第19話
ブラウン・リースベルト宰相と言えば、政務省に勤める文官の最上位にいるボスであり、シオンにとっては直属の上司、フェリシアにとっては滅多にお目にかかれないほど上層の上司となる。
シオンが休憩室の扉をノックして名乗ると、扉は内側から開けられた。
開けられた扉のすぐ近くでブラウン宰相と宰相夫人のコーデリアが待ちわびたように二人を出迎えた。
「ようこそ。さ、かけなさい」
「飲み物はお酒がよろしいかしら、それともお紅茶の方がいいかしら」
この時はまだ上司へ婚約の報告なんだろうとフェリシアは思っていたが、宰相夫妻から思いもよらない歓迎を受け、戸惑う。
「ありがとうございます、紅茶を…」
宰相も夫人もフェリシアのことを慈しみのこもる目で見つめる。
初めて会う筈なのに何故こんなにも温かく迎えてくれるのだろうかとフェリシアは不思議に感じていた。
そして次の瞬間ブラウン宰相の発した言葉でそれが何故なのかを理解する。
「よく会いにてきくれたね。アリシア」
「あ……」
フェリシアのことをアリシアと呼んだ。そうなると目の前にいるのは、前世の父親と母親ということになる。
「お父様…お母様…」
フェリシアの瞳から止めどなく涙が溢れる。前世では体の弱いフェリシアのことを心配し、労り、大切に育ててくれた。
それなのに親よりも先に旅立つというあってはならない親不孝を犯してしまった。
「お父様、お母様…ごめんなさい…」
「どうした、なぜ君が謝る」
「そうよ、あなたが謝る必要なんてないわ」
「ごめんなさい…逆縁の不幸をお許し下さい…」
フェリシアは流れる涙はそのままに、頭を下げて詫びた。
前世で娘だった若い女性が目の前で涙を流す。
アリシアは生まれたころから体が弱く、人生のほとんどを屋敷の中で過ごした。普通の人なら経験した人生の喜びというものをほとんど知らずに死んでいった。
ひとりで、誰にも看取られず。
体のことを思えば結婚させずにずっと手元に置いておけばよかったのだろう。
それでも一人の女性として結婚というものを味合わせてやりたかった。
たとえ体が弱すぎて子供は無理だろうと言われていたとしても。
それが前触れもなく突然儚くなるとは夢にも思わなかったが。
「何を謝る。謝るなら親である私たちのほうだ。君をひとりで逝かせてしまった。寂しかっただろう」
「そうよ、貴女に幸せな人生を与えられなかった私たちの方が謝る方よ」
母親だったコーデリア夫人が立ち上がりフェリシアの前で床に膝を突くとフェリシアの手を優しく握った。
「短い、生涯でしたが、私は幸せ、でした…」
ふわりとコーデリア夫人に抱き締められる。気が付けば抱き合ってお互い泣いていた。
フェリシアの気持ちが一旦落ち着いたところで、シオンが改めて婚約の報告をすると、二人ともとても喜び心から祝福をしてくれた。
「結婚しても『家族懇親会』は続けるのか」
「そうですね、職員の評判もいいので続けたいと思っています。これからはフェリシアにも手伝ってもらうことになりますが」
とブラウンの問いにシオンが答えた。フェリシアはきょとんとしてしまった。結婚するとなぜ『家族懇親会』を続けるのかという質問をされるのか、それがよく分からなかった。
「『家族懇親会』は、シオンが、前世のアリシアを思って始めたことだ。
家で孤立している君のために無理なく参加できる社交はなんだったのか、そしてもし君のような子が職員の家族にもいたのなら何をしてやれるか。
それを考えた結果が『家族懇親会』だったそうだ」
「私の、ために?」
「アリシアはいないのに、アリシアのために何をしてやれるのかだなんて今更だよな。おそらく罪滅ぼしか何かのつもりだったんだろうな」
自嘲するようにシオンは言った。
確かに『家族懇親会』のような気軽なパーティーがあったのならアリシアでも無理なく参加できただろう。もしかすると懇親会を切っ掛けに友人もできたかも知れない。
しかしそれよりも、フェリシアが思うのはシオンが前世の悔恨を未だに引きずっていることだった。
まるで前世のアリシアのことを深く愛していたかのようだ。そんな素振りは一切見せなかったのに。
