3 かいこう
駅前に立つRの肩は濡れて羽織っているカーディガンが蒼くなっていた。小柄で痩せていて、玄関先で飼い主を待ちわびている子犬のようだった。F氏が縮こまった蝙蝠のような折りたたみ傘を閉じて此方へやって来たとき、Rは眼鏡についた水滴を丁寧に拭き取っていた。
「遠路遥々すまないね。Fだ。よろしくね」
F氏が躊躇いもなくRに話しかけたのは、彼女が彼を一瞥すると、手を振ったからだった。RはF氏を随分背の高い男だと思った。メールをやり取りしていく内に何となく背中の曲がった姿を想像していたからだ。一度高身長を意識してしまうと、F氏が温厚な老人であることはわかっていながら、Rは緊張で萎縮してしまうのだった。
「タオル、持ってるかい?いくら夏でも濡れたままでは風邪をひいてしまうよ」
F氏は所々に水滴を縫い込んだような滲みのある手を差し伸べ、傘の中に招き入れようとしたが、それを払い除けるようにしてRはトランクからタオルを取り出して身体を拭いた。F氏はそのことを気にもとめないどころか、寧ろ微笑ましく思った。これくらいの子供は自立したがるのだ。全部一人で出来る、逆を言えば生命は須らく一匹狼であるのだと本気で信じているような歳頃であるからな。
「ありがとうございます、お、お祖父さん。お元気でしたか?」
F氏は始め目を丸くして、それから草木が風にそよぐような自然さで微笑した。
「敬語でなくても構わんよ。それにしてもRちゃんは偉いねぇ。大変だったろう、ここまで。それにご両親もよく了承してくれたね」
耳許で傘に雨の落ちる音を聞きながらF氏は言った。陰気なベージュのタイルに雨水の跳ねる音を聴きつつ、Rは頷いた。Rはひどく哀切な思いを抑えようとして、町を見遣った。構成する建物のどれもが寂寥感にずぶ濡れているように感じた。
「長旅で疲れたろう、今日はもう家に帰るか?」
F氏は優しく話しかけた。寡黙な彼はどう喋れば相手の警戒心を解くことが出来るかを知らなかった。だから、童話に登場する老爺の口ぶりで話しかけたのだった。RはF氏をおずおずと見上げると、こくりと頷いた。タオルで身体をあらかた拭いたとて、寒いものは寒いのだろう、彼女は時折ふるりと震えていた。F氏はそれを眺めながら、撫でてやることは出来なかった。次彼女に拒絶されれば互いに祖父と孫の関係でなくなってしまいそうな気がしたからだ。かと言って足を速めることも出来なかった。F氏は八百屋の閉じられたシャッターを見遣り、小さく嘆息した。彼女の疲労や気分を汲み取りながらも、F氏は精神的な困憊を隠しきれなかった。二人で家までの緩やかな坂を登った時、F氏は遠い昔に急な驟雨のなか孫娘をおぶったことを思い出した。
「じぃちゃ、おんぶ」
彼女は眠い目を擦りながらもう片方の手でF氏の袖を引っ張った。子供はいつでも眠ることが出来る。F氏はそれが羨ましくもあり、勿体無い気もした。彼は中々眠ることが出来なかった。浅い眠りについても、白くぼやけた頭の中で童話の構想や、挿絵の細かな配置案などがレゴのように組み立てられ、それを書き留めなければという意志が彼を目覚めさせたのだ。また思い出す、という時間は老人の彼にはなかった。
「しょうがないなぁ。最後まで一人で歩けるって言ったのは誰だったかなぁ?」
満更でもない様子で彼は立ち止まり淡い黄緑の雨合羽に身を包んだ孫娘をおぶった。彼は濡れるのを極端に嫌ったが、彼女の雨合羽に付着した雨粒は一切気にならなかった。F氏は孫娘が家に訪れた時は決まって散歩に連れ出したのだ。丁度折り返しのあたりの駄菓子屋に立ち寄り、好きなだけお菓子を買ってやった。それから畑を観にいったりもした。春には桜や梅が美しさを競い、夏には向日葵が燦々と笑顔を向け、秋には銀杏の黄金が降り、冬には綿のような雪をみた。その日は孫娘が遠出したいというから、(それでも彼女は身体が弱かったから、散歩の範疇だったが)町の方まで出向いての帰りだった。帰路、彼女は一人で歩けると聞かなかったが、やはり疲れてしまったのだ。
「じぃちゃん、あったかいね」
F氏の美しく膨らんだ耳朶に囁くようにしてRは言った。彼の前で健気に繋がれていた彼女の丸い両手はもう離れようとしていた。
「もう少しで家に着くからな、がんばれがんばれ」
彼女の身体は懐炉のように温かかった。
「ーーおじいちゃん?」
Rが心配そうに此方を見上げている。坂道を登りきった後、回想にかまけて立ち止まったままだったらしい。
「すまん、もう少しで家に着くからな」
Rが小さな欠伸をしながら頷いた。F氏はRの幼気な欠伸のおかげで今までの疲労が嘘のように氷解していくのを不思議に感じた。いつの間にか雨は止んで、薄い雲の間隙から陽光が町を照らしていた。
「雨のおかげで、涼しくなりましたね」
Rは眼下に広がる町を満足げに見下ろして言った。F氏も頷いてから、
「このあたりの冷涼な気候もあるんだろうな、もう少し山を登るとね、斜面に幾つか
「とても。去年にはおじいちゃんに食べさせて貰い、、貰ったよね。天麩羅とか、お漬け物とか」
F氏は快活に笑った。子供の素敵な特徴の一つに、良く食べることがあるとF氏は思っていた。好き嫌いの激しい子も愛着があるが、畑で採れた野菜や、山菜で作った料理を美味しそうに食べる子が何より好きだ。
「外食でも良かったが、特別に俺が作ってやろう。こう見えても結構料理は上手いんだよ?」
Rは頷くのみだったが、そのすべすべ頬が紅潮し、微笑んでいるようだったのでF氏は彼女なりの喜びの表現なのだろうと思った。
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