていた。

 庭に蛍が舞っているのがみえた。F氏は頬に涙が伝うのを止めることはできなかった。

「じいちゃん、、どうしたの?大きな物音がしたわ」

「優、、そこに居たのか」

F氏は涙を拭ってRの方をみた。夏の夜であったが、秋を予感させるように涼しかった。濃い緑の葉が山の郵便屋であるかのように軽快に飛んでいた。互いの息遣いが聞こえるほどあたりは静かだった。

「眠れないのか、優」

「、、うん」

F氏は差し伸べた手をやっぱり退けてそっぽを向いた。Rは思い出で身体が熱くなって、今すぐにでも抱きしめてもらいたいのを全身で抑えようとした。

「背中合わせはだめ?じいちゃん」

Rは唇が震えているのも構わずに叫ぶように言った。彼は何も言わなかった。しかし、頑強そうな手で灰皿を退かすと、床を静かにとんとんと叩いた。Rは駆け寄って彼の隣に座った。

「ここで寝ても良い?」

庭の蛍を眺めながらRは言った。F氏はどんな顔をしているのだろうかと彼女は思ったけれど、みるのは止めた。自分も目の前がぼやけて何も見えなかったから。

「ゆっくりおやすみ」

彼は穏やかな声で言った。間もなくRは彼が肩をぎこちなくだが撫でてくれるのがわかった。それは漣のようで長旅で疲れた身体を癒してくれた。Rは祖父が死んでから初めて、深い眠りにつくことができた。彼女の膝の上で熊のぬいぐるみがちょこんと座っていた。

 寝室にRを運んだ後、F氏は居間に置いてあった彼女のトランクを開いた。彼が見つけたのは中くらいの身長の鷹揚とした男の写真だった。傍には小学校低学年くらいの女の子が映っていて、彼女が大事そうに握っているのは真新しいベージュ色の熊のぬいぐるみだった。

「貴方がRちゃんのお祖父さまですね。やっとお逢いできましたよ」

F氏は写真を取ると、ちゃぶ台の写真たてに置いて、自分は暫く考え事をした後、奥の部屋に厳重に閉まってあったRの資料(連絡を交わす中で彼は彼女の経歴を紙に纏めていたのだ)と、幾らかの画材を取り出した。

「俺は絵を通してしか同輩と語り合えない性分でしてね。でもまぁ、少ない仲間からは聞き上手だって褒められたんですよ?ですから、、この老ぼれの身体を存分に使ってやってください。聴かせて下さいな、貴方とRちゃんとの関係を」

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