6 じぃちゃん
卓上に黄金色の美しい天麩羅の山が皿に盛られ、隣の皿には小川のせせらぎが聴こえてきそうなそうめんが並んでいた。各自のお椀には刻んだ葱が麺つゆの湖を彩り豊かにしている。
「生姜は嫌いだったね」
F氏は老人らしい緩慢さをみせないであぐらをかいて座った。一方で、Rは晩御飯を通して正座を解くことはなかった。
「いえ、私大好きよ、おじいちゃん」
RはF氏が小皿に摺った生姜を少し取るとお椀に浮かべた。F氏は若干呆気にとられつつ、
「そうか」
と灰色の整えられた髭を摩りながら頷くのみだった。Rは手を合わせ、
「いただきます」
というと穏和な性格に見合う丁寧さで海老や茄子の天麩羅を取り寄せた。
「変わったね。学校で作法を習ったのかい?」
「いえ、両親が行儀だけはうるさくて、、」
おじいちゃんも、と言おうとしてRは、はたとおし黙った。F氏を見遣ると、彼は寂しげに微笑していた。Rは当惑した、大人たちは自分の行儀作法を褒めてくれるはずなのに、目の前のF氏はみるみる失望していくのだ。
「それは鬱陶しかろうな。子供は自由奔放であるべきなんだ。窮屈な作法を身に着けるのは大人になってからで大丈夫なんだよ?」
Rは少しむっとしたが、彼に悪気がないのもわかっていた。だが、身体が覚えてしまうほどに繰り返し練習したものを今更変えようもない。Rはきちんと箸を使い、余さず食べ終わるのが好きだった。それは一種の儀式のようでもあり、惰性的な習慣でもあった。Rは作法を窮屈だとは思わない。部屋が汚れたら掃除するように、日本に住んでいるならば当然であり、寧ろきちんと完食した後に静かな幸福感さえ起こるものだ。
「どうしておじいちゃんはそう思うの?」
Rが尋ねると、F氏は、文化的に成功した人、例えば小説家やF氏のような画家、音楽家が時折みせる無垢で茶目っ気のある顔で笑ってみせた。クラスにいる悪戯っ子をRは思い浮かべた。
「そうだね、俺は子供の時間を大切にして欲しいからかも知れないな。大人は休むこと、遊ぶことの重さを知りながら、それを怠惰だと言い換えて忌避する。確かに我慢せねばより良い幸福を得ることが出来ないこともある。だが、大人たちは幸福を得るためという目的を忘却して自らを縛ることが多すぎるのさ。どうしてだと思う?」
Rは突然の問いかけに驚きながらも、懸命に思案した。Rはよくものを考える時天井を見つめながらうんうん唸るのだが、愛くるしい顔が段々と丘にあげられた魚のように苦しそうに紅潮していくのを見て、F氏は思わず哄笑した。久しぶりに口許が痛くなるほど笑ったF氏をみて、Rも嬉しくなった。
「それはね、、Rちゃん。大人たちは遊ぶことに慣れてないないんだよ。子供の時に勉強に部活にと努力を続けてね、いざ大人になって休暇をとるとどう使っていいか分からない。それじゃあ出てくる言葉は必然的に厭世的なものになる。当たり前だよな、普段の仕事では労苦を重ねた挙げ句、ようやく出来た休暇は部屋に閉じこもって寝るばかり。世界を恨もうったって、そもそも世界を知らないじゃないかって俺は言いたいがね」
F氏はもったいぶった教授の咳払いを二度繰り返すと、
「俺が言いたいのはね、子供の頃くらい、他人からの圧力から自由になって、子供らしく遊びなさいということだ。子供は大人になるための練習期間だ。練習を怠れば本番に良い結果が出ない。勿論多少の作法は身に着けるべきだし、Rちゃんは偉いよ。ただ、、」
「ただ、、?」
俺の孫娘はRちゃんほど立派に作法を身に着けてなかった。けれど、彼女が脇目も振らず、ひたすら美味しそうにご飯を食べる、あの直向きに子供らしい振る舞いの方が俺は好きだ、とはどうしてもF氏は言うことが出来なかった。
「何でもないよ、さぁご飯を食べよう。今日の天麩羅は自信作だ」
F氏は机の下で褪せたメモ帳を撫でた。俺はどうすべきだろうか。今回のことをRちゃんに依頼したのも俺で、心残りを解消するために半ば犯罪のようなことまで侵している。けれど、俺は大人だ。Rちゃんが同じ傷を負っている以上、Rちゃんが笑顔で帰宅できるように支えるのが大人としての責務じゃないのか?俺はお前との約束を捨ててRちゃんの祖父になるべきじゃないのか。F氏は懐かしい人に向けて真摯に呼びかけていた。
「じいちゃん」
F氏は咄嗟にRの方をみた。彼女は少し驚いた感じで首を傾げたが、また、
「じいちゃん、そこの山葵とって」
と言った。F氏は暖かい血液が急激に流れるのを感じた。あぁ、そこに居るんだな。
「まったく、また鼻がつんと痺れてもしらんぞ、優」
F氏は目の前でそうめんを美味しそうに啜っている少女を自分の孫娘、優だと思ったのだ。F氏は、こめかみがきつく痛くなり、瞳から熱いものが流れていくのを感じた。
「何処にいってたんだ、優。俺はお前が来るのを縁側でずっと待ってたんだよ?」
目の前の少女はあははと笑って、
「ごめんね、じぃちゃん。でもここまで帰ってくるの随分と苦労したんだよ?褒めてくれなきゃ帰っちゃうよ?」
「ああ、褒めるとも、だって帰ってきてくれたんだから!よく頑張ったな。俺、優が帰ってくるのを見越してよ、お前の好きな天麩羅を揚げたんだ、病院では食べさせてくれんかったろ。さぁ、今日はよく食べなさい。明日はお前が行きたがってた遊園地に連れていってやるからな」
少女は溌剌としたとびきりの笑顔で、素直に
「うん!」
と言った。
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