8 偶像 2
F氏との連絡でRがひとつ気づいたのは、彼が寡黙な気質であることだ。Rは本をよく読むうちに、文章から人の性格や気質を感じとれるようになっていた。それは一見困難なようにみえて、案外誰でも習得できる。Rは面と向かって人と話すのは苦手だったから、初対面の人とは先ず連絡先を交換して、一週間かけて相手の性格を読み、身体を慣らしていく。その姿はまるでヒマラヤに登る為に高所順応する登山家のような慎重さであった。
祖父や彼の渓流釣り仲間の方々は、穏和かつ賑やかな人達だった。彼らは釣りに行く度に意気込みや釣果を報告してくれた。それらからは、苦労の絶えぬ日常から少しばかり抜け出して、湧き立つ感覚をメールから感じた。彼らはメールからして賑やかだった。一方でF氏はそうではなかった。尤も、ふざけたやり取りなどは皆無なアプリを介していたこともあるだろう。
結果としてF氏はRの予想通りの人物だった、概ね。高身長なのは驚いたけれど、几帳面に服を着て、落ち着いた色合いの傘をさしていた。鬱陶しく陰湿な大気を跳ね返すように彼は清廉だった。Rは性格が祖父と対照的なのにも関わらず、F氏のそんな雰囲気が祖父に似ていて好感を持った。だからこそ、夕食時に彼が見せた混同はRをひどく悲しませた。Rは彼の話に合わせながら、自らは谷底に転がり落ちている気がした。思えば、身勝手だった。彼女は彼と連絡するうちに、自分が彼を呪縛から救えるのではないか、という幻想を抱いていた。だからこそ二人で欺瞞と虚偽に満ちたこの世界から本当の祖父、本当の孫娘のいる世界に飛翔出来る筈だった。それは甘美な夢だった。もはや叶えることはできそうにない。虚構が暴かれた時の這いあがれない失望をRは身をもって知ったから。
「優、天麩羅美味いか?」
「うん!」
RはF氏を死者の呪縛から救ってあげたかった。初対面の自分をこれ程までもてなしてくれたF氏が好きだった。二人で同じ感情を分かち合った友達としてF氏が好きだった。けれど、共に壁を越えることは出来ないだろう。彼は偽りの孫娘に向かって涙を流し、彼女と交わす予定だった会話を、自分に具現化された壁に打ち続けるのだ。はなからわかっていた話じゃないか。人間は去っていった同志を忘却することはできない。そこから抜け出すには人間を辞めるしかない。彼にはその勇気がなかったのだ。
「それは自分もじゃないのか、凛」
皿を洗うF氏の背中にRは祖父の姿をみた。威厳のある低い声で祖父が問いかける。確かにそうだ。私も人を超える勇気などない。一人で死ぬのは怖い。だからF氏を頼った、彼におじいちゃんを投影したのも私だ、彼女は俯いてそう懺悔した。けれど今は違う。彼はおじいちゃんでは無い。一人の孫娘を亡くし、その呪縛に永遠に囚われた憐れな老爺だ。
Rはある計画を思いついた。彼女は再び立ち上がると、画架のある部屋へ向かった。計画を実行するためには、彼の孫娘、優の存在が必ず必要だった。蝉はいつしか鳴きやんで静寂が不気味に蠢動していた。
F氏にとって優さんとはどのような存在だったのだろう。Rは部屋の電灯をつけると、画架の前にしゃがんだ。散乱した絵具は無機物特有の臭気を放って彼女を威嚇した。
「優は物をよく大切にしました。病院では充てがわれた小さな机の引き出しに絵具や筆を閉まって、パレットも清潔でした」
絵具を使ったのはおそらくF氏だ。筆は見当たらないが、それはこの鷹の絵を完成させたために、必要なくなったからだろうか。いずれにせよ絵や絵具は随分と放置されているようだ。優さんが去年に亡くなって以来、彼は何も手をつけることが出来ず、石仏のように縁側に座りこんでいた。この絵を描ききってから、彼は無期限に活動を停止したとみるのが妥当だろう。
慟哭する鷹、血潮のように赤い口腔。倒立した白樺の痩せた身体。その脇に咲くリンドウ。結局、Rはその絵から手掛かりを見つけられなかった。
ふと、Rは画架の奥に棚があるのを見つけた。棚自体は埃を被って昭和に取り残されたように褪せてみえた。優さんが道具をきちんと扱うのに対して、F氏はそういうのは無頓着なようだ。Rは自分の背丈ほどもある画架を退かそうと思ったけれど、まだ小学生の彼女にとっては一苦労だった。引き摺って床を傷つけるのも良くないからね。一際重たい真ん中の画架を持ち上げながら、RはF氏のどこか懐かしい匂いをかいだ。
優さんが亡くなる前の彼はどんな風だったのだろう。紳士然として、結構彼はお茶目で自由人だ。絵を描く人は皆そうなんだろうか。優さんもF氏と同じ性格の人なんだろうな。それって、憧れるよね。Rは服についた埃を払うと、棚を確認した。
「あっ」
昔日からずっと居座って居そうな棚の中には、真新しいマルハンのスケッチブックで埋まっていたのだ。Rは一つをとってパラパラと捲ってみた。そこには、繊細なタッチで島嶼の風景画が描かれていた。Rは優の作品であると確信した。どれも同じ構図で、季節だけが違う。時には青い空に「紅の豚」のポルコロッソが乗ってそうな飛行艇が自由自在に飛び回っていた。ある夏の風景画(島の木々が一面美しい翡翠色だったから)には、小型フェリーが純白の航跡を曳いて、まるで運動会のかけっこをするようだった。Rは彼女の世界に魅了され、穏やかな気分に包みこまれた。懐かしい感覚だった。彼女はゆっくりと飛行機雲や航跡をなぞってみる。
「ねえ、優さん。どうして貴方はおじいちゃんを置いて逝ってしまったの?おじいちゃんは立派な翼を持っていても、貴方みたいに飛べないのに、、」
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