「ありがとうございます、でも私は貴方と結婚できて本当に幸せでしたのよ」
「ああ、俺が勝手にしているだけだ」
目を合わさずにそう言ったシオンの耳が心なしかほんのりと赤くなっていた。
「アリシア、文官の労働規則で、長時間の残業に関するものがあるわよね」
「はい」
長時間の残業に関する労働規則と言えば、
◎ 五時間を超えて残業してはならない。
◎ 三時間以上の残業をする場合、一時間の食事休憩を取らなければならない。
◎ 二十一時を超えて勤務した場合、翌日の勤務開始時間は一時間遅らせることとする。
の三つの規則のことだ。
この規則は、どんなに忙しくても自宅の寝台で睡眠をとり、食事もきちんと取り、夜に家族の顔を見られなかったのならせめて朝食の時間だけでも家族で過ごして欲しい。そういう願いが込められていた。
「あれは前世の貴女のお父様と、シリウスさんが国王と掛け合って取り決めたものなのよ」
「…存じ上げませんでした」
「我々の仕事は国民のためにある。しかし一方で我々も国民であることに変わりはない。我々が家庭と家族を犠牲にしてまで仕事をし続けることはまた新たな悲劇を生むことになるだろう。その悲劇を少しでも減らさなければ文官の成り手がいなくなる」
フェリシアが安心してこの結婚に踏み切れたのは前世の父と、シオンのお陰なのだろう。
もし、シオンが前世と変わらず職場に泊まり込み、顔を合わせるのが月に数回などという労働環境だったら結婚しようと考えたかは疑問であった。
「お父様、お母様、私たち今世では絶対に幸せになります」
「ああ、なりなさい」
「何かあればいつでも頼りなさいね」
「「ありがとうございます」」
✳️
シオンとフェリシアが宰相夫妻と面会している時間、一緒に舞踏会へ来ていたロザリンドは化粧直しのためパウダールームにいた。
目の前には上半身の映る大きな鏡が張られているが、手にもコンパクトミラーを持ち、アイラインやリップラインのチェックをする。角度を変えて、明かりの当たり方も変えて。
鼻や額のテカりもないか入念にチェックした。
「あら、ロザリンド様。素敵なコンパクトミラーをお使いですのね」
声をかけてきたのは夜会やお茶会で時々顔を会わせる伯爵夫人だった。
ロザリンドの手の中にあるコンパクトミラーはフェリシアが刺繍を施し、宝飾工房とデザインの打ち合わせをして完成させた他にはない一点ものの品である。
光沢のある黒地に青い薔薇が華麗に咲き、小粒の真珠やメレダイヤが脇を飾る。白金の繊細な細工で縁取りされたそれは美しい出来で、フェリシアも満足の仕上がりだった。
「これ?息子の婚約者が刺繍して工房に作らせたものなのよ。
私に使って欲しいって言うものだから、ほら、使ってあげなきゃかわいそうじゃない?」
「まあっ!フェリシア嬢の刺繍ですの?!羨ましいですわ。私なんて嫁から手作りをしてもらったことなんて一度もありませんわ」
「あの娘、刺繍が趣味なのよ。
素人の手慰みにしてはなかなかの出来だからたまにこうやって使ってあげることにしてるのよ。姑も気を使うわ~」
「まあ!フェリシア嬢と仲がよろしいのね」
「仲がいいと言うより、あの娘、私に似てどんくさいところがあるから、面倒を見てやらないといけない感じね」
「どんくさいなんて、面白い冗談ですわ~。それにお美しいお嬢様じゃないですか。羨ましいですわ~」
「あら、もうこんな時間!私、夫を待たせたままにしてますの。急いでるので、ごめんあそばせ」
チラリと時計に目をやるとすでに十五分が過ぎていた。
夫のアンドリューを一人にしているため早く戻ってやらなければならない。
「いいえ、こちらこそ失礼いたしましたわ」
そしてロザリンドは夫のもとへ機嫌よく戻る。
───自慢するつもりなんて微塵もないのよ。相手が聞いてくるから、仕方なく答えただけだから。決して自慢じゃないの。
と心で言い訳をしながら、同じことをあと三回ほど繰り返すロザリンドだった。
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