アイドル

梓稔人

1 あさ

 期待と不安で、出発の前日Rは思うように眠れなかった。だからRは日の上る頃から支度を済ませ、滅多にしない朝風呂も入った。冷たいシャワーを浴びながら(ちょうど夏休みの時期だったのだ)、自分のこれからすることが、家出と同等かそれ以上の勇気を必要としていることを改めて実感した。しかし風呂から上がってドライヤーでその典麗な茶色の髪を乾かす頃には蛹が破けて蝶になるような具合に嫌な感情は綺麗に吹き飛ばされていた。それから朝食を食べた。金曜日の朝食担当はRだった。Rは出発に少し緊張していたから、惰性でも作れる目玉焼きとベーコンを焼いた。けれどぼぅとしていたせいで一つの目玉焼きの端が黒く焦げてしまった。それを自分の皿に載せながらRは出発すれば私も悪い子になるのだと思った。

「今日はおめかししてて綺麗ね。何処かへお出かけするの?」

ベーコンを焼くRの髪を撫でながら母が尋ねた。Rは若干考えたが、

「友達の家で宿題するの。私ずっと部屋に籠って寝てたから進んでなくて。もしかしたら泊まるかも」

と嘘をついた。本当は遠方の祖父に逢いに行くのだ。だけど事実を言えば母は止めるに違いなかった、勿論嘘をいうのは危険だったが。Rは嘘を余りつかなかったから勇気が必要だった。ベーコンが音を立てて跳ねてくれたから、胸の鼓動や嘘をつくときの独特な手の震えを母に悟らせないで済んだのは幸いだった。

「そう、、でも宿題をやってなくても、先生は許してくださると思うわ。たまには友達と思いっきり遊ぶのもお母さんは良いと思うな」

Rは頷いて微笑を送った。始めから宿題をする気などRには無かった。今までRは宿題を怠けたことは無かった。白々しく忘れましたと言って廊下に立たされる級友たちを眺めながら、どうして彼らは宿題を忘れてしまうのだろうか、前日にバックに入れるだけで良いのにとRは思ったりした。けれど、今は彼らの気持ちがわかった。宿題なんかより頭に詰めこみたいことがあるのだ。

「おはようR。元気そうで良かった。それに朝食まで作ってくれるなんて。言ってくれれば父さんが代わったんだが、兎も角ありがとう」

父は大きな欠伸をしてから言った。水色のチェックパジャマをはだけさせて、Rはだらしないと率直に思った。こんなに子供なのに朝食を食べてスーツを着たら大人になる父が不思議だった。対してどんなにテストで優秀な成績をとっていても、朝両親より早く起きていてもやっぱり私は子供なんだとRは思った。それに彼らから気を遣われると身長が縮んでいっそう子供っぽくなると考えて、今朝の両親のようなことを言われるとRはあまり良いと思わなかった。そのための出発なんだとRは思った。出発さえしてしまえば誰からも憐みの言葉はかけられなくなるから、私も大人になれるのだとRは信じた。

「それにしても今日はいいお天気ね。きっと素敵な出逢いがあるわ、、そうね、Rちゃん、お小遣いをあげましょうか。お友達と美味しい物でも食べに行きなさいね」

と母がいうと、

「そうか、お友達と遊ぶのか。それは良いな。お父さんからも小遣いをやろう。パーっと遊んどいで」

と父も言った。Rはなんだか申し訳ない気がしたけれど、出発やその他諸々の為に今まで貯めてきたお金の半分を使ってしまったからありがたく貰うことにした。大丈夫、大人になるのは、帰ってきてからも遅くはないのだから。

 Rは寂しかったからぬいぐるみも一緒に持っていくことにした。それは祖父から貰ったものだった。物心つく前に祖母が亡くなっていたから、Rはお祖父ちゃんっ子だった。夏休みに入ると長い時間をかけて田舎の祖父の家に行った。朝は蝉が鳴き、夜は牛蛙が鳴く賑やかな田舎だった。丁度夏休みの始めにRの誕生日があったから、祖父の家に行くと必ずプレゼントが用意されていた。忘れられないのが遊園地に行くことがプレゼントだった時。祖父は両親が呆れるほど頑健だったから、Rがへとへとになるまで一緒に遊んでくれた。ぬいぐるみはその時に買ってくれたものだった。幼い頃のRは肌身離さずそのぬいぐるみを持っていたそうで、アルバムにはRがぬいぐるみを片手に可憐な瞳を向けている写真が数多く収められている。

「携帯はちゃんと持った?泊まるなら一応連絡してね。気をつけて行くのよ」

Rは行ってきます、と呟くように言った。夏の朝の柔らかい日差しが床の冷えたリビングに降り注いだ。

「Rは優しくて強い子だ。もう彼女は大人なんじゃないか?」

新聞を読みながら父は言った。だが母は頷かなかった。Rの歩いていく方を茫洋と眺めながら、

「私はRちゃんが心配だわ。いつもみたいに元気がないし、お利口すぎるのよ」

「そりゃそうさ。だから君はRを行かせたんだろう?彼女は僕らだけのものじゃないんだ」

「それでも彼女にとっては初めての経験なのよ?しかも、、」

父は新聞を音を立てて畳むと、

「君は過保護すぎるんだよ。このままRが大人になって僕らが死んだ後も同じことを言い続けるのかい?彼女が成長する為にはなくてはならない経験なんだ、もう彼女は来年には中学生なんだよ。僕らが邪魔しても彼女はより一層悲しむだけだよ。それに、彼女がずっと悲しみ続けるのはあの人が望んだことじゃない」

彼はまだ湯気のあがるコーヒーを一気に飲み干した。

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