4 さくらのこえ

 夏のはじめにはいつも祖父が料理を振る舞ってくれたのをRは思い出していた。時には近所の子供を呼んで流しそうめんを食べたこともあった。

「Rちゃん、公園の子供らを呼んで来ておくれ」

そう言った祖父の手にはナタとハンマーが握られていたのを愉快な気持ちでみたものだ。公園には町の子供達、K君、T君やNちゃんがいつも揃っていて、私が呼んだらすぐ来たんだっけ。縁側でRや町の子供達を出迎えた祖父は彼らを従えて物置きからRの背丈よりも長い竹を取り出した。

「協力してくれるかな?」

R達は歓声を上げて竹を運ぶのを手伝った。竹を切るのは危ないから、祖父がナタとハンマーを使って器用に割った。それからは子供達の仕事だ。一人二つヤスリがあてがわれ、竹の節を丁寧に除いていく。このあたりのリーダー的な存在のK君が、

「じいちゃん、もっと友達呼んでもええかな。あいつらもちゃんと手伝ってくれるよ」

と言うと、奥で竹を切る祖父が「いいとも!」と叫ぶのだった。使命感を持ったK君とT君が駆け出していくと、RとNは縁側で麦茶を飲みながらしばし休憩するのだった。

「ーーRちゃん、暑くないかい?そこ。蚊取り線香焚いてやろうか」

縁側で座っていたRにF氏が声を掛けた。さっきまで雨が降っていたのに、地面はもう乾いた匂いがした。そよ風がRの薄い薔薇色の膝を撫でた。

「はい、お願いします」

 Rは人見知りで自分から友達に声をかけることはなかった。Kたちも、地域でじいちゃんと親しまれていた祖父のお陰で友達になれたのだった。Rは友達は沢山居なくても良いし、強いて自分から友達をつくらなくても良いと思っていた。けれど、朗らかで穏やかな性格の彼らと交流を重ねていくうちに、友達も悪くないなと思った。繋いでくれたのは祖父だった。

 縁側から見える桜の木にとまった蝉が鳴いていた。夏中ずっと居るように思われる彼らも、明日には死んでしまうかも知れない、風前の灯火なのだ。Rはひとりで死んでしまうのは怖いだろうかと思った。他の誰かのために鳴き続けたのに、誰からも知られずに死んでしまうのは悲しいことだ。Rは怖くないだろうと信じたかった。苦しいのは一瞬で、次に目を開けたら神様が救ってくださるのだと信じたかった。Rは頬を垂れる涙を拭った。

「ゆっくりしていってな、Rちゃん。おじいちゃんは料理作ってくるからね。昨日Rちゃんが来るんでな、畑でトマトとかキュウリとか採ってきたんだよ。それを使ってそうめんでもしようかと思うんだが、どうかな?」

「わぁ、そうめん!私ずっと食べたかった!」

F氏は振り向いたRの瞳が赤くなっているのを認めた。F氏は胸が締めつけられたような気がした。彼女はきっと聡明で優しくて良い子なのだろう。でも、そこまで大人でなくても良いじゃないか。子供が泣くのは恥ずかしいことじゃない。彼はそんな風に言ってやりたかったが、自分までもが泣いてしまいそうなので、気づかない振りをした。俺は薄情なやつだ。F氏は瑞々しい夏野菜たちを水から引き上げつつ思った。彼女はどうしたら笑ってくれるだろうか。

「じぃちゃん、来てくれたんだ!」

孫娘を見舞いに上京したのは三年も昔のことだ。声とは裏腹にガッツポーズした彼女の腕は痩せていた。F氏は丸椅子に座ると、新しい画材を取り出して机の上に並べた。

「こんな老ぼれにまた仕事の依頼が来たよ。早く元気になって手伝いに来ておくれ」

彼女は嬉しそうに何度も頷いていた。F氏は病室を見回し、穏やかな海に浮かぶ幾つかの島々の風景画を鷹揚と眺めた。間も無く、F氏はその構図上の工夫を発見した。

「じぃちゃんが好きな龍安寺の石庭から着想を得たんだよ。私は、海が好き。波も好き。それが聲に聴こえるから」

「聲、か」

「そ。私は石庭の写真を初めてみた時、巌が会話してるような気がしたんだよ。二つの巌が発した聲が波になって、重なって会話している風にね。でも全ての巌の聲が他の誰かに届く訳じゃないってのも何となく感じたんだよ。世界はあまりにも広すぎるからさ、自分の発した聲が誰かに届くとは限らない。でも肝心なのは聲を出し続けること。自分が生きてる限り、ずっと」

彼女はそう言うと、マルハンのスケッチブックを取り出し、静謐な空気に重々しい鉛筆の音を響かせたのだった。

「どうして彼女は聲をあげ続けたのだろう?」

F氏は居間越しに縁側に座るRを眺めた。その背中はひどく丸まって老人のようでもあり、母親に抱かれた赤ちゃんのようでもあった。酷なのは彼女には抱きつく相手が居ないことだった。

「残された者の声なき慟哭を思うと、死ぬのも罪なことだ。いっそのこと、人類は産声をあげなければ良かったのだ」

「ほんとにそう思う?じぃちゃん?」

ふいに声がしてF氏は台所を振り向いた。だが、そこには暗澹を隠しきれない斜陽が鮮やかな光を偽っていただけであった。

 F氏はポケットからメモ帳を取り出して表紙を撫でた。俺が生きている理由はこれだけなのだ、彼は自らを鼓舞するようにそう思うと、再び夕食を作りだした。

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