5 ついらく

F氏の天麩羅を揚げる音を背にRは立ち上がった。蒼白な足は柔らかく、F氏と共に朽ちつつある廊下を音もなく歩いていった。風が漣のように頬を撫でたから汗が出ることは無かった。Rは洞窟を探索する探検隊のように慎重に壁に手を添わせて奥の部屋へ向かった。とくに意味はないけれど、強いて理由挙げるならF氏のことをもっと知りたかったからだろうか。かつてRは友達をつくる方法を母に聞いたことがあった。彼女もあまり交流とは縁のない人間だったが、

「相手のことを誰よりも知ろうとすることが大事よ」

と教えてくれた。RはF氏を子供のように感じていた。互いに、小学校で育てた朝顔のように支柱を求めて、自らもそれになろうとしていたから。Rは両親に縋るのは嫌だった、子供っぽいと思われるだろうし、彼らはRに縋ろうとしないからだ。大人な関係とはフェアな関係であるとRは思った。けれどそれが発揮されるのは理性的な関係、つまりは損得の方面に限られるはず。Rが求めているのは感情的な公平だった。大人は感情を表に出さない、それはそこに羞恥心があるからではないか、Rはそんなことをよく考える。怒ること、笑うこと、泣くこと。それを恥じないでおおっぴらにするのは子供だ。その点、私と同じ考えであるF氏は大人でありながら子供であるのだ。だからこそ、Rは友達になろうとした。

 ふいにある一つの部屋から異質な匂いがした。同じ匂いを学校でもかいだし、父の部屋でもかいだ気がした。Rは咄嗟に背後を見回し、まるで泥棒のような忍び足で部屋に近づいた。扉が少し開いていた。斜陽がその部屋の埃を映し出し、確かに埃くさいなとRは思った。Rはゆっくりと扉を開いた。

「わぁ」

Rは思わず驚嘆の声をあげた。その部屋は奥に三つの画架があって、地面には苦しげに腹を抱えて呻いているような絵の具が一面に散乱していた。彼女は壁に手を添わせて、ライトのスイッチを探した。

 ぼんやりとした明かりに一つの絵が浮かびあがっていく。Rは静謐な空気を乱さないようにそっと近づいていった。その絵は鷹が倒立した白樺に向かって墜落する絵だった。Rは未だ小学生であったから自分の感じたことを確実に表現することはできなかったけれど、鷹や白樺に何らかの暗喩が託されていることがわかった。Rは見つかったら咎められるのを承知で、その鷹に触れてみた。彼(敢然な姿からRはその鷹が雄であると確信していた)が白樺の一点を見つめつつ、墜落していく。その表情は自信や希望に根差した勇猛にみえて、実際には憐憫をかきたてられる程に悲愴だった。翼は身体と一体であるように密着され、それが二度と使われないことを示唆している様だった。周囲は驚くほどに快晴で、澄んだ橙や紫が空を彩っていた。Rは鷹を何度も慰めるように撫で続けた。その鷹が哀れでならなかった。白樺が倒れてしまったことを悼むのは彼のみだったから。他の白樺は寧ろ陽光に元気を取り戻しているかのように生き生きとし、枝葉を栗鼠たちが遊ぶように駆け巡っていた。

「Rちゃん、何処にいるんだい?」

居間でF氏の声がして、Rは咄嗟に鷹から指を離した。去り際、Rはまたその絵を一瞥した。ある決意が春の渓谷の水のように湧き上がるのを感じた。Rはをもう一度見ようと思った。結局私には何処にも安息できる場所なんてないのね、Rはそう思った。不思議と溢れるのは涙ではなかった。潜水艦が壊れて、深い闇の底に投げ出されてから溺死するまでの間はこんな感じなんだろうな。

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