2 ひる

 寂れた喫茶店でF氏はコーヒーを飲んでいた。血管が蔦のように浮き出た皺まみれの手を摩りながら、彼は物憂げに置き時計を眺めていた。彼はブラックコーヒーをよく嗜んだ。彼はコーヒーの苦さがちっとも良いと思ったことは無かったが、習慣で飲み続けていた。作法を気にしなければ、一口毎に砂糖をまぶされた彩り豊かな和菓子を構わずに丸呑みしたい気分だった。彼は緊張はとんとしない男だった。近所の子供らは軒先で一歩も動かずに、鮮やかな翠に身を包んだ桜を眺めるのを「銅像」に喩えたほどだった。しかし今日は例外であった。新聞を読んでいてもちっとも内容が理解出来ないし、貧乏ゆすりも止まらなかった。そうだ、貧乏ゆすりといえばーー。

「誰かお待ちのようですね」

陽気な店員が話しかけてきた。F氏は滅多に口をきかない。けれど今日と明日はそれではいかんのだ、とF氏は思い直し、苔を纏った岩を動かすようにして言った。

「孫娘を待ってるんでね、、。ほんの小さな子ですよ。身長だと小学生に見間違えられるほどにね。甘えん坊のくせして一人前に一人で来るそうで」

店員は老人F氏がアンビバレンツな感情を持って話しかけるのを不思議に聴いていた。沈鬱な喋り声から紡がれた言葉は飼い慣らされた子猫のように穏やかであるのだ。

「お孫さんはどこからお出でなんです?」

「東京から、」

と言いかけてF氏は沈黙した。そうだ、彼女の場合は違ったけな。

「大阪からです。新幹線と特急と普通列車を乗り継いでここまで来るようです。私は心配でならないんですよ。駅まで迎えに行こうかって言ってもあの娘が許してくれんかった、まぁ、頑固な奴なんでね」

店員は老人の疲れ切った声は孫娘の心配のためだったのかと思って非常に微笑ましかった。店内にはF氏以外の客は居なかった。時刻は午後一時あたりだった。彼女は一時半には待ち合わせの喫茶店に到着するとの連絡があった。F氏は様々な不安を胸に宿していた。俺は一歩間違えれば犯罪者になる、そう思うとF氏は貧乏ゆすりをより激しくしてしまう。すべては孫娘に逢うためなのだ、それ以外は何も望まないと覚悟を決めていたが、取り返しのつかない段階でやっぱりその気持ちが揺らいだ。俺のことはどうでも良いが娘一家に何かあったら、いよいよ俺は死なねばならんだろう、F氏は悲壮な顔で祈るように孫娘の到着を待った。俺はこんな歳になっても未だ子供だ、F氏は思った。貧乏ゆすりも子供の頃の癖がいまだに残ってしまっている。食事の時など死んだ妻にも娘にも注意されながら結局直らなかった。唯一肯定してくれたのは孫娘だけだった。あの子はよく俺の膝の上に猫みたいに包まって寝るのが好きだったな。それで緊張で俺がゆすってしまうと、

「もっとしてよじぃちゃん」

と愛らしい笑顔を向けてくれたっけな。F氏は泣いてしまうのをすんでのところで抑えた。なに、今日逢えるのだから良いじゃないか。F氏は孫娘に逢ったら先ずありがとうと言いたかった。この世で生を受け、俺の孫娘になってくれたことへの感謝は言える時に言うべきなのだ。死んでしまったらどんなに後悔してもその気持ちを送ることはないのだから。

 置き時計は冷酷に針を進め、午後二時を知らせた。彼女は未だ来なかった。店員の怪訝そうな目をよそにF氏は焦燥感でいっぱいになった。どこかで事故に巻き込まれたのではないか。見知らぬ土地で迷子になったのではないか。今からでも連絡して駅に向かおうか。でもどうする。俺みたいな凡庸な服装なら駅に沢山いるだろう。彼女をより困惑させることになる。それに行き違ったらーー。F氏は身体中から汗が噴き出るような感覚に襲われた。冷房が効いたこの部屋がやけに暑く感じた。F氏は契約違反になりそうなのも構わず、

「大丈夫ですか?私は午後四時まで例の喫茶店におります。それから駅に向かいます。返事は必要ありませんから」

とメールを彼女へ送った。これで彼女に逢えるのも最後だな、とF氏は思った。彼は騙されるということを考えなかった。彼女と連絡を交わすうちに、彼女も同じ痛みを抱えていることが手にとるようにわかったからだ、祖父と孫の差はあれど。彼は彼女を孫娘を超えた仲間のような気がした。けれど、彼女は孫娘なのだ。F氏はそう思って、持ってきたメモ帳を握りしめた。彼女がくれたメモ帳だった。ゴム留めがついていて、そこにはクマのキャラクターの缶バッチが飾られていた。日に焼けて随分色褪せてしまったのは、この一年ずっと縁側で意味もなくメモ帳を手に座り続けていたからだろう。メモ帳を開けると、最初のページに絵が描いてあった。まだ幼気ない子供とはいえ、彼女の画力は舌を巻くほどに上手かった。流石は絵本作家の孫というだけあった。いかんせん娘がそこまで絵が上手でなかったから、画業も俺で廃業だろうとばかり思っていた。けれど物心ついて間もない孫娘がもうクレヨンに興味を示し、自由奔放縦横無尽に落描き帳に描いていくのをみて、嬉しさが込み上げたのを昨日のように覚えている。中学に入ったら美術部に入って賞をとる、じいちゃんと一緒の、というのが彼女の口癖だった。俺は描写が優れているだけが上手いんじゃない、感情を線に、絵に表現できた時、人は上手いと感じるんだ、と彼女を激励した。それは師匠風を吹かせたかっただけかもしれない。

 彼女が描いた絵、それは木陰で休んでいる彼女とF氏だった。F氏ははしゃいでいる子供たちを撫でるように咲き乱れる桜を見ながら、早くそこで彼女と共に眠りたいと思った、彼女は許してはくれないだろうけど。あれは、頑固だからな。

「早めの夕立ちですかね、、。お孫さん、傘持ってるでしょうか」

窓に打ちつける雨粒の音でF氏は我に帰った。時刻は午後二時半。空は晴れているのに、激しい雨が地面を跳ねていた。灰色の雲ばかりでなく、純白な雲も雨を降らせることがあるのだ。彼はポッケから乱暴に小銭を取り出して机の上に置いた。

「ちょっと見てくる。君、悪いがその席取っといてくれ。四時までには帰ってくるつもりだが、、それでも帰ってこなかったら、それが代金だ」

F氏は銅と銀色が散らばっているところを指した。F氏は念のために折りたたみ傘を用意していたが、この雨もじきにやむだろうとも思っていた。

 外は思ったより人気は少なかった。田舎とはいえこの時間帯は主婦が買い物に出て、ところどころでは談笑が行われているはずだった。それが無いとなると流石に心細くなる。ましてや、異国に等しい地で道に迷っているかもしれない孫娘はどう思っているだろう。F氏が大声で彼女の名前を呼ぼうとした時だった。携帯が振動した。送られたメールの宛先をみて、彼は驚きと喜びを感じざるを得なかった。

「ごめんない。Rです。電車寝過ごしてしまって、今Fさんの最寄り駅に居ます。傘、忘れちゃいました。迎えに来ていただいても構いませんか?ごめんなさい」

F氏は安堵で身震いしつつ、震える手で「了解です」と打った。

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